エレミヤ書18章1~12節
エレミヤに神様は、陶工のところへ行けと言われました。いわゆる、フィールドワークです。神様は、具体的な現場を見せて、そこからエレミヤに神様の言わんとするところを理解させようと考えられました。陶工とは、陶磁器を作る職人です。エレミヤは、陶工が粘土からいろいろな器を作るのを見ました。そして、せっかく一つの形ができても、それが気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのでした。陶工には、できあがった形に対する良いものかどうかのその人なりの基準があったことでしょう。
それに照らし合わせて、できたものの形が気に入るかどうかということでした。納得できなければ、気に入らなければ作り直すのです。神様もユダの人々に対して、そうあって欲しいという形がおありだったと思います。それは、自らの意思で、神様を愛し、神様に従うという姿勢でした。しかし、ユダの人々はなかなかそうはならなかったのでした。それどころか、むしろ、異教の神々を拝むという真の神様への背信行為を続けておりました。
例えば、19章の4節からのところには、こうあります。「それは、彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである。彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった」。
神様は、エレミヤに、「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もお前たちに対してなしえないと言うのか」と言われました。つまり、その背後には、イスラエルの民は、神様が選ばれた民であるから、どのようなことがあっても、それを神様が自らの手で壊すなどということがあるはずがない、といった甘い考えがあったということです。神様は、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」と言われました。それは、陶工のように、いつでも、壊し作り直すこともできますよ、という警告、悔い改めを迫るものでした。
「もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」。そして、エレミヤはそのような神様の思いをユダの人々とエルサレムの住人に告げました。彼らは、「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」、そのように応答しました。19章では、神様が、エレミヤに陶器の壺を民の長老と幾人かの祭司たちの前で砕かせ、そのときに次のように裁きを告げよと言われています。「陶工の造った物は、一度砕いたならば元に戻すことができない」。
今日の箇所では、まだ、悔い改めを迫る神様のお姿があり、悔い改めるならば、彼らに下そうとしていた裁きをやめようということでした。しかし、18章の12節にあるように、彼らは、「それは無駄です。我々は我々の思いどおりに、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」と、居直ったのでした。そして、19章の先ほどのような他の神々を拝み、異教の風習に従って、人をいけにえとして献げるなどの行為を続けたものと思われます。
それに対して、今度は、陶器を割ってみせて、このように一度砕いたものは元に戻らない、と裁きを伝えることになりました。
まだ、粘土のように柔らかいうちは、形を変えることは可能ですが、いったん焼いて固まってしまったものは、形を変えるということはできません。気に入らなければ、割ってこわすしかないのです。
神様が陶工で、私たち人間が、粘土であったり、陶器であったりといった具合で、両者の関係を説明している聖書の箇所はいくつもあります。本日の招きの詞、招詞は、イザヤ書64章の7節でした。「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工。わたしたちは皆、あなたの御手の業」。私たち人間は、神様の創造の産物です。神様が私たちを造られました。それなら、すべては、神様に責任があるのでしょうか。
同じく、イザヤ書の45章9節には、「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うであろうか。何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない、などと」。神様は私をもう少し、このように作ってくれたらよかったのに、というように私たちは、自分の容姿などについて、不満を創造主なる神様に言うことができるだろうか、というお話です。
陶工は神様であり、私たちをいかようにも作ることができますが、私たちは、すべてを神様にお任せして、神様がよいように造られるこの自分を喜ぶことだと教えられます。
