平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2020年1月5日 2020年-霊と真実を持って礼拝する-

2020-03-20 22:06:59 | 2020年
(新年礼拝)

ヨハネによる福音書4章 7節〜26節
2020年-霊と真実を持って礼拝する-

 イエス様は、ユダヤからガリラヤへ行く途中に、サマリアを通らねばなりませんでした。それは、バプテスマのヨハネよりもイエス様の方が多くの人々に洗礼を授けているということを、ファリサイ派の人々が聞きつけたことをイエス様が知り、彼らの存在を懸念したからだと書かれています。
 そのときに、イエス様は、シカルというサマリアの町で旅に疲れ、渇きをおぼえておりました。時刻は丁度正午頃です。そこにはヤコブが掘ったという井戸があり、その井戸の近くにイエス様は座り、誰か水汲みに来ないかと待っておりました。当時は、水を汲む道具は水汲みに来る者たちが各自で持参していたようです。それがないと水を飲むことはできませんでした。そもそもが、正午頃に、水汲みにくる者など、そんなに多くはなかったに違いありません。水を井戸からくみ上げて、それを陶器か革袋などに移し替え、それからその重い水を運ぶのですからひと労働です。そのような作業を日中の日がかんかんと照っている時刻に、行う者はいなかったでしょう。
 朝の早いときか、夕方の涼しくなってからのことではなかったのでしょうか。しかし、その時刻にやってきた者がおりました。それはあるサマリア人の女性でした。イエス様は、すぐにそのサマリアの女性に水を飲ませて欲しいと願い出ました。彼女は、水を所望した人が、一目でユダヤ人であるとわかったのでしょう。そこで、どうして自分たちサマリア人と犬猿の仲にあるユダヤ人であるあなたが、このサマリアの女から水を飲ませて欲しいと願い出るのですかと、意地の悪いことを言ったのでした。
 イエス様は、あとの会話からわかりますように、この女性の素性を知っておりました。ある意味では、この女性との出会いを求めてここにおられたと理解できないこともありません。イエス様の方が、私達に出会いを求めておられる場合が、実はほとんどであるかもしれないのです。
 しかしながら、彼女は、少しひねくれた気持ちがあるらしく、イエス様にぞんざいな態度をとるのです。彼女もおそらく人目を避けて、この時間帯に水汲みに来ていたのでしょうから、人のつらさはわかるはずですが、逆に、日頃から自分を見る他人の目を気にしながら、或いは、そのような目に押しつぶされそうになりながら、ここへやってきていたともとれるのですが、しかし彼女は、このときばかりと、日頃自分が受けている仕打ちを、他人のユダヤ人であるイエス様にお返しでもするかのようにして、いわゆる、うっぷんばらしをしている可能性がないこともありませんでした。
 イエス様が「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、水を飲ませてくださいと言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人は生きた水を与えたことであろう」と述べます。この言葉の意味は、それとなく彼女に伝わりました。彼女は、思ったことでしょう。いったいあなたは何者ですか、どうして、私があなたにそのようなことを願い出る必要があるのですか。生きた水ですって、それが神の賜物ですか、わけのわからないことを言わないでください。
 そして、女はイエス様に言いました。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。そもそも、どうして、私にその水を飲ませることができるのですか、だいたいあなたは水を汲む道具を持っていないではありませんか。ここの井戸は深いのですよ。それがなければ水を手にすることなど不可能でしょう。
 また、いのちの水というのであれば、わたしたちにとってはこの井戸からの水がまさにそうですが、ここの井戸は、ヤコブが掘った井戸であなたが掘ったものではありませんよ。ヤコブが掘った井戸からの水を彼の子供や家畜、そして、今ではこの私たちも飲んでいるのです。いのちの水は、これで十分です。
 そこでイエス様は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。これに対して、女は答えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。これは、素直な気持ちになって言っている言葉だとはまだ思われません。
 彼女の中には、イエス様に対して、まだ、ふつふつとした思いがあるのです。何ですか、その命に至る水とは。それなら、まずは、わたしが喉が渇かないようしてもらえますか、それから、人目を避けるようにして、ここにこんな日中に水汲みにこなくてもすむようにしてもらえませんか。こんな時刻にここまで水汲みにくるなんて、とても嫌なんです、たいへんな重労働でそれをしないで済むのであれば大助かりです。そんな水があるのであれば、是非ともくださいませんか。これは、半ば、イエス様の言葉に感動したというよりも、まだ、イエス様をうさんくさく思い、逆にからかっているような気持を私は垣間見ます。
 それで、イエス様は切り札を出すのです。「言って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。つまり、彼女とのやりとりにおいて、イエス様は、このままでは真実の出会いが得られないと考えられたのでしょう。イエス様は、彼女のすべてをご存じでした。彼女が、自分の内にある秘密、また、他人に言えない心の苦しさを封印したままでは、いくら彼女と話をしても、イエス様との出会いは起こらないとお考えになられたのでしょう。
 それで、ずばり、ことの中心に話題をもっていったのでした。この話題の転換は、実に唐突なものでした。どうして、そんなことをあなたから言われなければならないのか、わかりませんと突っぱねたかったでしょう。女は、「わたしには夫はいません」と答えました。イエス様もまた、歯に衣着せぬ言い方で「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」と述べました。このことの意味はどういうことだったでしょうか。
