まったんのトレーニング日誌

客観的に自分を見つめるためにブログ
(トライアスロンのためのトレーニング日誌)

根拠のない自信ってどこから

2018-05-29 14:07:52 | Weblog

根拠のない自信というのはどこから生まれてくるのでしょう。

僕はマラソンを初めて走った時みんながマラソンって無理無理と言っていました。
でも実際走ってみると 3時間44分台で完走が出来ました。そうするとみんなに勧める時僕もマラソンて、プロがやるスポーツだと思っていたことを説明するとだんだん一緒に走る仲間が増えていった。
会社の中で 20人ぐらい増えてきました。
会社の外でも煙草を吸って運動は 20年くらいやってないという人を、必ず完走できるということを話し実際 4カ月ぐらい一緒に練習して 4時間30分くらいで完走された。またうちの嫁も絶対やらないと言っていたのが、花見の時のお酒を飲んだ時の勢いで奈良マラソンを申し込み 4カ月くらいの練習で 4 時間57分で完走し、今のベストは 3時間 52分まで進んでいる。

人に勧めるときに自分の話しも重要になってくる、商売においてもそうである。
会社に入社した時、おとなしいので販売には向かないとお客様に言われたことがある。
それから同じところで (同じ部署で )12年間仕事をしてみると、お客様に信頼されるようになった。
20年もすると売り上げは一人で 13億の予算を持つようになった。

最後はどうにかなるという思いで何事にも挑戦してきた。最終はトライアスロンというスポーツに出合い、友達もいろんなところに出来た。

現在けがをして入院していますが、いろんな友達が見舞いに来てくれていろんなことを教えてくれる。情報というのは自分が知らないだけで何かを解決するときどこかにあるものである。

その時自分はできるという自信が生まれてくると思う。何かに悩んだり壁にぶつかったりしたとき、今まで付き合ってきた信頼における友達に救いを求めるのも大事だと思います。
こうして今音声で人に連絡をすることができるのも、テレビを音声で動かすことができるのもみんな自分が知らなかっただけで友達がやってくれた。きっとできるという自信を持つことが大事だと思います。

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宮古島トライアスロンでの脱水症状

2018-05-28 14:17:47 | Weblog

1995年の四月宮古島トライアスロン大会において脱水症状を越してしまいました。

この年は 1月17日に阪神淡路大震災が起こり仕事面でいろんなことが起きました。
十日ぐらいたって神戸市のお客さんに、お見舞い金を持っていくことになりました。
しかし伊丹あたりで電車はいかず、車もいっぱいで動けない状況でした。
それでいったん淡路島まで船で移動し、そこからまた船で神戸方面に行くことになりました。
行ってみると道路に段差があったり、家は倒壊していたりびっくりすることが多くありました。
また 1カ月後炊き出しに行ったりしていました。

そんなこんなで一月から四月までほとんど練習ができない状況でした。
水泳は何とかジムで練習していましたが、バイクとランはほとんどできませんでした。
レースのバイクの途中で水が飲めなくなり、スポーツドリンクは何とか飲めていました。
でも前年よりかなり悪いタイムでランにつなぎましたが調子がなかなか出ませんでした。
ランニングの折り返しで腰が痛くなりゆっくりとしか走れなくなりました。
やっぱり水はのめなくスポーツドリンクだけ飲んで走り何とかゴールりました。

総合タイムは前年より 2時間ぐらいおそくなりし、ゴールした時体調もすごく悪かった。
前年いつも一緒に行っている友人がゴール後調子が悪くなり夜に病院に入院することになりました。そんなことがあったので、遅かったが体育館の救護センターに行き点滴を受けるようになった。
通常 500ミリのブドウ糖を 1時間ぐらいかけて落とすのを、終わる時間だったので 30分ぐらいで落としてもらった。その時診察をしていただいたお医者さんが言っていたのは、水が取れなかったので脱水症状になっているということでした。病院に入院しますかと聞かれましたが大丈夫ですと返事し何とかお世話になっている家に帰ることが出来ました。

