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迷歩録   はくもくれん

2017-03-25 09:04:40 | 日記
          はくもくれん





    どことなく春を感じるようになると

    庭のはくもくれんの蕾が

    膨らみ始める

    葉っぱは一枚もない

    枝についているのは蕾だけ

    その蕾が日ごと開きはじめる

    春が来たと感じる一瞬である

    その一瞬を過ぎると

    蕾が開くのは早い

    日毎一枚一枚と

    気温関係なしに開いていく

    枯れ枝に花が咲いたような姿を

    見せる。

    はくもくれんの花は

    そのまま、今度は一枚一枚と

    剥がれ落ちていく
    
    その幹の周りには

    落ちた花びらが、悲しそうに

    嬉しそうに、寂しそうに

    達成感を醸しだして

    幹の周りに散らかっている

    花びらから幹がぬき出ているように

    はくもくれん

    春を告げる花

    寒さから温かさの境で

    花開く

    春告げ花

迷歩録  あや

2017-03-24 12:01:53 | 日記
  雨やんで  蕾喜ぶ  陽射かな  日向ぼっこで  縁側炬燵

                              ひのひら  ろくべえ




   「あや」という言葉は非常に都合よくつかわれることが多い。文章などの表現上の技巧、言いまわし

  ふしまわし(広辞苑)言葉を飾って上手に言いこなすこと、巧みな言い方とある。言葉ののりしろとで

  もいうのであろうか。言葉のやり取りの国会などでもこのことが問題となる。

   言語的コミュニケーションの場合特にこの部分が明確なりずらいので、不信をつくりだす基ともなるの

  ではないだろうか。それ故に言っただの、言っていないだのの水掛け論となってしまい。問題は解決され

  ないままに、うやむやになってしまう。

   言語的コミュニケーションを行う場合、特に重要と感じることは両者で文章化したものを確認し合い、

  間違いないことを確認する。それが公の方法であるにもかかわらず、そのようなものが一切ないという事

  は、両者にその会話を解らなくしょうとする意図が存在することが推測できる。このようにコミュニケー

  ション関係が破綻すると、水掛け論的やり取りになることが多い。それ故に言語的コミュニケーションの

  際には、言葉の隅々まで配慮というものが必要となることを知っておくことが大切なのである。

   言葉の「あや」で済まされないことが多い、対人援助の現場では、国会議員のような態度になれない。

  自分たちの目の前にはクライアントがいるのだから、だからこそ、言葉を丁寧に、相手に伝えることを目

  的として、丁寧に真摯的に行わなければならないのではないだろうか。

   森友学園問題、ますます本質は深みにはまりつつある。誰が嘘を言ってるのか否かより、言葉の使い方

  を勉強してほしいものである。
  
   大切なのは国家が平等性を失った行動をしたか、特別な配慮、忖度があったかどうかではないだろうか。

  お上に弱いと言われる日本人は、肩書や政治家に弱い、紙にその名前があれば、公務委員は忖度をするの

  が当たり前ではないだろうか。その部分が問題なのである。という事は日本人の価値観にかかわる所とい

  う事ではないだろうか。

   いずれにしても、言葉の「あや」なる、つかみどころのないうやむやな発言はできる限りしないという

  言語的コミュニケーションを目指すことが大切なのであろう。

  

   

迷歩録  ばんこん

2017-03-23 12:06:18 | 日記
 しとしとと  寒さ戻りの  春雨や  禽獣草木  動きを止める


                                ひのひら  ろくべえ 




   「ばんこん」とは、盤根錯節の「ばんこんさくせつ」そのようである。これは、曲がりくねった根、

  混み入って解決が難しい事柄。

    本日の森友学園、国会証人喚問をテレビで見ていて、浮かんだ言葉である。複雑な人間関係を解

  明することは非常に困難であることが解る。

    テレビ画面を視聴していて伝わるものは、証人喚問に出ている人の人間観察をしていれば、ある

  程度は、応えていることが真実かどうかは推測できるのではないだろうか。大きな政党は、自分たち

  の擁護のために、事件を明らかにするのではなく政治家擁護の質問が多いのではないだろうか。

   まさに盤根錯節である。

   この言葉を対人援助職に携わる者として教訓としなければならない事ではないだろうか。人間関係

  は、特に盤根錯節傾向が強い。そのため記録というものが大切であるという事を知らしめる証人喚問

  であることが。学びの大切な部分ではないだろうか。

   対人援助の場の記録は煩雑であるが、そのことを確実に行う事が、自分たちの身を護り、クライア

  ントを護ることであることを学び取りたいものである。

   人間の言葉は、話す方の意図が、聞く側にそのまま伝わることは少ないことを知っていることが大

  切なのであろう。だからこそ記録なのである。この記録を具体的に正確に行う事は、対人援助職とし

  ての、必須な能力である。記録は自分たちの為であり、クライアントの為でもある。このところを理

  解した上で、研修を重ね、かかわりが明確に他者に解るようにするという努力を日頃からしない限り

  盤根錯節に陥ることになるのではないだろうか。

   人と人のかかわりは、関係性の中で忖度することもあれば、敵対することもある。様々な関係が作

  り上げられる対人援助の場では、その関係性を公にできるよう日頃から準備が必要なのである。

   そのことを肝に命じて、日常の対人援助にあたりたいものである。

   

