平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年12月22日 さあ、ベツレヘムへ行こう(クリスマス合同礼拝)

2020-03-15 20:32:34 | 2019年
ルカによる福音書2章8節〜20節
さあ、ベツレヘムへ行こう

 イエス様誕生の知らせの一報が、野宿をしながら、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちにもたらされたというお話は、それを聞いた誰もが驚き、不思議に思ったことでしょう。当時、ユダヤ人の多くがメシア(キリスト、救い主)を待ち望んでおりました。ですから、そのメシアが生まれたという知らせは、誰もが大喜びしてもよさそうなものでした。
 しかし、人々は、羊飼いたちからその知らせを聞かされたことにつまずいたのでした。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。羊飼いたちから、そうした話を聞いて、皆喜んだとは書かれていません。不思議に思ったというのです。怪訝そうな人々の顔が目に浮かびます。それは、神様の栄光がまずあたりを照らし、そのあとに天使が現れて、その天使の御告げがあり、それに従って探し当てた家に、天使が言ったとおりの出来事が起こっていたという一連の事柄も不思議であったでしょうが、「恐れるな。民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのめに救い主がお生まれになった」という大事な知らせが、どうして羊飼いだったのか、というところにもありました。
 「民全体に与えられる大きな喜び」となるはずのそのような一大事とおぼしき知らせが、何とあの羊飼いたちに知らされた、それはどういうことなのか、また、「あなたがたのために」という言葉が羊飼いに真っ先にもたらされたということも驚きでした。それはあたかも羊飼いたちにこそ、この知らせが真っ先に届けられて、当然なのですよ、その権利が羊飼いであるあなた方にあるのですよ、そのような感じすらあったからです。
 羊飼いとは何者だったのでしょうか。それは、このとき、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出ており、それに基づいてヨセフとマリアもユダヤのベツレヘムに住民登録のために帰郷しておりましたが、羊飼いたちは、そうした時期であるにも関わらず住民登録の手続きもしないで、勝手に野原で羊の世話をしているのです。そのことからもわかるように、彼らはまた当時の社会の構成要因としては、人の数に入れられてなかった可能性があるのです。
 このときの住民登録は、ローマがしっかりと税金を集めるためのものであったことは明白でした。彼らが、その手続きをしないで済んでいたのは、彼らに特別の権利があったというよりは、羊飼いとしての仕事は、常に移動し続けるため定着することをしませんから、定住を前提とする住民登録が困難であったという見方もできますが、羊を飼いながら他人の土地に無断で足を踏み入れることをする無法者たちである、あるいは、羊の世話を四六時中しているのですから安息日も何もありませんので、そういった意味でも罪人としての烙印が押されていた可能性があります。
 ですから、彼らはそのような意味では、優遇措置がとられていたのではなく、この時代の社会にあって、貧しさもさることながら、罪人としても見なされており、税金を納める者たちの範疇には入っていなかったということです。どちらかというと、差別されていた側に位置していた者たちであったとも言えます。人々は、そのような羊飼いたちに、救い主誕生の第一報が入ったことに違和感を覚えたのです。
 それから、もう一つ、人々が不思議に思ったこと、おそらく納得できなかったことがありました。それは、そのメシアとおぼしき方が、何と、ある宿屋の家畜小屋で生まれ、飼い葉桶(エサ箱)に寝かされていたということでした。普通の人として、或いは、さらに貧しい家のこどもとしてこのメシアは生まれているのです。
 当時、メシア、救い主に将来なるという人物については、人々が想像したのは、かつてのイスラエルの偉大な王、ダビデ王のような人物を想像しておりました。それは、このローマの支配、苦しい税金納入の義務から解放されるのは、待望のメシアが現れて、どちらかというと力でもって、そのことを成し遂げてくれる、それは、イスラエルの歴史のなかで最も偉大な王様と言われたあのダビデやソロモン王のような人物こそがそれだと思っていたのです。
 ですから、そのような偉大な人物になるというお方が、どうして、家畜小屋などで生まれ、しかも、いくら何でも、場所がないからというので、飼い葉桶などに寝かされているのだろうと思ったのではないでしょうか。ちなみに、当時は、一般庶民の間では、今のようなゆり籠があったわけではありませんから、そのような飼い葉桶のようなものがベット代わりに使われていたということもあったようです。とにかく、彼らは、このとき泊まる宿屋もなかったということですから、飼い葉桶に寝かされていたというので、それは家畜小屋だろうというイメージがわいてきたのでしょう。ちなみに、そこが家畜小屋であったとは聖書には書かれてはおりません。とにかく、一般の貧しい庶民として、このメシア、救い主はお生まれになったのでした。
 しかし、ユダヤの人々がまずなすべきだったことは、誰によってその知らせが届いたかにこだわりをおぼえるよりも、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」という喜ぶべき良き知らせ、グッドニュース、福音を感謝して受け入れることにありました。これこそが、もっとも重要なことでありました。
 天においては、地の人々がこの知らせを聞いて、歓喜に沸くというありさまこそが期待されたのではないでしょうか。しかし、羊飼いの知らせを聞いたものは、自分たちがそれまでメシア、キリストが来られることを待ちに待っていたはずなのに、そのお方がお生まれになったことを聞かされても、喜ぶどころか、不思議に思っただけでした。
 それでは、このメシア、別な言い方では、キリスト、その意味は救い主です。救い主というのはどういった意味では救い主だったのでしょうか。救い主というのは、今の苦しい状況をなんとかしてくださるお方、この苦しい状況から解放してくれるお方、それが救い主です。究極のお話でいうと、このままでは破滅しかない、このままでは死ぬしかない、このままでは滅びるしかない、そのことから免れるということです。
 その状態から引き上げられることです。その状態からそうでない状態に移されることです。その状態から解放されることです。もっと突き詰めれば、滅びから免れ、永遠の命に生きることになるということです。そのために神様は、イエス・キリストをこの世にお与えになられたのです。イエス様は、そのためにこの世に来られました。