トライアスロンというスポーツは完走すると、脱水状態になっていることは多いらしい。
あまり無理はできないと思いました。

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中島先生との出会い

2018-05-22 15:09:18 | Weblog

中島先生との出会いは、酒屋さんをやっている方の同級生で金剛葛城山下 1周駅伝で出会ったのが初めてです。初めは酒屋さんが中心で駅伝に出ていましたが、のちに中島先生が中心となって駅伝を走っていました。初めて見たときもう痩せられていましたが、ブログの写真を見るとかなり太っておられたように思います。もともと有名校の陸上部ということで知り合ってからは駅伝の一区を中心に走っておられました。記録もどんどん伸びてきてグループ内の存在感を増しました。

金剛葛城山下 1周駅伝に誘っていただいたのはちょうど雪で初めて中止になった大会でした。奥さんも走っておられ何度か同じ大会に出ましたが必ず 1分ぐらいの差で先着されていました。その中島先生御夫婦と妹さん御夫婦と僕と池田さんで駅伝のチームを作っていただきました。残念ながらチームで一緒に走ることはかまいませんでしたが、池田さんとその後何度か同じチームで走らせてもらいました。

中島先生は接骨院の先生で神の手というものを持っておられました。
足をひきずりながら治療に来られた方が、治療を済ますと普通に帰るという神話が生まれました。
僕も何度かレースの前に調整を兼ねて治療に伺いましたが調子は良かったです。
Team 42というランニングクラブの中でも神の手が発揮された選手が何人かおられました。

うちの住んでいる近くにもう一つの接骨院があります。家族で走っているため少しずつ故障がありました。嫁と上の子供は頑として神の手の中島先生の所にはいかず近くのところに行っています。

最近は僕が怪我をして入院しているのでなかなか接点はありませんが、すごいランナーの一人です
。東京の大学に行かれ資格を取られ、青学に行かれていた奥さんと知り合われたみたいです。

いつもならマラソンの前とか駅伝の前には必ず、先生の神の手が発揮されています。

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懐かしい柴田さんとの篠山マラソンの下見

2018-05-20 15:19:19 | Weblog

マラソンは丹波篠山マラソンに 20回以上出場しました。とにかく家から近いのが良かったです。

下見に行った時あのころ国鉄時代だったかも知れませんが、大阪駅から電車で行って少し悪さをしましたが見つかってしまい、少し怒られたような記憶が残っています。

一緒に行ったのは柴田さんという先輩で、マラソンを初めて走る時だったと思います。僕は数回走っていましたので心配はしていませんでしたが、下見をしたいという要望があったので一緒に行きました。
まだ昔のコースで 15キロを超えたぐらいで峠を越えて行くコースで、僕は極端に上り坂が嫌いでスピードが一挙に落ちてしまいます。しかし下り坂はスピードが上がります。柴田さんは上り坂が得意で僕を離していきますが、下り坂で何とか追いつきます。その傾向はどこのマラソンも一緒で上り坂があると一気にスピードが落ちてしまいます。

その時の時期が二月のはじめだったと思いますが、20キロを超えて中間点に向かっていた時凄い雪が降ってきて練習どころじゃなくなりました。それで帰りは峠を通らず帰ってきました。
それが今のコースになっています。

すごく寒かったのでお風呂のあるところで、ゆっくりおふろにつかって帰った覚えがあります。
下見に行ったのは最初で最後でした。

篠山マラソンのベスト記録が 3時間 4分 48秒で何十回と走った中でトップです。

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ウルトラマラソンについて

2018-05-19 10:21:46 | Weblog

一度書いたと思いますがウルトラマラソンのことを書きます。

仲のいい野村さんと 1995年 10月15日に行われた第二回四万十川 100キロマラソンに参加しました。どんなものかわからず練習方法も、8月くらいから準備にかかりました。
長い距離を二日に一回走るようにしました。週に一度会社から家まで野村さんと一緒に走って帰りました。距離にして 40キロくらいを何週間続けたと思います。

