平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年9月22日 七人の息子にまさる嫁ルツ

2020-02-16 23:02:12 | 2019年
ルツ記4章
七人の息子にまさる嫁ルツ

 ナオミが嫁のルツを連れてベツレヘムに戻ったとき、ナオミを知っている町の女性たちは、ナオミさんではありませんかと声をかけました。夫と二人の息子を失って帰って来ていたナオミは、自分のことをナオミ(快い、愉しみ)などとは呼ばないで、マラ(苦い、苦しみ)と呼んでくださいと言い、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」、「全能者がわたしを不幸に落とされたのです」と答えました。
 ナオミは、嫁のルツ以外、すべてのものを失って帰って来ていたのでした。ナオミは、どうしてそのように自分の境遇を思ったのでしょうか。ナオミは、神様との関係を捨ててはおりませんでした。彼女は、ベツレヘムに帰ってきたとき、神様は何というひどいことを自分にされたのだろう、と思っておりました。夫のエリメレクを失いました。二人の息子にそれぞれモアブの娘たちを嫁に迎えて、これからというときに、その二人の息子が死んでしまいました。ナオミの夢は潰えたのでした。どうしてもナオミから離れないという嫁のルツを連れて、ベツレヘムに帰還したのですが、彼女はすべてを失って、身も心もぼろぼろになっておりました。
 彼女は、神様がこうされたと嘆いているのです。否、それは、町の女性たちに神様のなさったことは不当だと訴えてでもいるかのようでした。しかし、彼女の心のうちには、どうしてこのようなことになってしまったのだろうか、といった気持ちはあったことでしょう。人は不幸な出来事が起こったときには、考えてしまうものです。
 これはひょっとしたら、神様の自分に対する懲らしめではないかと。町の人々が、ナオミがルツを連れて戻ってきたとき、町中の人々がどよめいたのでした。そして、女性たちは、ナオミさんではありませんか、と挨拶をしたのでした。飢饉が国を襲ったとき、ベツレヘムの人々のなかにも、ナオミたちのようによその土地に移って行った者たちもおれば、そのまま、ベツレヘムに残った者たちもいたことでしょう。ベツレヘムに残った者たちからすれば、ナオミたちは自分の故郷を捨てて行った人々ということになっていたでしょう。
 それも、どちらかというと異邦人が住むモアブの土地といった見方もされる所でしたから、そういった点でも軽蔑されたかもしれません。また、帰ってきたときに夫のエリメレクも二人の息子もいないのですから、どうしてなのかといった思いも町の人々の中にはありました。そして、直後に、二人の異邦人の嫁を迎えたけれども、息子たちは死んでしまったという話を町の者たちが聞いたときには、異邦人の嫁たちを迎えたからだといった思いも、湧いてきたかもしれません。
 ナオミは、人が自分のことをどう思うか、自分の身に起こったことをどう思うか、そういう他者の思惑を考えて、さらに辛い思いが湧き上っていたかもしれません。これは、神様の自分たちへの懲らしめではないか、そう考えて、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」、「全能者がわたしを不幸に落とされた」と考えた可能性も否めないと思います。
 今日の招詞で読んでいただいた箴言1章23節「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら、見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう」。このような聖書の言葉もあります。ただし、懲らしめを受けているといった認識は、人それぞれです。決して、してはならないことは、他者に対して、私たちは、このようなことを述べないことです。宗教人はえてして、このようなことを平気で語ることがあります。もし、それが神様の懲らしめ、戒めであると考えるとき、それは、自分のことに限った方がよいと考えます。他者の不幸とおぼしきことをさして、それは、神様の罰とか、懲らしめだといったことは語らないことです。
 自分と神様との関係で、そのことが、自分への懲らしめだとか、戒めだとかということは、自分自身が一番よくわかっているからです。いわゆる思い当たる節があるものもあるということです。その思い当たる節が、ほんとうにそうであるのかどうかの吟味はもちろんしなければなりません。しかし、やはり自分は過ちを犯した、神様に対して罪を犯した、そうだと思うとにきには、自分の知恵を用いて、いかなる正当化も図ることをせず、素直に神様の懲らしめを受け入れる用意がなければならないのではないでしょうか。
