平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2006年5月28日 神様が養われる

2006-07-23 23:02:48 | 2006年
マタイによる福音書6章11節
     神様が養われる

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、これは主の祈りのなかの一部です。しかも、神様への視点から、今度は人間自身へ視点を移した最初の内容がこの祈りなのです。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」その次にこの祈り「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」が続いているのです。
 パン、つまり食べ物は私たちがこの世で生活し、存えていくためには、なくてはならないものです。イエス様は、私たちが、自分のことを求める最初の祈りに、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るように教えられました。イエス様が、食べ物の必要をだれよりもご存知であり、お認めくださっていることを感謝したいと思います。
 世界中で、今日もまた、パンがなく飢えて、死んでいく子どもたちがいることを私たちは知らされています。食べ物がなく、飢え死にするという状況ほど、悲惨なものはありません。それもその多くが子どもであることに痛々しさをおぼえます。これは、私たちの国、また、この国に住む私たちの経済事情、しいては食生活と、まわりまわってどこかでつながっている話ではあります。
 それから、日本の行ってきた第三世界への開発援助の仕方などにも問題があったことでしょう。世界で飢えている人々がいるという事態に対しては、日本にも、そして、ここに住む私たちにもまったく責任のない話ではありません。どこかで、微妙につながっているのです。このことについては、いつかまた、考えていく機会をもちたいと思います。ただ、ここでも、「私たちに・・与えてください」と、「わたしたち」と、横の人々とのつながりを考えているのです。自分だけが満たされればよいというのではありません。私たちすべてが、与えられることを共に願うのです。
 さて、聖書は、いたるところで、食べ物がいかに大切かを教えています。しかも、それを蓄えることの意味もまったくないなどとは、言っていません。創世記のヨセフ物語では、エジプトの王ファラオの夢をヨセフが解いたことがありました。それは、これから7年は豊作が続くが、そのあとに7年の飢饉がやってくる、という意味の夢でした。ヨセフは、大臣に任じられて、その対策にあたり、豊作時の穀物をたくさんの倉を作らせて所蔵して、それからやってきた7年にわたる飢饉を乗り越えさせたのでした。
 ですから、蓄えることがすべてにわたって悪いとは聖書は言ってはいないのです。神様が示される知恵と方法により、ここでは蓄えるということでしたが、そのことによって最悪の事態を切り抜けることもできるのです。しかし、ルカによる福音書の12章の13節からのところに「愚かな金持ちのたとえ」話があるのですが、そこでは、過度に蓄えることの危険性が記されています。
 この金持ちは、金持ちである上に彼の畑は、その年さらに豊作で、もう笑いが止まらない状態でした。今までの倉は小さ過ぎるというので、それを壊して新たに大きなものを作り、そこに、穀物と財産をすべてしまいこんで、彼は、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に言ってやるのでした。
 ところが、そのような彼に対して神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」と言われたというのです。この金持ちは、穀物と財産が、彼の命を保証する、存えさせると考えたのでした。しかし、このことを笑えるでしょうか。一般的に人はこのように考えがちなのではないでしょうか。
 物が命をも存えさせることができる、幸せをもたらすことができると。しかしそうではないのです。すべての命は、神様が与え、守り、存えさせているのです。詩篇136編の25節にも「すべて肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。慈しみはとこしえに」と書かれています。
 イエス様は、パン、食べ物に関する悪魔の誘惑についても教えられています。それは、マタイでは神の国を宣へ伝える直前のことでした。イエス様はここで、これから歩むべき道をきっぱりと定められたのでした。イエス様は、40日間の断食をされて空腹をおぼえられたのです。そういう状況でしたから、ものを食べなければ、このままでは死んでしまいます。
 悪魔の誘惑は、それは実に巧妙に、うまいタイミングのなかで私たちに迫ってくるものなのです。その誘惑をのまないと自分はダメになってしまうのではないか、そう思われる状況の中でなされるのです。悪魔はこのとき、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったのです。それは、人としてこの世に来られたイエス様が、自分のために、父なる神様に頼らず自分の力でなさることでした。それは確かに、悪魔の誘惑だったのです。
 自分が空腹をおぼえたときに、神様に頼らず、自分の力で解決を図ろうとするのは、それは自分の命は自分で何とかする、何とかできるのだ、そういう方向に気持ちを傾けさせていきます。そのとき、イエス様は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と言われて、その誘惑を退けたのです。私たちは、パンによっても生かされるけれども、真実には、神様の口から出る一つ一つの言葉で生きる方向を選びとらねばなりません。それが人なのです。
 箴言の30章7節から9節のところには、こう書かれています。「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚しかねません」。この著者は、貧しくもせず、金持ちにもせず、と言っています。
