まったんのトレーニング日誌

客観的に自分を見つめるためにブログ
(トライアスロンのためのトレーニング日誌)

大分県へ

2018-10-21 15:20:35 | Weblog

別府に初めて行ったのは高校の時の修学旅行の時です。南港からサンフラワーで別府に行って温泉巡りをしてやまなみハイウェイなどを通って、別府で泊りました。たくさん面白いこともあり、とてもいい思い出になっています。友人がお酒を買いに行って向うの補導員に伝わったことなど、懐かしいことがたくさんありました。

それから次に行ったのは、九州一周出張販売に行くようになってからです。何度かいったところで、無料で入れる温泉があることを宿の人から聞いて、最初に言ったのが鶴の湯というところでした。車で泊まっているところから 20分くらいのところです。少し仕事が早く終わった時によく行っていました。そこでよく温泉に来ている人から話しを聞くと、ここのほかにへビンの湯や鍋山の湯などが三大野泉といって別府では有名なところでした。

特にへビンの湯は入るところが五つほどあり、入りに来ている人も多かった。ホテルから 30分ぐらいの場所でした。いろんな人とそこで出合いいろんなことを学びました。
別の鍋山の湯は泥湯が二つあり、透明な温泉が二つありましたが山に登って行くところなのでなかなか行きにくかったです。しかし外人の人などもよく来ていました。
ほかにも別府は温泉がたくさんあって、今でも温泉県といわれるほどいろんな変わった温泉がたくさんありました。

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長崎へ

2018-10-18 11:10:43 | Weblog

長崎にはじめて行ったのも青木君のドライバーとして一緒に行きました。自分の担当客はありませんでしたがよく知っているお客さんばかりで行きやすかったです。しかし癖のあるお客さんも何軒かあり、何しに来たのかを問い合わせてくるお客さんもいらっしゃいました。この当時 60坪から 100坪前後のお客さんが、しまむら対策として 300坪に大きくしている途中でした。力のあるお客さんはそれでよかったですが、売り上げの少ないお客さんも一緒になって大きくしていました。後になって資金繰りや、個店の売り上げで問題になったお客さんもいらっしゃいました。

長崎に行くときは長崎空港に大阪から行くんですが、長崎空港が海の上にあるので海に突っ込んでいく感じで着陸するので少し怖い気がしました。もっといろんなところに行っておけばよかったですが、長崎ではお客さん以外にいってないように思います。

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佐賀県に

2018-10-13 15:12:41 | Weblog

初めて佐賀県に行ったのは、鳥栖というところに会社が物流センターを作った時でした。そこで年6回大阪でやっているセット販売というのをすることになりました。日曜日に新幹線で新大阪から博多に行ってそこから急行で鳥栖まで行きました。一度遅刻をしてしまい、みんなと一緒に乗る新幹線に乗れずにいました。のぞみに乗ると新下関でみんなが乗っているひかりに追いつくことがわかったのでそれに乗っていくことにしました。当然乗車券はひかりなので、割増し料金が発生するので乗務員に見つからないように、トイレや座る場所を変えていました。しかし広島駅で見つかってしまい怒られ、別のひかりに乗せられました。そうすると博多から出る急行に間に合わず鳥栖のセンターに遅れて行ってしまいました。その時東京だったら遅刻扱いになっていましたが、九州の責任者はやさしかったので不問でした。

またその当時ホテルは繁華街のある久留米にホテルをとっていました。そこでよく鳥栖物流センターから久留米のホテルまで 10キロくらいを、柴田さんや野村さんなどと走って帰ったことを思い出します。ブリヂストンの発祥の地がありました。いろんなコースを走って帰りましたが、まっすぐ帰るのがベストでホテルのそばの公園で調整をしていました。

その次に行ったのはいつもの九州にお客さんをたくさん持つ、青木君の運転手で回ったことです。九州商友会のメンバーを回りました。泊まりはいつも嬉野温泉にホテルをとってくれていました。お客さんを回り終ると夜の接待があり、今はどこで何を食べたか忘れましたがカラオケには行きましたね。そのお客さんたちは非常になれておられて、スナックだったと思いますがうまい歌を聞かせていただきました。僕らも負けずに歌いましたが、青木君はすこし恥ずかしがりやで困りました。接待は終るとホテルに帰り、ホテルの前の大浴場に行きました。楽しいことがたくさんありましたが、人が少ない時期に行くので楽しみも半減してしまいます。