九月の頭に野村さんと一緒に 10時間ぐらいを走る練習をしました。橿原神宮をスタートして天理方面に行く山の上の道だったと思いますがゆっくり時間をかけて走りました。
九月の二十日の水曜日休みを取って、もう一度自分で 10時間くらいを走りました。
自分の家から国分方面に走り、国分から王寺に行っていろいろ周り自分の家に帰りましたる。
およそ 70キロくらいだと思います。それでもかなり疲れます。
休みを取った日は中間決算の〆の日であったので、後でマネジャーから叱られてしまいその次の人
事で異動させられました。

レース前日の車での下見で風邪をひいてしまい、調子が悪かったこともありますがスタートはあまりよくなかったです。その後一緒に行った野村さんと女子で優勝した人と 20キロの上り坂の最後まで行きました。それから野村さんと別れて、スピードを上げる。マラソンの距離で 3時間50分ぐらいで通過し、50キロで 4時間 30分で通過した。女子の人とスポーツ店のインストラクターと 60キロ地点の休憩所まで一緒に走りました。10分ほど休憩してまた 3人で走り始めた。しばらくいこと急な坂がありそこでその人達についていけず離れてしまう。70キロくらい行くと急に走れなくなり、優勝した女性は 9時間少しでゴールして順位は全体の 30番目ぐらいだった。

僕はそのあとキロ8分を超えて走り 10時間 41分 53秒でゴールした。1200人くらいの参加で 855人完走その中で 140位だった。1時間くらい後にゴールした野村さんを待って高知行きの電車に乗り、高知から夜行の船で大阪に帰ってきて会社に行った。しばらくしてマネージャーと話している時急に倒れて救急車で病院に運ばれた。ものすごい疲れがたまっていたみたいである。
結局またマネージャーに怒られ上に書いたように次の年に人事異動がありました。

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10キロレースの記録をアップする練習( 自己流)

2018-05-17 15:38:31 | Weblog

10キロレースのベストタイムは、39分 30秒で桜井市民マラソンで記録した。

10キロレースを速くなるには、1キロのベストタイムを参考にします。1キロを 3分 30秒で走れると 40分前後のタイムで走れると思います。
1キロを 5分で走ると 55分前後のタイムで走れると思います。

マラソンと違ってもがく練習が必要になってくると思います。週に一度 1キロを全力で走る練習をすると記録は伸びてくると思います。本数にして三本から 5本くらいを目途に練習するといいと思います。
ハーフマラソンでは 3キロのベストタイムを基準に考えるといいと思います。11分 30秒くらいの記録で 1時間 35分前後で走れると思います。

とにかく短い距離をこまめにスピード練習をすると記録は伸びてくると思います。

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突然ですがお酒の話

2018-05-16 14:11:36 | Weblog

話しは変わりますが、お酒を本格的に飲むようになったのは大学時代のアルバイトの先でのことです。
阪急百貨店の地下売り場の三平水産というところにアルバイトに行きました。

いろんな方がいらっしゃるところで、いろんな先輩にかわいがられました。天野さんという方は空手の名人で関西学生 BEST 8くらいの腕前でした。北の飲み屋の後輩がやっているスナックによく連れて行ってもらいました。今まではお酒やビールは少しは飲んでいましたが、初めて水割りをいただきました。わけもわからず 8杯くらい飲んで、下宿の上新庄まで帰れず四つ上の中津に住んでいる先輩の家に泊めてもらうようになりました。帰る途中で必ずと言っていいほどリバースしてしまいました。それで少しは強くなってきました。もちろん 20歳は越えていました。

家で飲むようになったのは、3Mという仲間でフリーマーケットに行ったあと商品で出していたバドワイザーが残ったため、3人で分けて飲むようになりました。
初めは 350の缶ビールから 500の中瓶になり、大びんを毎日飲むようになりました。
社会になって中ジョッキ2杯くらいまでが、大ジョッキ 4杯ぐらいまで飲めるようになりました。

