心って何なんですか」---心の定義
20世紀前半の心理学は、自然科学の研究パラダイムをそのまま取り込んで研究が行なわれていました。そんな時代には、おかしな話ですが「心なき」心理学がアカデミック心理学として世の中を闊歩していました。
「心って何なんですか」などという疑問を持つ余地などなかったのです。観察できる行動とそれを規定している刺激との関係だけを客観的に記述すべしとする行動主義が、心理学の主流となっていました。心とは何かに思いをめぐらす必要のない?動物を使った研究が、「心」理学として当たり前のごとくに行なわれていました。
もっとも、こうした時代思潮の中でも、J.フロイトの精神分析(Q2・12参照)や、ゲシュタルト心理学などが、「心」理学の研究として細々とではありましたが、行なわれてはいました。
ちょっと脇道にそれますが、ゲシュタルト心理学について一言。その主張は、
「心的経験は、部分の総和以上のものである」に集約されています。 図を見てください。一つ一つの物理的な刺激を単に寄せ集めても存在しないはずの輪郭が主観的にははっきりと見えます。それこそ、部分の総和以上のもの、つまり形態質(Gestalt)の創発です。ここに心の特性をみようとしたのが、ゲシュタルト心理学です。明らかに、これこそ「心」理学と思いませんか。 ***主観的輪郭 別添
さて、こうした隠れ「心」理学の細いが強い流れが、20世紀後半になると、一気に主流を占めるようになってきます。
きっかけは、知的人工物・コンピュータの開発です。コンピュータで人の知的活動を真似してみようという野心的な試み(人工知能)に触発されて、人の頭の働き(認知機能)への関心が、マグマのごとく吹き出しました。それが、行動主義に対抗するものとして、認知主義の流れを一気に作りだし、現在に至っています。
「心とは何か」「意識と何か」「自己とは何か」といったような、心をめぐる根源的な問いが、哲学者や工学者を巻き込んで心理学の中で堂々と議論できるようになりました。なぜなら、人工「知能」というからには、「コンピュータに心は埋め込めるのか」「コンピュータに自己意識を持たせることができるか」などを考えざるをえなくなったからです。
そうした議論の中で出てきた、心とは何かを考える上で基本的な主張を2つほど紹介しておきます。
一つは、A.チューリングが提案した、コンピュータが心を持っていることを証拠立てる手だて(チューリング・テスト)です。 これは、人とコンピュータとを対話させたときに、その人が、相手がコンピュータであることに気がつかないなら、コンピュータは心を持ったとしようというものです。 言葉を操れれば、それは心がある証拠とするわけです。巧妙な、しかしちょっとずるい感じのする提案です。「心の実験室」に一つの関連した試みあげておきましたので、参考にしてください。
もう一つは、ソニーコンピュータサイエンス研究所・茂木健一郎氏が最近、脳機能と心に関する主張「クオリア(qualia;質感)こそ心なり」です(「心を生み出す脳のシステム」NHK Books))。
氏は、クオリアを2つに分けます。 」
1つは、感覚的クオリアです。これは、赤信号を見たときに感ずる、たとえば、「あざやかな赤」「りんごのような赤」というような主観的な感覚の体験(質)のことです。
もう一つ、志向的クオリアもあります。赤信号という言葉を聞いたときに、それが赤信号という物に「向けられている」という感覚のことです。言葉に意味を感じさせるもの、それも志向的クオリアです。
いずれも、質問への直接的な回答にはなっていませんが、「心とは何か」をぴたりと答えられたら、それで心理学の研究は終りです。この疑問を解くための終わりなき探求の営みの中から心理学は心についての豊かな知見を生み出してきたし、これからも生み出していくのです。
********** 心の実験室「コンピュータにも心がある?」********** カウンセリング場面での次の対話の欠けている部分に、あなたがカウンセラー(相談される人)だったらどう答えるかを入れてみてください。
相談者「人は皆同じです」 あなた1「 」
相談者「いつも何かで私たちを悩ませます」 あなた2「 」
相談者「私のボーイフレンドが私をここにつれてきました」 あなた3「 」
相談者「彼が言うには、私はいつも元気がないそうです」 あなた4「 」
相談者「本当に。私は不幸です」 「解説」 この対話の「あなた」のところに、次のようなコンピュータからの応答が入ります。自分の応
答と比較してみてください。
あなた1「どういうふうに?」
あなた2「何か例を思いつきますか?」
あなた3「あなたのボーイフレンドがあなたをここにつれてきたのですね」
あなた4「それはお気の毒です」
この応答は、カウンセリングの基本である傾聴、つまり、相手の言うことに対して「確認」と「同意」をすることに基づいたものです。
もし、次のような応答だとするとあなたには、カウンセらーには不向きかもしれません。解釈や反論や指示は、カウンセリングでは慎重に、が原則だからです。
あなた1「そんなことはありません。人は皆それぞれ個性があります」
あなた2「何かって何ですか」
あなた3「強制的にですか」
あなた4「人の見方はそれぞれですから」
本題は、カウンセリングの話ではなく、人に心があるかどうかの話でした。
これは、J.ワイゼンバウムという人が作った「イライザ(ELIZA)」という人工知能(というには、実はややお粗末なものなのですが)によるカウンセリング場面での応答例です。あまりにもよくできていたため、秘書がすっかりとりこになってしまったそうです。
なお、イライザはそこまではやってはいませんが、コンピュータに言語を理解させる試みは、人工知能研究の最大の課題です。場面を限定するなら、現在でもかなりのところまで成功していますが、人間の言語活動に備わっている臨機応変性、柔軟性を作り込んだ汎用人工知能は、実現できていません。今後も無理との悲観的な見方が一般的ですが、あなたが、この隘路からの脱出の手引きをしてくれることも期待したいところです。