その次は別の会社で九州一周出張販売の時でした。高知のお客さんに紹介されて商売が始まりました。初めは景気のいい感じでしたが、作業服中心なのでなかなか商売は難しかったです。しかしそこの社長やバイヤーさんはとても感じは良かったです。一回九州道が事故渋滞になって 4:00のアポイントを 7:00に変えていただいた時も嫌な顔をせず、7:00からの商談を待っていてくれました。その時はもう駄目かなと思いましたが、に事情説明したら変更していただきました。

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宮崎2

2018-10-12 15:41:50 | Weblog

それから宮崎によく行くようになったのは、九州を一周回る出張販売に出かけることになったときです。船で別府に行って福岡に入り佐賀長崎熊本鹿児島宮崎と周り、最後はまた別府から船に乗って大阪に帰ってくるコースを 1年に 5回ぐらい回りました。

鹿児島の鹿屋市から最初のお客さんは、都城市の作業着を中心に売っておられるお店です。店長と気があって、その店長が結婚するまで九州の中では一番のお客様でした。都城市はふるさと納税が盛んで日本一にも何回かなっています。返戻金が都城牛や焼酎の黒白霧島などが有名です。

都城の飲み屋で知り合いになった人で面白い人がいてました。ホテルの駐車場に車を止めていると、少し離れた所からにこにことしながら近寄ってきて同じホテルに (ビジネスホテル )入ると、話しかけられてきて夕食を一緒にしようということになりました。(ちょっと怪しげな感じがする) タクシーの運転手をされている人で月に一度、鹿児島の田舎の方からのみにくるらしい。妹さんを介護している人でなかなか自由がきかないので、月に 7、八万円くらいしか収入がないが何とか頑張っているとおっしゃっていました。一軒目の居酒屋で向こうの方が誘ったので支払いを下げるというので、では 2件目は僕は払うというと安いカラオケやに連れて行かれました。その人のなじみのお店で、値段は安かったです。ただうたっているとしきりに、体をひっつけてくるのが気持ち悪かったです。または再開を約束しそこで別れましたが、それから合うことはありませんでした。

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宮崎へ

2018-10-04 14:08:09 | Weblog

宮崎にはじめて行ったのは、高校の修学旅行のときでした。別府から熊本の阿蘇の方に行って宮崎方にバスで移動した。楽し思いを宮崎でしたように思い出します。青島に行って海岸を歩いたことを思い出します。

次に行ったのは丸光に入社して 7、8年くらいしてからだったと思います。そのとき靴下のバイヤーと一緒に 20坪から 60坪に移転オープンするお客さんところに応援で行きました。そのバイヤーとはあまり親しくありませんでしたが、のちにまた一緒に仕事をするようになりました。

それから行ったのは担当のお客さんが宮崎にできてからだったと思います。なかなかお店に来てもらえず、気に入ってもらうまでもかなり時間がたちました。中心になるお客様に対しては、来ていただいた時は必ず昼間と夜の接待をしていました。そうしている間にその方と仲良くなり、非常にたくさん買っていただけるようになりました。また見切り商品などが出たとき、いの一番に電話してかたまりを買っていただきました。売り上げに困っている時電話をすると、商品見本を持って店においでといってくださり、グループである程度買っていただきました。

そんな時僕の友人の S君がなくなったことを、東京の友達から聞きました。S君とは高三のとき畑野という友達を通じて知り合いました。大学に行っている時よく夜に集まって遊びました。大学卒業してからは会うことはあまりありませんでしたが、いところに就職して頑張って 40を過ぎたころに独立し会社を興しましたが、あまりうまくいかず結局会社をつぶして、奥さんとも別れ両親がいる宮崎に帰りました。数カ月入院する病気になりましたが、何とか宮崎で宅配の仕事を始めました。父親と海釣りに行って、父親が目を離したすきに波に持っていかれて二日後発見されました。そのことを友人から聞いて、お客さんに連絡するとすぐに来いと形だけ出張販売のようにして出張しました。そうして午前中だけで仕事を切り上げ、両親の住んでるところに連れて行ってくれました。突然のことで、お悔やみを申し上げ帰ってきました。いつも 3人とか 4人で遊んだことを思い出します。

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