しかし、今日の聖書の箇所では、造られたこの私は、何とか陶工が気にいる形に、自らの意思をもってしても努力することが求められているというものです。神様が造られたのだから、こちらには何の責任もないのかというと、そうではありません。器は作ってもらいましたが、その器がかもしだす雰囲気などについては、造ってもらった側にも責任があるのではないか、そういう感じであります。
粘土である私たちは、神様に自分の形を作ってくださることを願いつつ、神様に身をゆだね、そして、同時に、神様が作りやすいように、自分の身を柔軟にし、つねによりよい形に造られるように、粘土としての身を整えていなければならない、そういうことでもあります。決して、頑なになることなく、柔軟にして、もし、創造主なる陶工の神様が、これは気に入らないというのであれば、すぐにでも、形を変えられるようにしておかねばなりません。
神様が、悔い改めを迫ったとき、ユダの人々、エルサレムの人々は、まだ、柔軟に見えたのではないでしょうか。粘土であり、まだ、形を変えようと思いさえすれば、変えられたのでした。しかし、彼らは、「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいだのから」と形が悪いのに、造り主なる陶工としての神様が気にいっていないのに、その形に固まる道を選んでしまいました。罪の身に固まることをしました。非常に強情なさまが描かれています。否、悔い改めようとしないことが、そもそも大きな罪だと言えるでしょう。彼らは、神様に従うというのではなく、神様を自分たちの楽しみごとや欲望のために仕えさせる、そのような者たちでした。大きな罪の中にありました。
エレミヤは、焼かれてできあがった陶器を砕きました。おそらく、こなごなに砕け散ったことでしょう。もう、元に戻るなど、想像だにできないさまに変わり果てたことでしょう。それらを集めたところで、それからもう一度、何かを作ることができるなど、ということはとても考えられません。あとは、粉々に砕かれたものが、ゴミ捨て場に捨てられるだけということになります。
私たちの存在もまた同じです。神様が、悔い改めるという機会を与えたにもかかわらず、否、今の自分のままで結構、私は、私の思いのままにこれからも生きていくだけだ、そう答え、神様の憐みを無視します。そのとき、私たちもまた、木端微塵に砕かれるのです。再生不可能のチリとして、葬り去られるのです。
まさに、ユダの国が、エルサレムの都がそうでありました。バビロンによって、粉々に都は破壊されてしまいました。主だった者たちが、バビロンに捕囚として連れていかれました。それは、バビロンをとおして、神様がくだされた裁きでした。
しかし、救いの出来事というのは、そうであったにもかかわらず、というところにあります。実は、私たちキリスト者たちの理解では、頑なな罪多き私が砕かれるはずだったのに、わたしではなく、神様の独り子であられたイエス様が、砕かれたということになっています。そのような理解に立っています。
神様の怒りは、もうこのような変りようのない器、気にいらない器など壊してしまえ、というものです。あれほど、もう少し柔軟になって、悔い改めよ、今の形を変えよ、と憐み深い神様からの促しがあったにもかかわらず、彼ら自身がその促しに応えようとはしませんでした。そのために、人間は、神様からの怒りによって滅びへと定められた存在になってしまいました。
しかし、義なる裁きの神様は、同時に愛の神様でもありますから、その愛の神様が、それは忍びないと思われて、何とか救われる道はないのかとお考えになられた末、一人子であられたイエス様を私たちの代わりに十字架におつけになられて、私たちの罪を赦そうとなさった、それが、陶器が砕かれたという事柄なのだと思います。
そして、復活の出来事は、私たちにとっては、それは、古い自分が継ぎはぎだらけでボンドか何かでもういちどつなぎ併せられて、以前のような自分が再び出来上がったというのではなく、それはもう無理な話ですし、そのような継ぎはぎだらけの陶器は、水を入れたらどこからか水が漏れ出てくる、滲み出てくるような代物でしかないと思いますから、そのようなものではなく、まったく新品の自分が誕生することになったというお話です。
私たちは、いつも神様の手の中にある者たちです。神様は、私たちを忘れているのでもなく、無視しているのでもありません。手の中において、見守っておられます。私たちの一つ一つを喜び、あるときには、気に入らないなあ、と思いつつ、そのようなときには、悔い改めて、これまでとは違う一歩を踏み出すことを願っておられます。
よくないのは、悔い改めようとしない姿勢です。罪の中にある自分をそのままにしておくことの怖さです。まだ、粘土であるうちに、私たちは、神様の御心に沿うように生きてまいりましょう、その一歩がまさに、悔い改めて、それまで神様に背を向けて生きてきた生き方を神様の方に向きを変えて、歩み出すことであります。そのことを何よりも、神様は、願っておられます。
平良師
神の手の中にある私たち