 それは、飽き足りれば、神様を裏切り、おごり高ぶって、主など何者かと言うおそれがあるからだ、と言います。神様の力などたいしたことはない、あたかもすべてを自分の力でなしているようなつもりになってしまい、神様をおそれ敬うことがなくなる、というのです。ましては、委ねるということなど、忘れさられてしまいます。それに対して貧しいと、貧すれば鈍すで、パンを得んがために盗みを働いてしまい、神様の御名を汚しかねないというのです。
 ですから、私たちには適度な生活が必要なのです。それで、「わたしたちに必要な糧を今日」と、必要なものだけを今日くださいと祈るようにと教えられているのではないでしょうか。しかし、イエス様はさらに進んで、「貧しい者は幸いである」と言われています。
 出エジプト記の16章には、イスラエルの民が、エジプトの奴隷状態から脱出して、荒野を旅したとき、神様が、マナという食べ物を与えてくださったことが記されています。イスラエルの人々は荒野にあって、指導者のモーセに飢え死にしそうだ、エジプトにいたときの方が肉もパンも腹いっぱい食べられてよかったとつぶやいたのでした。この不平を神様は聞き届けられました。
 そして、「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と」と語られたのでした。
 そして、実際、夕方になると、うずらが宿営に飛んできて、朝には、宿営の周りにマナという食べ物が降っていたのでした。しかし、神様は、このマナについては、次のように言われました。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日、必要な分だけ集める」。そして、六日目に家に持ち帰ったものを整えると、毎日集める分の二倍になっているということでした。
 つまり、安息日には、集めることをしなくてもいいように神様はしてくださったのです。17節からのところには、「イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は、少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれに必要な分を集めた」。必要な分が与えられたと聖書は、記しております。
 それぞれにふさわしい量があって、それぞれに必要な分だけが、集められたのでした。しかし、ときに、余計に集めた者がいて、そうすると、翌日には腐って食べられない状態になっているのでした。神様は、食べ物を必要な分だけ毎日、荒野を旅するイスラエルの人々に与えられたのでした。毎日、必要な分だけの生活を私たちは、神様から求められているのでしょう。「必要な糧を今日与えてください」。明日も与えてと願うことはいらないのです。今日、与えていだければ、それでいいのです。
 もう一つだけ、聖書の箇所を見てみましょう。それは、マタイによる福音書の6章25節から35節のところです。この箇所は、空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、というあの箇所です。空の鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉にも納めないが、神様は彼らを養っていてくださる、野の花は、働きもせず、紡ぎもしないが、このように艶やかに咲き誇っている、あのソロモンですら、このようにはいかなった、これらの花は明日には炉に投げ込まれるそのようなちっぽけな命なのに、こんなに神様は、彼らを装ってあげている、まして、あなたがたには、なおさらではないか、と言われるのです。だから、「何を食べようか」、「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな、と。
 神様は、それらのものが必要なことをご存知である、と言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。ここでも、それまでの聖書の箇所と同じく、まずは、神様は、私たちに必要なものをご存知であるということを知らされます。そして、神様が、空の鳥や野の花のように、私たちを養ってくださっているということを知らされます。
 そして、私たちの求めるべきことは、神の国と神の義を求めることなのです。それを一番にしておけば、食べ物、飲み物、着る物などは、すべて加えて与えられるのです。このことは、イエス様は、悪魔の誘惑にあわれたときに、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたことと、あい通ずるものがあります。
 さて、以上のように、この主の祈りの「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」から教えられることの第一は、私たちは、神様によって養われているのであって、決して、自分自身の力で、生きているのではないということです。そして、この祈りを祈ることは、実に多くのことを祈っているのであって、これを祈れば、私たちの生活に必要なすべてのことを祈っているのも同じなのです。
 というのも、自分で働いて、収入を得て、それで食べて、生きていると言っても、その働ける体は、誰が支えているのでしょうか、その職場はどうして与えられたのでしょうか、その働く能力は誰が与えたのでしょうか、などのことを考えていきますと、すべては、神様の恵みなのです。神様が、すべてをお与えになっているのです。
 私たちが祈る日々の糧は、働くからだ、働く場所、働く力、そして、働くためには体を休める家がなくてはなりません、こうした諸々のことがすべて与えられて始めて、得られるものです。日々の糧を求めて祈る祈りに、これだけのことを実は祈っているのです。私たちは、単に食べ物をくださいと祈っているのではないのです。実に、多くのことを同時に祈っているのです。
 そして、実際、多くのものを神様から毎日、いただいているのです。神様に感謝致します。そして、今日も「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るように、勧めてくださる主に感謝します。

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