 そうしなければ、特に権力の座にある者たちはそうあらねばならないと思いますが、その人は反省をしていないことと同じですから、同じことを繰り返すことになります。ナオミは、当時のイスラエルの価値観や律法の掟からして、自分たちのしたことが、その枠を逸脱するものであったということを、どこかでは感じていて、そこに罪の意識をもっていたのではないかというのは、予想のつくところです。
 ですから彼女は、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」、「全能者がわたしを不幸に落とされた」と、そのような理解の仕方になったものと思われます。信仰に生きる私たちは、神様のことを自分の都合のいいように考えるところがあります。確かに、そこだけを見れば、そのような見解もあるでしょう。
 しかし、およそ、聖書は、ありとあらゆる視点から、私たちに語りかけています。あるときは、私たちは赦されていて、大きな愛に包まれているといったほっとした気持ち、甘美な気持ちにもなります。そして、私たちを励まし、私たちに勇気を与え、そして、私たちを平安へと導くのです。しかし、ある時には、私たちを戒め、私たちの誤りをただし、時には、私たちを裁くことさえするのです。
 ですから、私も牧師として、その聖書の箇所がそのように語っているのであれば、私は、そう聖書は語っていますから、としか伝えることをしません。聖書は、ありとあらゆる視点を私たちに与えております。そういった意味でも多様性の大切さを私たちは聖書から十分に教えられています。そして、だからこそ、見方によれば、破れだらけではあるけれどもすべての視点を持っているという意味では、聖書は、完全なものだと信じています。
 そして、そのナオミが、このあと、どうなっていったのかを聖書は私たちに告げています。ポイントとおぼしきことは、ナオミは、神様から離れることをしなかったのです。それは、ルツがナオミから離れることをしなかったのと同じです。ルツは、このナオミ一家に与えられた一連の試練を異邦人という立場から見ており、そこにナオミの信仰をとおして、この神様は偶像の都合のいい神様ではなく、真の生きておられる神様であることを知ったのです。ですから、ルツもなお、ナオミを離れることをしませんでした。
 そして、ナオミは、嫁のルツが、日々の糧を得るために近くのボアズの畑で落穂拾いをしなければならないような、みじめな状態を共にしていました。しかし、誠実であり、けなげなルツを愛したボアズが、亡くなった夫エリメレクの家を再興することが決まりました。ボアズは、一番目の権利の持ち主にエリメレクの土地を買い取るように進言しました。彼は、そうしようと言ったのですが、ルツをめとることもその買い取る行為の内容に含まれていました。
 ところが、この一番目の権利のある男性は、ルツまでめとれば、自分の嗣業(家の継承)が危うくなるということで、このエリメレクの土地を買い取るという権利をボアズに譲ることにしたのです。そこで、その権利がボアズに移ったことを集まっていた10人の証人の前で、明らかにして、ボアズが、エリメレクの土地を買い取り、そして、ルツを妻としてめとるに至ったのです。ボアズは証人たちに言いました。
 「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族の郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです」。そして、門のところにいたすべての民と長老たちは、ボアズの家庭が恵まれるようにと、彼らを祝福したのでした。
 そして、そのあと、ルツとボアズの間に男の子が生まれました。主が身ごもらせたのでと聖書は神様の介在を告げています。
 子どもが生まれたとき、ナオミが町に戻ってきたときと同じように、町の女性たちがやってきて、ナオミに「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にまさるあの嫁がその子を産んだのですから」と言いました。
 そして、この子はナオミが養い育てたとあります。また、近所の女性たちはナオミに子供が生まれたといって、その子に彼女たちが名前をつけたと書かれています。4章17節「近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた」とあります。普通は、名前は、その父親がつけるものですが、それをボアズではなく、またルツでもなく、そして、ナオミでもありませんでした。町の女性たちが、その子に名前をつけたのでした。