20世紀前半の心理学は、自然科学の研究パラダイムをそのまま取り込んで研究が行なわれていました。そんな時代には、おかしな話ですが「心なき」心理学がアカデミック心理学として世の中を闊歩していました。
「心って何なんですか」などという疑問を持つ余地などなかったのです。観察できる行動とそれを規定している刺激との関係だけを客観的に記述すべしとする行動主義が、心理学の主流となっていました。心とは何かに思いをめぐらす必要のない?動物を使った研究が、「心」理学として当たり前のごとくに行なわれていました。
もっとも、こうした時代思潮の中でも、J.フロイトの精神分析(Q2・12参照)や、ゲシュタルト心理学などが、「心」理学の研究として細々とではありましたが、行なわれてはいました。
ちょっと脇道にそれますが、ゲシュタルト心理学について一言。その主張は、
「心的経験は、部分の総和以上のものである」に集約されています。 図を見てください。一つ一つの物理的な刺激を単に寄せ集めても存在しないはずの輪郭が主観的にははっきりと見えます。それこそ、部分の総和以上のもの、つまり形態質(Gestalt)の創発です。ここに心の特性をみようとしたのが、ゲシュタルト心理学です。明らかに、これこそ「心」理学と思いませんか。 ***主観的輪郭 別添
さて、こうした隠れ「心」理学の細いが強い流れが、20世紀後半になると、一気に主流を占めるようになってきます。
きっかけは、知的人工物・コンピュータの開発です。コンピュータで人の知的活動を真似してみようという野心的な試み(人工知能)に触発されて、人の頭の働き(認知機能)への関心が、マグマのごとく吹き出しました。それが、行動主義に対抗するものとして、認知主義の流れを一気に作りだし、現在に至っています。
「心とは何か」「意識と何か」「自己とは何か」といったような、心をめぐる根源的な問いが、哲学者や工学者を巻き込んで心理学の中で堂々と議論できるようになりました。なぜなら、人工「知能」というからには、「コンピュータに心は埋め込めるのか」「コンピュータに自己意識を持たせることができるか」などを考えざるをえなくなったからです。
そうした議論の中で出てきた、心とは何かを考える上で基本的な主張を2つほど紹介しておきます。
一つは、A.チューリングが提案した、コンピュータが心を持っていることを証拠立てる手だて(チューリング・テスト)です。 これは、人とコンピュータとを対話させたときに、その人が、相手がコンピュータであることに気がつかないなら、コンピュータは心を持ったとしようというものです。 言葉を操れれば、それは心がある証拠とするわけです。巧妙な、しかしちょっとずるい感じのする提案です。「心の実験室」に一つの関連した試みあげておきましたので、参考にしてください。
もう一つは、ソニーコンピュータサイエンス研究所・茂木健一郎氏が最近、脳機能と心に関する主張「クオリア(qualia;質感)こそ心なり」です(「心を生み出す脳のシステム」NHK Books))。
氏は、クオリアを2つに分けます。 」
1つは、感覚的クオリアです。これは、赤信号を見たときに感ずる、たとえば、「あざやかな赤」「りんごのような赤」というような主観的な感覚の体験(質)のことです。
もう一つ、志向的クオリアもあります。赤信号という言葉を聞いたときに、それが赤信号という物に「向けられている」という感覚のことです。言葉に意味を感じさせるもの、それも志向的クオリアです。
いずれも、質問への直接的な回答にはなっていませんが、「心とは何か」をぴたりと答えられたら、それで心理学の研究は終りです。この疑問を解くための終わりなき探求の営みの中から心理学は心についての豊かな知見を生み出してきたし、これからも生み出していくのです。
********** 心の実験室「コンピュータにも心がある?」********** カウンセリング場面での次の対話の欠けている部分に、あなたがカウンセラー(相談される人)だったらどう答えるかを入れてみてください。
相談者「人は皆同じです」 あなた1「 」
相談者「いつも何かで私たちを悩ませます」 あなた2「 」
相談者「私のボーイフレンドが私をここにつれてきました」 あなた3「 」
相談者「彼が言うには、私はいつも元気がないそうです」 あなた4「 」
相談者「本当に。私は不幸です」 「解説」 この対話の「あなた」のところに、次のようなコンピュータからの応答が入ります。自分の応
答と比較してみてください。
あなた1「どういうふうに?」
あなた2「何か例を思いつきますか?」
あなた3「あなたのボーイフレンドがあなたをここにつれてきたのですね」
あなた4「それはお気の毒です」
この応答は、カウンセリングの基本である傾聴、つまり、相手の言うことに対して「確認」と「同意」をすることに基づいたものです。
もし、次のような応答だとするとあなたには、カウンセらーには不向きかもしれません。解釈や反論や指示は、カウンセリングでは慎重に、が原則だからです。
あなた1「そんなことはありません。人は皆それぞれ個性があります」
あなた2「何かって何ですか」
あなた3「強制的にですか」
あなた4「人の見方はそれぞれですから」
本題は、カウンセリングの話ではなく、人に心があるかどうかの話でした。
これは、J.ワイゼンバウムという人が作った「イライザ(ELIZA)」という人工知能(というには、実はややお粗末なものなのですが)によるカウンセリング場面での応答例です。あまりにもよくできていたため、秘書がすっかりとりこになってしまったそうです。
なお、イライザはそこまではやってはいませんが、コンピュータに言語を理解させる試みは、人工知能研究の最大の課題です。場面を限定するなら、現在でもかなりのところまで成功していますが、人間の言語活動に備わっている臨機応変性、柔軟性を作り込んだ汎用人工知能は、実現できていません。今後も無理との悲観的な見方が一般的ですが、あなたが、この隘路からの脱出の手引きをしてくれることも期待したいところです。