 夫がかつて5人いたけれども、今いるのは夫ではない、というのは6人目の男と生活をしているけれども、この人物は夫というわけではないということです。しかし、この男性から今は庇護を受けていたのでしょう。5人の夫も死に別れたのかどうかはわかりません。人目を避けて、真昼の頃、ほとんど誰も水汲みにこない頃を見計らってきていたとしか思われません。ただし、だからといって、この女性が罪ある者であったということではないのです。
 当時は、離婚ということも男性の側に権利があり、男性側で決められる場合がほとんどだったからです。男の方の勝手な都合で離婚させられていたということも十分ありえた時代でした。しかし、こういう立場に立ち至った、多くの女性が、このようなことで何かしら後ろめたさを感じていたということはあったでしょう。それは、ある意味では苦しむ必要はないし、同情に価することであったのです。
 しかし、この女性にとって、このときはじめて、このお方がいったいどのようなお方であるかがわかったのでしょう。誰も知るはずのない、何となく後ろめたさを感じていた自分の経歴でした。これまで私と何の面識もなかったはずのこのお方が、私が誰にも知られないようにして生きてきたこの秘密をすべて知っていた、どういうことだろう。このときになって、ようやく、彼女の中にイエス様への畏れが芽生えたのでした。
 女は「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と述べました。彼女は、このとき、自分の経歴をあれこれ弁明する必要など、もうないと思ったのでしょう。なぜなら、このお方はすべてを知っているからです。
 これまでの夫たちとの生活やその苦悩や悲しみやその他のあれこれもすべてのことをこのお方は知っているのです。そこで、彼女が話題にしたのは、サマリア人とユダヤ人が別々の所で礼拝をしているということでした。サマリア人は、このサマリアのゲリジム山にある神殿で礼拝をしていました。しかし、ユダヤ人たちは、エルサレムにある神殿で礼拝を守ってきました。これは、ソロモン以降、イスラエルが南北に分裂しましたので、そのときから、それぞれの地で礼拝を守るようになったのでした。ここではじめて、彼女は、少しまじめになりました。
 このお方は、少なくとも初対面であるのに、自分の秘密を知っていた、このお方は、ただの人ではない、預言者なんだ、そこで、何を話したらよいかわからないけれども、こうしたサマリア人とユダヤ人が犬猿のなかになったのには、どうしてなんでしょうか、いがみ合うことを教えられてきたからこそ、あなたさまにも、ひどいことをしました。そのような、気持からの言葉だったのでしょうか。
 イエス様は言われました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(真実)をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。
 礼拝は場所ではありません。そういった意味ではサマリアにある神殿にこそ神がおられるとか、エルサレムの神殿にこそ神はおられるとか、そういうことではないのです。そういうのは偶像です。マタイによる福音書18章20節に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあるとおりで、そのような状態は礼拝の名に価するのでしょう。ここに神様がおられることを意識しながら、礼拝は奉げられるべきであるということです。
 また、「礼拝する者は、真理をもって」、この真理と言う言葉を、今度の聖書協会共同訳では、真実と訳しています。そうしますと、このときの女は、イエス様と向き合ってはいるのですが、そこには、真実がなかったということではなかったのでしょうか。つまり、自分の知られたくない部分を隠しながら、いくら礼拝のことを述べてみても、そこには真実がないのですから、それは話にならないということになります。
 礼拝には、霊をもって、神様がここにおられることを信じ、そして、神様がおられることを感じながら奉げられるべきです。そして、また、偽りの自分の姿をもって、ここにいてはなりません。自分の弱さもだめさも、秘密にしておきたいことも、悔い改めるべきことも神様にすべてさらけ出し、打ち明けて、心のうちにでいいのです、そうして、この場所にはいるべきなのであります。そうして、礼拝において、すべては赦され、解放されなければならないと思うのです。
 そこで女が言います、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」。彼女には、信仰がありました。イエス様は、その時言われました。「それは、あなたと話しているこのわたしである」。わたしは、これからの礼拝の在り方がどうなるかも、そして、あなたのこともすべて知っていたでしょう。このわたしが、キリストと呼ばれるメシアなのですよ、そう言われたのでした。
 イエス様との出会いで、この女性はどのように変わったか、です。彼女は、おそらくそれまでのうしろめたさやいろいろなこだわりから解放されたと思います。ですから、女性は、水がめをそこにおいたままにして、町に行き、人々に、「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方が、メシアかもしれません」と伝えたのでした。そのようなことをすれば自分の素性がいろいろとわかるわけですから、それは、彼女がもっとも願っていなかったことでした。
 それを彼女は、自分から言いふらすかのような態度に出たのです。イエス様との出会いがうれしくて、イエス様のことを町中の人々に伝えたくて、自分のことが公になることを恐れることなく、むしろ喜びゆえに、伝えていきたくなったのです。私たちが、解放されて、自由に生きることができる、それはイエス様との出会いゆえのことであります。
 2020年、私たちは、第一に、霊と真実とをもって、礼拝を奉げてまいりましょう。そして、2020年もまた、すべてのことは救い主であるイエス様が教えてくださると信じて歩んでまいりましょう。そして、そのイエス様を伝えてまいりましょう。


平良憲誠 主任牧師

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