平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2019年10月6日 人を塵に返す神

2020-02-18 12:34:57 | 2019年
詩編 90編1節〜17節
人を塵に返す神

 詩編の90編は、モーセの祈り、作とされています。詩編の作者は、このように誰それと明記されているものもあれば、作者不詳もあります。また、誰それと名前が記されていても、それは、本人とは別人が、その人の名前を使って書き記したものであるというものもあります。この詩編90編もおそらくモーセ本人の作ではないだろうという説があります。
 しかし、読者である私たちは、その詩を理解する場合、モーセになりきって書いたであろう詩人の心を読み解くためには、やはり、モーセが書いたものだといったことで理解した方が分かり易いということはあるでしょう。何事も状況がある程度知らされているなかで、考えた方が、その書いている内容により具体的なイメージがわきます。そこで、この詩は、モーセが作ったと仮定して、それでは、いったいどのようなときに作ったのかと次に考えるのです。
 そうしますと、3節に「あなたは人を塵に返し『人の子よ、帰れ』と仰せになります」とありますから、モーセの死期が迫っているのではないか、彼が、死を意識した状況のなかで作ったのではないかと考えるのです。少なくとも、この詩の作者は、聖書のなかのモーセの生涯を思い、そして、ピスガ山頂でモーセが、これからイスラエルの人々が神様が約束してくださったカナンの土地を一望していることを想定して作ったのではないか、ということを想像するのです。
 モーセという人物は、飢饉のためエジプトに移住したイスラエルの民の数がその当時多くなり、エジプトが彼らの存在を脅威に感じて、さらなる苛酷な重労働を強いて弱体化させようとしていた時代に生まれ、この奴隷状態にさせられていた大勢のイスラエルの民をエジプトから解放させて、救うために、神様から召し出された人でした。
 120歳のモーセは、死の直前、ピスガの山頂に登り、これから神様が与えると言われるカナンの地を見渡しました。それは、神様の配慮でした。「主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた」(申命記34:1)とあります。
 しかし、神様は、モーセに、「しかし、そこに渡って行くことはできない」(申命記34:4)と言われたのです。それは、「シィンの荒れ野にあるカディシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである」(申命記32:51-52)というのが、その理由でした。
 この出来事の詳細は、出エジプト記の17章に記されています。そこに書かれていることは、結局、イスラエルの民は40年間荒野の旅を神様によって導かれたのですが、その荒野の旅の途中、イスラエルの民は苦境に立たされるたびに不平を神様に言いました。そのときもシンの荒野を出発し、旅程に従って進み、レフディムに宿営したのですが、そこには飲み水がありませんでした。それで、イスラエルの民は、モーセに飲み水を与えるように要求したのです。
 モーセは、このような要求の仕方は、主を試すことになると、説明するのですが、イスラエルの民は、喉が渇いてしかたありません。それで「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と、一種の恫喝めいたことを言うのです。そこで、モーセも、神様に叫び訴えて、「この民をどうすればよいのですか。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と言うのでした。
 神様は、そのモーセの訴えを聞かれ、これこれこうして、岩をあの杖で打てば、そこから水が出てくるから、その水を飲むことができると言われたのです。そして、実際そのようになり、イスラエルの民は、渇きをいやすことができました。このときのまとめとして、17章の7節にはこのように記されています。「彼(モーセ)は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」。
 このときの出来事は、まさに、このような状況になってしまったが、果たして、神様は、自分たちと共におられるのだろうか、と神様を試すことだったのだ、と聖書は記しているのです。モーセは、この事態を収拾することができず、イスラエルの民に結局、罪を犯させる結果となったのでした。もちろん、モーセに罪はなかったかもしれませんが、指導者としての責任はあったのです。このときのことを神様はしっかりと記憶にとめおいておられたのでした。