エレミヤに神様は、陶工のところへ行けと言われました。いわゆる、フィールドワークです。神様は、具体的な現場を見せて、そこからエレミヤに神様の言わんとするところを理解させようと考えられました。陶工とは、陶磁器を作る職人です。エレミヤは、陶工が粘土からいろいろな器を作るのを見ました。そして、せっかく一つの形ができても、それが気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのでした。陶工には、できあがった形に対する良いものかどうかのその人なりの基準があったことでしょう。
それに照らし合わせて、できたものの形が気に入るかどうかということでした。納得できなければ、気に入らなければ作り直すのです。神様もユダの人々に対して、そうあって欲しいという形がおありだったと思います。それは、自らの意思で、神様を愛し、神様に従うという姿勢でした。しかし、ユダの人々はなかなかそうはならなかったのでした。それどころか、むしろ、異教の神々を拝むという真の神様への背信行為を続けておりました。
例えば、19章の4節からのところには、こうあります。「それは、彼らがわたしを捨て、このところを異教の地とし、そこで彼らも彼らの先祖もユダの王たちも知らなかった他の神々に香をたき、このところを無実の人の血で満たしたからである。彼らはバアルのために聖なる高台を築き、息子たちを火で焼き、焼き尽くす献げ物としてバアルにささげた。わたしはこのようなことを命じもせず、語りもせず、心に思い浮かべもしなかった」。
神様は、エレミヤに、「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もお前たちに対してなしえないと言うのか」と言われました。つまり、その背後には、イスラエルの民は、神様が選ばれた民であるから、どのようなことがあっても、それを神様が自らの手で壊すなどということがあるはずがない、といった甘い考えがあったということです。神様は、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」と言われました。それは、陶工のように、いつでも、壊し作り直すこともできますよ、という警告、悔い改めを迫るものでした。
「もし、断罪したその民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」。そして、エレミヤはそのような神様の思いをユダの人々とエルサレムの住人に告げました。彼らは、「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」、そのように応答しました。19章では、神様が、エレミヤに陶器の壺を民の長老と幾人かの祭司たちの前で砕かせ、そのときに次のように裁きを告げよと言われています。「陶工の造った物は、一度砕いたならば元に戻すことができない」。
今日の箇所では、まだ、悔い改めを迫る神様のお姿があり、悔い改めるならば、彼らに下そうとしていた裁きをやめようということでした。しかし、18章の12節にあるように、彼らは、「それは無駄です。我々は我々の思いどおりに、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」と、居直ったのでした。そして、19章の先ほどのような他の神々を拝み、異教の風習に従って、人をいけにえとして献げるなどの行為を続けたものと思われます。
それに対して、今度は、陶器を割ってみせて、このように一度砕いたものは元に戻らない、と裁きを伝えることになりました。
まだ、粘土のように柔らかいうちは、形を変えることは可能ですが、いったん焼いて固まってしまったものは、形を変えるということはできません。気に入らなければ、割ってこわすしかないのです。
神様が陶工で、私たち人間が、粘土であったり、陶器であったりといった具合で、両者の関係を説明している聖書の箇所はいくつもあります。本日の招きの詞、招詞は、イザヤ書64章の7節でした。「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工。わたしたちは皆、あなたの御手の業」。私たち人間は、神様の創造の産物です。神様が私たちを造られました。それなら、すべては、神様に責任があるのでしょうか。
同じく、イザヤ書の45章9節には、「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うであろうか。何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない、などと」。神様は私をもう少し、このように作ってくれたらよかったのに、というように私たちは、自分の容姿などについて、不満を創造主なる神様に言うことができるだろうか、というお話です。
陶工は神様であり、私たちをいかようにも作ることができますが、私たちは、すべてを神様にお任せして、神様がよいように造られるこの自分を喜ぶことだと教えられます。