 それは、一つには、この子が、ボアズとルツの間に生まれた子供であったけれども、その子は、ひょっとしたらナオミの養子になった可能性があるということです。そして、それであればナオミがつけてもよさそうですが、町の女性たちが名前をつけたというのは、この子が町の人々から愛され、将来的には、この町の名誉になるような人物になるというようなことをうかがわせていたのかもしれません。
 ナオミが帰還した当初、町の女性たちの存在はナオミにはとても耐えがたいものであった可能性があります。陰口も数多くたたかれたことでしょう。しかし、その彼女たちが、今では、ナオミを讃美し、ナオミを尊敬し、喜びを増し加えてくれる存在になったのでした。
 その男の子につけられた名は、オベドでした。オベドとは、「(神に)仕える者」という意味です。私たちは、人生に起こるいろいろな出来事を神様が成されたこと、と受け取ることは多々あります。信仰を持っている者が、神様との関係で物事を考えてしまうことは自然なことです。このことは、神様がなされたことであり、それはある意味では、今の私に対する懲らしめではないか、警告ではないか、そのように感じ取られることがあります。神様がそのようなことをなさるはずはないと考える方もおられるでしょうが、否、これは神様の懲らしめです、それもまたあることを聖書はすべてにわたってとは言いませんが、聖書のいくつかの箇所では、そのようなことも述べています。今日読んでいただいた箴言にあるとおりです。
 ナオミは、自分の境遇を考えたときに、神様が自分を不幸にされたと考えました。それは、彼女の信仰です。誰かが、そんなことはありませんよ。神様がそのようなことをなさるはずはありません。たまたま、そうなったのですよ。そのように助言する人々もいたかもしれません。しかし、ナオミは、否、これは神様が自分にされたことです、と言い切ったことでしょう。
 私も信仰者として、そのように受け取ることの方が、私には救いです。私もまた、そこで神様と格闘することでしょうが、しかし、神様が、そうなさったということが、私には救いなのです。そこに神様が関与されていなかったと思うほど、私には、むなしいことはありません。私たちには偶然はなく、ただ、神様からの必然があるだけだというのが私の信仰理解です。ですから、信仰は神様の備えられた道を歩む行為でもあります。
 イスラエルの民が、バビロン捕囚に遭ったとき、何ゆえ、自分たちはこのような悲惨なことになったのか、と考えたときに、それは、神様に対して罪を犯したからだと考えました。つまり、真の神様を神様とせず、偶像を拝んでしまったとか、預言者をとおして、神様の意志は示されていたはずなのに、それに反することをしてしまったとか、いろいろですね。
 つまり、たまたまだとか、権力者の作戦がよくなかったから戦争に負けてしまったのだとは考えなかったということです。神様との関係で考えたのでした。そこで、多くの旧約聖書の書も著されたのでした。もちろん、多くは神様のなさることという理解は違う、そうではないという信仰理解もありますから、自分の信仰理解を皆様に押し付けることはいたしません。平良は、喜びごとだけでを神様のなさることと考えずに、内容によっては、その出来事を神様の懲らしめとか戒め、警鐘というように受け取ることもある、考えることもあるのだと思ってくださればそれでいいかと思います。
 しかし、幸いなことは、このルツ記を見る限り、神様は、そのことをそのまま放置されることはされなかったということなのです。当初は、ナオミをうつろにされたその神様が、その何倍もの祝福をもって、彼女を大いなる幸せに導かれたのです。
 ルツは、信仰者としてのナオミを見ておりました。それゆえ、彼女を離れることをしなかったのです。そのルツは、異邦人であり、イスラエルの人々、ユダヤ人たちからすれば、祝福に値しない者だったに違いありません。その彼女を町の女性たちが、「七人の息子たちにもまさるあの嫁」と讃えたのです。当時としては、とても考えられないことでした。
 神様は、生きておられる、ボアズは、「わたしが責任を果たします」と言ったとき、「主は生きておられる」という言葉を挿入しています。これは、誓いを立てるときの言葉だったようです。その主を前にして誓うのです。主は、生きておられるのです。このことは最大に恐ろしいことです。ですから、私たちは、この主を畏れ、この主を信じ、この主に最大の信頼をおきつつ、それぞれに備えられた人生を歩んでいくのです。はじめは、それが祝福に転ずるとはとても思えなかった、その出来事が、それがあったからこそ、大切なものを教えてもらった、祝福へ導かれることになった、このルツ記からは、そのように教えられるのです。


平良 師

最新の画像もっと見る