 モーセは、その時の責任を取らされる形となり、カナンの土地に入ることが許されませんでした。ですから、モーセは、カナンという乳と蜜の流れる土地をめざし、そのためにここまで主のために働いてきたのに、それも想像を絶する出来事の連続だったはずです、そのような数々の困難、苦難に耐え、それがいよいよというところで、その目指す土地に入ることが許されないなんて、実に残念であり、悔しい、寂しい、そのような気持ちになったのではないでしょうか。しかし、それは、わかりません。なぜなら、そこらのモーセの心情については聖書はそれらしきことは記していないからです。
 それどころか、むしろ、モーセは、「主がモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた」とあるように、神様のご配慮によってそのように導かれたのですが、彼は、ピスガの頂上に立ち、カナンの土地を見渡すことができた、それで十分だったのではないか、そのようにも理解できないことはありません。それは、申命記の最終章34章の7節には「モーセは死んだとき120歳であったが、目はかすまず、活力もうせていなかった」とあるからです。
 この表現の仕方には、寂しいとか、残念といった、しおれた感じはありません。今なお未来を見つめている彼の姿が彷彿とさせられるのです。神様の御用ができた、自分は神様のなさる業の一旦を担わせていただいた、それだけで十分、自分たちは、その神様の業のプロセス、課程を生きる者でしかない、その任に当たらせてもらった、それだけで十分といった満足感すら伝わってくるようです。
 もし、モーセが、このままカナンの土地に入っていったなら、どうなっていたでしょうか。ヨシュア記を読む限りでは、モーセのあとに指導者として立てられたヨシュアもまた、たいへんな苦労をすることになったことがわかります。それは何故かと言いますと、確かに、神様はこれこれの土地をお前たちに与えようと約束してくれたのですが、しかし、その土地は、誰も住んでいない土地だったのではなく、既に先住民が住んでおりました。
 彼らと戦って、彼らを追い出すか、征服するか、などしないと、そこには住めなかったのです。話し合って共存できたらよかったと思いますが、それは今でも無理なことが多いのです。ですから、モーセは、エジプトを脱出したあと、40年間の荒野の旅を強いられましたが、そして、行く先々で、そこに住んでいた人々と争うこともありましたが、しかし、どこかに定住するということはなかったのですから、一時的にキャンプしていた程度でしたから、地域に住む人々も、いずれは移動する者たちであると我慢もできたかもしれないのです。衝突も大きなものとはならなかったでしょう。
 何よりも、イスラエルの民が、自分たちは、寄留の民であることを理解しておりましたので、ここは安住の地ではないとの認識を持っていたはずですから。しかし、ヨシュアの時代は、これから行くところは、自分たちの安住の地であるとの意識を強くもっております。神様が、与えると約束してくれた土地だというに認識に立っておりました。それですから、行く先々の土地で、イスラエルの民と先住民との間で、絶えず争いが起こることとなりました。
 そのようなことを考えますと、モーセは、ここらでよかったのではないでしょうか。これから希望に満ち溢れているカナンの土地を一望できたのですから。むしろ、この時点で、身を引けたことがよかったと言えるかと思います。それは、神様のよき計らいであったとも言えるでしょう。モーセは、このとき120歳だったのですから。現代でも、120歳は人の命のマックスです。これ以上、神様は、モーセを指導者として、苛酷な仕事をお与えにはならなかったのです。
 それから、また、彼は、自分の指導者としての罪をも知らされたのです。モーセは、一生懸命、神様に仕えてきた人だったと言えます。しかし、シンの荒野で、飲み水を求めてやってきたイスラエルの民を説得することができず、神様の存在を試させるようことを許したその責任をモーセは、神様から指摘されたのです。それで、カナンの土地に入ることは許されないのだと言われたのです。
 この罪の指摘も、モーセは、その責めは不当です、とは言いませんでした。彼は、神様の指摘を受け入れたことでしょう。ですから、モーセは、天狗になることなく、こういう形で謙虚にさせられたのでした。モーセは、立派な英雄であり、指導者だったと、人を神のごとくに祭り上げることを聖書はしないのです。
 むしろ、聖書は、どのような偉大で立派な人も神様の前に罪を犯すものであることを私たちに伝えます。
 そこで改めて詩編90編を読んでみましょう。
「主よ、あなたは代々わたしたちの宿るところ。山は生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々、とこしえに、あなたは神」。