 詩編の43編の1節から5節の御言葉に目を留めたいと思います。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。おそれるな、わたしはあなたと共にいる。私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める」。
 旧約聖書の時代から救いの出来事は既に私たちに向けて語られていました。今読みましたこの聖書の箇所で、私たちを創造されたのはこの神様であり、それゆえ、私たちは神様のものであると言われています。また、どこにおいてもこの神様が私たちと共におられて守ってくださることがわかります。そして、この私たちは、神様の目には、とても高価な存在であり、この私たちを神様は愛してくださっているとも語られています。
 しかも、この私を、人を与えて、贖ってくださるのです。救ってくださるのです。そこにおける人を与えてのその人が、イエス様だといった理解もできます。ヨハネによる福音書3章の16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 羊飼いたちは、天使から告げられました。「あなたがたは飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。神様からいただくことのできるしるしは、いろいろとあります。病の癒し、多くの物質的な豊かさをいただくこと、困っていることが解決すること、願っていることが叶えられること、他にもいろいろです。
 特に、もうとても無理だと思っていることが叶えられたときには、それを奇跡だと言ったりします。飼い葉桶に寝かされている乳飲み子、いったいそれのどこがしるしだと言うのだろう、そう羊飼いたちは思わなかったでしょうか。メシアというからには、他の人々が言っているように、王様になる方だろうから、それは、どこか権力のある人か、裕福な人の御屋敷でお生まれになる、そういうことではないのだろうか、と思わなかったでしょうか。
 しかし、天使はそう言ってから、他の天使の大軍も加わってこのように神様を讃美したのでした。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ということは、羊飼いたちが、まさにその御心に適う人々であったという理解もできないことはありません。この自分たちが、御心に適った者たちである、そういう然りを彼らは聞かされたのでした。「いいのだ、そのままでいいのだ」という然りです。
 羊飼いたちは、天使が離れて天に去ったあと、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合って、でかけて行きました。話し合ってというのが、とてもリアルだと思います。
 すぐにではなく、話し合ったのでした。どうして、自分たちに知らせがあったのか、どうして、家畜小屋の飼い葉桶なのか、ひょっとしたら、自分たちに知らせが届いたことはとてもうれしいことであったけれども、そのメシアが、家畜小屋にある飼い葉桶に寝かされている、それがあなたがたへのしるしというのは、ちょっとバカにされたような気もしなかったでしょうか、否、そうではありません。
 家畜小屋の飼い葉桶に寝かされているので、彼らは、幼子イエス様とお会いすることができたのでした。どこか権力者や裕福な者の屋敷では、そこにおいそれと入っていくことはできなかったでしょう。もちろん、イエス様にお会いなどできなかったと思われます。ベツレヘムのどこかの家畜小屋でその子は生まれ、今、飼い葉桶に寝かされているという話であったので、彼らは、それならその出来事を見ることができると、かけつけることができました。イエス様は、まさに、誰もが自分のところに来られるそのようなお方として、この世に来られたのです。イエス様は、父なる神様をおとうちゃんと呼べ、自分を友と思え、そう言われました。
 そして、羊飼いたちは、話し合ったあと、急いで出かけていきました。行ってすぐに、その家畜小屋を探し当て、その飼い葉桶に寝かされている光景が、天使が話してくれたとおりだったので、そのことを人々に知らせたのでした。羊飼いたちは、この知らせがほんとうに真実で、しかも、救いからもれたと思っていた自分たちのために、一番にもたらされたことを知ったはずです。
 クリスマスは、すべての人々にもたらされた救い主誕生といううれしい知らせです。そのことを知らせるためには、それが羊飼いたちという神様の選びは、低きに暮らす人々には、とてもわかりやすいものとなったのではないでしょう。そうでない人々には、少し合点の行かないことだったのです。
 しかし、平和の君と言われるイエス様は、まさにこのような粗末な飼葉桶に寝かされている幼子に象徴されるような、無防備で何の力もないお方としてこの世に来られました。これが、文字通りユダヤの王として宮殿かどこかにお生まれになったのであれば、それこそ、それは戦争や内紛を予感させるものとなったことでしょう。
 私たちは、この幼子イエス様とお会いするためにベツレヘムへ行った羊飼いたちと同じように、日々、イエス様にお会いするために、生きております。その都度、目にするのは、強力な力ではありません。人として、最も無力なお姿がそこにはあるだけです。しかし、私たちは、そこから力をいただくのであります。これがキリスト者の姿ではないでしょうか。私たちは、この主によって救いへと招かれた者たちです。
 ヨハネによる福音書15章16節、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。
 このとき、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、でかけていった羊飼いたちに続こうではありませんか。そして、その貧しい飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見ようではありませんか。その子は、できることは何もなく、すやすやと眠っているだけの乳飲み子でありましょう。しかし、平和の君であり、偉大な王であり、私たちひとりひとり残らずすべての人々に救いを約束されている方であります。その乳飲み子に、私たちは神様を見るのです。
 「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、讃美しながら帰って行った」のでした。私たちの人生もまさにそのとおりです。すべて、聖書に書いてあるとおり、神様の言われているとおりになるという確信を彼らはこのときにいただくことができました。彼らは、このときの確信を胸に秘めて、それ以後の人生を送っていったことでしょう。この確信に私たちもまた生きています。それは、さあ、ベツレヘムへ行こうといって、でかけていかなかれば味わうことのできないことでした。私たちは、いつでも神様に押し出されて、その現場に向かわねばならないのです。その準備はできていますか。


平良憲誠 主任牧師

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