トライアスロンを始めてから少しやめていました。ママさんバレーの宴会でビールの中で何がおいしいかというの議論が始まりました。結局一番多かったのはキリンの端麗のグリーンラベルでした。それから毎日といっていいほど、缶ビールを飲みました。初めは 350でしたがだんだん物足りなくなり、500をのむようになりました。

そうしてけがをするまでのんでいました。

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初心者のマラソン練習方法( 自己流)

2018-05-13 14:31:09 | Weblog

僕は考えるマラソンの練習方法を書きます。

まずフルマラソンの目標の時間を決めます。その目標と期間によって

練習方法が決まってきます。

目標が5時間の場合週2回の練習、一回は 5キロともう一回は 20キロくらい

をゆっくり走り、月に 100キロくらいを 4カ月間ぐらいで達成すると思います。

目標が 4時間半の場合週あと一回 5キロぐらいをスピードを上げて走る練習を

増やすことと、もう一回の距離を 25キロくらいにし月に 150キロを 4カ月。

目標が 4時間の場合週に 3回くらい走る、その中の一回はスピード練習をする。

月に 200キロくらいを 4カ月間を練習したら達成すると思います。期間は 4カ月

くらいで大丈夫だと思います。

もっと速い目標の時は距離を延ばすのと、スピード練習を増やすと 3時間 30分

くらいまでは、Timeを上げることができると思います。

まずは大会に申し込み、目標を立てることが大事だと思います。

すべて自己流ですがマラソンの本に書いてあることとあまり変わらないと思います。

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4月22日 宮古島トライアスロン大会の報告会

2018-05-10 14:16:09 | Weblog

4月22日沖縄宮古島トライアスロン大会に出場した選手 2名が

三重県の四日市市と鈴鹿市から、今入院している羽曳野市の

病院に報告会を兼ねて見舞いに来てくれました。

一人は 1600人以上の中で 59位と好成績をあげました。過去では

39位が最高です。今年は湿度が高く記録の割に順位は良かった

みたいです。もう一人は制限時間ぎりぎりという離れ業をやって

13時間 31分もの間運動を続けていた。こちらの方がしんどそうだ。

二人とも無事完走を果たし、来年の健闘を誓っていた。

また応援に行った二人の女性も、宮古島生活を満喫していた。

おいしそうな沖縄料理や、マンゴージュースやケーキなど食べ物も

非常においしそうであった。

十一月にあるハーフマラソンに選手二人と妻も参加を表明していた。

楽しそうなみんなの顔を見ると、宮古島に行ってみたい気になる。

いつかは達成したい目標の一つである。

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3回目のハワイへ

2018-05-05 11:32:57 | Weblog

3回目のハワイはバブルの時代に 5年目以上の社員に、社長のポケット

マネーで連れて行ってくれました。9年目までは少しの補助が必要でした。

僕はちょうど 9年目だったのと、嫁と一緒にいたのでかなりかかりました。

この後もハワイツアーは続きましたが、研修となりレポートを出すだけで

料金はいらなくなりました。5年目になる年に会社から行くようになりました。

この時は離島へは行かずオアフ島のみで遊びました。ホテルは前回と一緒で、

ハイアットリージェンシーだったと思います。加藤さん夫婦らとよく遊び

ハナウマ湾でシュノーケリングをし、カラフルな魚と一緒に泳ぎました。

もちろんトップレスギャルもいました。帰りにバスで水着のままワイキキに

帰ってきました。また近くの公園でテニスを数人でやっていたら、外人の

人も一緒にゲームをしたことを覚えています。ショッピングはアラモアナ

ショッピングセンターに行きました。ブランド品がたくさん出ていましたが

Tシャツなどのお土産を買っていました。

最後には 30人目くらいで会社もちで宴会をし楽しかったです。

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