 私たちの世々にわたっての住まいなる神様(日々の備えと保護をされる神)は、天地創造の以前から、永遠なるお方として存在されている方、と言います。モーセの神理解です。人は、それに比べるとたわいもない、はかないものです。そうした考えは、次の聖句との比較からもわかります。120歳も生かされたゆえに、到達した思いだったのでしょうか。これだけ長生きしたけれども、しかし、創造主なる神様と比較すると人間というものはいかにはかない存在であることか、と。
 「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども、御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。
 神様は、「人の子よ、帰れ」と言われて、人を塵に返されます。人に死をもらすことのできる方は、人を創造された神様です。千年という長い年月でさえ、神様にとっては、過ぎ去った一日の、しかも、夜回りの一時に過ぎません。神様は、人を死の眠りに落とされます。朝が来れば、人は草のように生え、それから花を咲かせますが、それもまた夕べになれば、しおれて枯れていきます。そのように人間の命などまたたくまに終わってしまいます。ほんとうに一時のものです。神様が、そのように作られているのです。
 「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。
 神様の怒りによって、私たちは絶えゆく者、消えゆく者となります。神様の怒りに私たちはおののき、震えます。神様は、私たちの過ち、罪を、ご自身の前に明らかにされます。モーセである私の罪を神様は明らかにされ、それゆえ、私は、恐れおののいています。私たちの命は、神様の怒りによって消え去り、私たちの人生も、ため息のようにして、終えてしまいます。
 私たちの命は、だいたいにおいて70年、元気な者も80年でしょう。それでいて、得たものと言えば、それは私たちの誇りといってもいいかもしれませんが、それは、私たちにもたらされた労苦と災いだけです。そして、はかない私たちは、あっという間に、この世から失せてしまうのです。神様の怒りの力を誰が知っているでしょう。神様を畏れるほどに、その激しい怒りを私たちは理解していきます。残りの私たちの人生の日々を数える方法を教え、知恵のある心を得られるように、私たちにしてください。
 「主よ、帰ってきてください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ちたらせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたがわたしたちを苦しめられた日々と、苦難に遭わせられた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください」。
 モーセは、神様にイスラエルの民への祝福をお願いしています。これまで、数多くの苦難の日々をモーセは、思い返しています。神様から見捨てられたのではないかと思えるような日々もありました。そこで、モーセは、率直に言うのです。今、イスラエルの民を力づけてください、と。また、苦難に遭わせられた年月に応じて、自分たちを喜ばせて欲しいと。自分たちは、朝起きたときに、神様の慈しみを十分に味わい、生涯、神様のことを思って、喜び歌い、喜びお祝いしたいのですと、言うのです。
 「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをわたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください」。
 あなたの僕であるイスラエルの民が、神様のなさるすべてのことを仰ぎ、その子孫たちも、神様のなさることを仰ぐ者となりますように。あるいは、(あなたの僕らにあなたの御業が示されますように。そして、彼らの子どもに、神様の栄誉が示されますように)。わたしたちの神様の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをわたしたちの上に、確かなものにしてください。はっきりと目に見える形にしてください、私たちの手の働きを力あるものにしてください。
 これは一種のモーセの告別説教です。この詩編は、葬儀の時に読まれることも多いということです。死を迎え、神様の永遠性と人間のはかなさ、また、自分の罪、後悔、苦しかった日々、そのようなことも死を迎えるときには、思うものです。しかし、最後は、神様の慰め、癒し、そして、励ましを思うのです。そして、神様がこれから自分たちの子どもやその子孫たちに賜る恵みを祈るのです。彼らが、神様に喜んでもらえるような営みをなすことを願うのです。そして、同時に、今生きる者たちの歩みが確かなものとされるように祈るのです。


平良憲誠 主任牧師

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