しかし、今日の聖書の箇所では、造られたこの私は、何とか陶工が気にいる形に、自らの意思をもってしても努力することが求められているというものです。神様が造られたのだから、こちらには何の責任もないのかというと、そうではありません。器は作ってもらいましたが、その器がかもしだす雰囲気などについては、造ってもらった側にも責任があるのではないか、そういう感じであります。
粘土である私たちは、神様に自分の形を作ってくださることを願いつつ、神様に身をゆだね、そして、同時に、神様が作りやすいように、自分の身を柔軟にし、つねによりよい形に造られるように、粘土としての身を整えていなければならない、そういうことでもあります。決して、頑なになることなく、柔軟にして、もし、創造主なる陶工の神様が、これは気に入らないというのであれば、すぐにでも、形を変えられるようにしておかねばなりません。
神様が、悔い改めを迫ったとき、ユダの人々、エルサレムの人々は、まだ、柔軟に見えたのではないでしょうか。粘土であり、まだ、形を変えようと思いさえすれば、変えられたのでした。しかし、彼らは、「それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいだのから」と形が悪いのに、造り主なる陶工としての神様が気にいっていないのに、その形に固まる道を選んでしまいました。罪の身に固まることをしました。非常に強情なさまが描かれています。否、悔い改めようとしないことが、そもそも大きな罪だと言えるでしょう。彼らは、神様に従うというのではなく、神様を自分たちの楽しみごとや欲望のために仕えさせる、そのような者たちでした。大きな罪の中にありました。
エレミヤは、焼かれてできあがった陶器を砕きました。おそらく、こなごなに砕け散ったことでしょう。もう、元に戻るなど、想像だにできないさまに変わり果てたことでしょう。それらを集めたところで、それからもう一度、何かを作ることができるなど、ということはとても考えられません。あとは、粉々に砕かれたものが、ゴミ捨て場に捨てられるだけということになります。
私たちの存在もまた同じです。神様が、悔い改めるという機会を与えたにもかかわらず、否、今の自分のままで結構、私は、私の思いのままにこれからも生きていくだけだ、そう答え、神様の憐みを無視します。そのとき、私たちもまた、木端微塵に砕かれるのです。再生不可能のチリとして、葬り去られるのです。
まさに、ユダの国が、エルサレムの都がそうでありました。バビロンによって、粉々に都は破壊されてしまいました。主だった者たちが、バビロンに捕囚として連れていかれました。それは、バビロンをとおして、神様がくだされた裁きでした。
しかし、救いの出来事というのは、そうであったにもかかわらず、というところにあります。実は、私たちキリスト者たちの理解では、頑なな罪多き私が砕かれるはずだったのに、わたしではなく、神様の独り子であられたイエス様が、砕かれたということになっています。そのような理解に立っています。
神様の怒りは、もうこのような変りようのない器、気にいらない器など壊してしまえ、というものです。あれほど、もう少し柔軟になって、悔い改めよ、今の形を変えよ、と憐み深い神様からの促しがあったにもかかわらず、彼ら自身がその促しに応えようとはしませんでした。そのために、人間は、神様からの怒りによって滅びへと定められた存在になってしまいました。
しかし、義なる裁きの神様は、同時に愛の神様でもありますから、その愛の神様が、それは忍びないと思われて、何とか救われる道はないのかとお考えになられた末、一人子であられたイエス様を私たちの代わりに十字架におつけになられて、私たちの罪を赦そうとなさった、それが、陶器が砕かれたという事柄なのだと思います。
そして、復活の出来事は、私たちにとっては、それは、古い自分が継ぎはぎだらけでボンドか何かでもういちどつなぎ併せられて、以前のような自分が再び出来上がったというのではなく、それはもう無理な話ですし、そのような継ぎはぎだらけの陶器は、水を入れたらどこからか水が漏れ出てくる、滲み出てくるような代物でしかないと思いますから、そのようなものではなく、まったく新品の自分が誕生することになったというお話です。
私たちは、いつも神様の手の中にある者たちです。神様は、私たちを忘れているのでもなく、無視しているのでもありません。手の中において、見守っておられます。私たちの一つ一つを喜び、あるときには、気に入らないなあ、と思いつつ、そのようなときには、悔い改めて、これまでとは違う一歩を踏み出すことを願っておられます。
よくないのは、悔い改めようとしない姿勢です。罪の中にある自分をそのままにしておくことの怖さです。まだ、粘土であるうちに、私たちは、神様の御心に沿うように生きてまいりましょう、その一歩がまさに、悔い改めて、それまで神様に背を向けて生きてきた生き方を神様の方に向きを変えて、歩み出すことであります。そのことを何よりも、神様は、願っておられます。
平良師