まったんのトレーニング日誌

客観的に自分を見つめるためにブログ
(トライアスロンのためのトレーニング日誌)

ランニングの聖地

2018-08-28 14:13:42 | Weblog

ランニングのセイ地というのはどこだろうか。自分がいつも走っているランニングコースがそれにあたると思うのと、初めのころ長い距離を走るのに使っていた距離がわかる長居公園のランニングコースかそれとも、走っている人が最も多いと思われる東京の皇居の外周か。

自分が走っているコースは、前にも書いたが家を出て近所をまわる 7キロコース、それを少し延ばした十キロコース、平たんでジムから自転車道路を走りそこでが走るの 23キロコース。葛城駅伝の 25キロコース、起伏の激しい金剛葛城山下 1周駅伝の 28キロコースなどがある。

初めに長い距離を走った長居公園ランニング一周 2813mを 8周から 10周の 23キロから 28キロ、また 1キロごとにマークがあるので 1キロのインターバルや、3キロ、5キロのロングインターバル。10キロ、15キロのペース走。

出張して東京に出かけるときに走る、一周 5キロの皇居のランニングコースを何週か走る練習、大体 25キロから 30キロ走っていた。

みんなが走っている皇居が一番たくさんの人が走っている。長居公園もたくさんの人が走っている。自宅の近くのコースは自分だけ。

結局セイ地は一番走っている人が多い皇居が一般的に言われると思う。自分的には一番よく走っていた近所の十キロコースが聖地になると思います。

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Nさんとの出会い

2018-08-18 10:50:53 | Weblog

Nさんと出会ったのは会社に入ってすぐの時でした。鳥取の先輩が持っているお客さんが Nさんの商品をよく買ってくれてからの付き合いです。4年目にはバイヤーになるくらいの、優秀社員です。文字はすごくきれいで、僕はミミズがちょろちょろしているような文字だったのでとてもうらやましかったです。

年齢はは僕と同じでしたが、入社が 1年先輩だったのでずうっと付き合ってくれていました。ランニングを初めて、少し経ってからマラソンの道に誘い一緒に大会によく出ていました。

初めて 100キロマラソンを走るときに、Nさんだけ誘いに応じてくれて一緒に練習を重ねました。家が同じ方向だったので、よく一緒に会社から家の近くまで 40キロ近くを走りました。またロングの 70キロくらいの練習を朝早くから一緒に走りました。

レースのときは前にも書きましたが、いつ帰って来るのかわからなかったが、無事に時間内に入って来てくれて会社まで帰りました。そこで疲れがたまっていてぼくが倒れて救急車で運ばれるという事件を起こしてしました。

もともと頭がすごく良くて、いい高校に行けるはずでしたがちょっとしたアクセントで別の高校へ行かれました。しかしそこからいい大学に行かれて丸光にはいられました。

少したまにキズなのはすぐに、怒られることです。武勇伝はたくさんあり一つ一つ紹介はできませんが数えきれないくらいあると思います。それを面白く話して下さるのは、僕らもスカッとします。

けがをしてからも何度も見舞いに来てくれています。この方もスポーツを通しての友人の一人になってくれています。

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Hさんとの出会い

2018-08-09 13:56:20 | Weblog

今でも続いている友人関係の一人の Hさんとの出会い。身長は 161センチで体重はそのころ 64キロくらいだと後から聞いています。

初めてのロングの大会の第7回宮古島トライアスロン大会で出会いました。僕らは 3人砂川さんというところでホームステイをしていました。3人の中で Tさんさんと友達ということで、会場に行くのに一緒に車で連れて行ってくれました。自転車は前日に預けていたのでウエットスーツや、靴などの荷物と一緒に僕ら3人と Hさん夫婦と会場まで連れてってくれました。

ランの途中で僕が走り始めて 5キロもいかないところで、Tさんと出会いこんなにも差があるのかと思っていました。Hさんは僕より 20分くらい前にゴールしていて11時間 20分くらいでした。今では 13時間 30分くらいになってしまいました。体重は当時より 16キロくらい増えて 80キロくらいになっています。レースが終わった次の日に Hサンらがホームステイしていたところをに僕らも呼んでいただき沖縄料理を御馳走になりました。

しかし今では 4キロくらい体重を落とし、十一月にあるハーフマラソンに備えて練習を月に 200キロくらい走り込んでおられますので、ランニングのタイムは格段に上がるものと思います。

僕はけがをする前まで毎年宮古島で同じところにホームステイしていて、けがをして入院してからも年に 3、4回は遠くから見舞いに来てくれます。トライアスロンというスポーツを通していろんない友人が出来て今でも付き合いはある人が多いです。

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歌とギター

2018-08-03 15:05:30 | Weblog

僕は音楽や歌となじみ出したのが昭和37年に我が家にテレビがけたころだと思います。音楽番組や時代劇、プロ野球などをよく見ていました。プロレスなども父親が好きでよく見ていました。

歌を最初に身近に感じたのは、ふろに入って父親がよく歌っていた軍歌が最初だったと思います。父親から教えてもらったのは軍歌だけだったと思います。それから兄や姉が平凡、明星などの雑誌を買ってきて付録に歌の本が付いていてそれで歌をよく覚えていました。昭和 40年ぐらいからの歌はよく覚えています。

中学に入ってお年玉でラジオデッキをかったころから、よくラジオで歌をカセットテープで録音し覚えていました。中学2年ぐらいから深夜放送を聴き始めて、勉強もラジオを聴きながらしていました。中学三年生の夏休みを超えたぐらいから受験勉強 (たいして成果も上がらず )もラジオ聴きながらしていました。

楽器に直接触れるようになったのは、高校二年生の冬ぐらいだったと思います。同期の永井君が選択科目で音楽をとっていて、練習が終わった後かぐや姫の神田川を弾いてくれて僕もやってみたいと思ったのが最初です。富田林の中古を扱う店で、5000円の白いギターを買いました。コードなどをを引いていましたが、三年生の時同じクラスの畑野君がいろいろ教えてくれて、アルべジオやスリーフィンガーなども覚えて弾ける幅が広がりました。主にフォークソングを弾いていましたが歌謡曲などもコードが書いてある歌はよく弾いていました。

大学に入り時間が多くできたのでギターをよく弾いていました。そこそこは上達しましたが会社に入り違うことに時間を費やすることが多くなり、楽器から離れて行きました。しかし音楽はカラオケなどでよく歌うようになりました。

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