  、

迷歩録  れいせい

2017-03-22 10:31:25 | 日記
 <strong>薄曇り  寒さ戻りて  足踏みの  季節の巨人  行先迷う

                           ひのひら  ろくべえ




    大相撲春場所で同部屋の二人が勝ち続けている。新横綱の稀勢の里、関脇高安である。二人の力士は「れいせい」を

   キーワードにして、取り組みを行っているらしい。実力がともなっているから冷静になれる。冷静だから実力発揮でき

   る。冷静と実力の相乗効果であろう。毎日見事な取り組みを見せてくれている。冷静の大切さを相撲で示している。そ

   のことが実行できるには、弛まぬ稽古という日常があってのこと思える。このような相撲界の話題と介護界の話題が今

   日の新聞では気になる記事であった。

    介護界の話題はとても残念な記事である。厚生労働省によると、高齢者施設の職員による虐待が過去最多の408

   件あったと報告された。特に認知症に対するものが多く、その多くは拘束などの身体的虐待が61,4パーセントで

   あったとのこと。対人援助の最前線の職場でこのような行為が続くとは、信じられないが実態なのであろう。悪くと

   らえれば、これは氷山の一角なのかもしれない。調査に現れない虐待はどれほど存在するのか、悲しい出来事である。

    対人援助者、施設職員の「れいせい」な対応を希望するが、冷静になれない介護制度そのものの問題も存在するの

   ではないだろうか。厚労省もその点を真剣に議論を重ね、虐待減少対策を考えなければならないのではないだろうか。

   日本の行政は経営者に甘い傾向があるのではないだろうか、兵庫県の保育園問題、森友学園問題、医療機関監査問題

   どの問題を捉えても、職員にしわ寄せがある。そのことが職員の「れいせい」な行動を脅かしていることも考えられ

   る。経営者は真剣に対人援助を行う職場としての自覚と研修を重ね、そのことの成長に努力をしなければならないの

   ではないだろうか。決まりきった聞くだけの研修を繰り返して、研修してますの施設も多いと聞く。経営者の取り組

   み、幹部職員の意識の低さが、虐待という行為を生み出す一因でもあることは事実ではないだろうか。

    いずれにしても、虐待0に向かって、労働者、経営者が共に努力を重ねない限り、虐待という行為はなくならない

   のではないだろうか。

    対人援助の現場には予備虐待行為はたくさん存在する。その存在把握は勿論、そのことから無くしていく取り組

   みが必要ではないだろうか。いずれにしても、稀勢の里、高安に学び冷静に対処することができるよう日頃の学習

   を怠らず、排除主義にならず、日々の研鑽が重要なのではないだろうか。

    職員が悪い、経営者が悪い、管理職が悪い、制度が悪いなどと繰り返す前に、自分たちが他者の見本となれるよ

   う努力しているのか否かを問う事が大切なのではないだろうか。

    日頃の向上心と、基本を繰り返しが冷静という行動をつくりだすことを肝に命じて、日々研鑽したいものである。

     



   

迷歩録  ぎょうじゅう

2017-03-21 10:14:32 | 日記
  春嵐  出足を挫く  夜明けかな  二度寝の至福  味わい過ごす

                             ひのひら  ろくべえ




<strong>
   ぎょうじゅう(行住)とは、行くこと、とどまること、転じて平生とか、ふだんという意味があるそうな(広辞苑)

  行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という言葉がある。これは日常のたち居ふるまいのこと、日常の事またふだんの事とあ

  る。行は歩くこと、住はとどまること、坐はすわること、臥はねること、この四つの動作がその人を表すとも言う。仏

  教用語だそうな。しかし宗教関係なく人間の本質的な育ちとか、考え方、ものの捉え方などを知ることができる。貴重

  な情報である。さらにはこの行住坐臥を整え、生活をスムーズにできるよう援助するのが対人援助ということになる。

   今朝のニュースであったような保育所、つまり食べ物を与えない、部屋の環境を快適にしないなど、もってのほかと

  言うしかない。

   鹿児島のニュースで、精神科の拘束率が高いというニュースも見た。精神科だけでなく人間を援助者の都合で拘束す

  る施設は、医療、福祉の現場では多いのではないだろうか。残念ながらまだまだ日本の医療福祉のレベルの低さを物語

  っているのではないだろうか。

   クライアントの行住坐臥を援助しなければならないものが、対象の行動を物理的に抑制することが妥当という方法を

  とることで、クライアントの行住座位の成長を妨げになることは火を見るより明らかな事。援助者の未熟性をクライア

  ントに転嫁する援助方法は、未熟であることを自覚してほしいものである。

   人間は日常の積み重ねその中でその人の成長は保証される。それが医療とか福祉という援助によって、妨げられるこ

  とがあってはならないのではないだろうか。完全無欠を望むのでなく、できる限り少なくしようと努力をしているのか

  否かが大切なのではないだろうか。人手がない、忙しいなどの言い訳の理由によって人間を抑制する。しかもその理由

  を正当化して、医療とか福祉と語る。さらには鍵で閉じ込めてしまう。

  国民の知らない、医療と福祉の水面下ではないだろうか。厚生労働省の立ち入りを厳しく、抜き打ち監査でもしなけれ

  ばならないのではないだろうか。

   日常生活動作(ADL)の拡大維持が援助の中心なのであれば、そのことの回復、あるいは維持に焦点を当てるなら

  ば、行動制限という方針は逆行していることはだれにでも理解できること、早期離床をいかに早く行うかは、かかわる

  者の技量にかかっている。その技術アップを行う事が大切なのではないだろうか。技術というと、手先の事、行動

  の事だけと考えがちだが、そうではない技術を持とうとする精神が最も大切なのではないだろうか。精神に発展性を持

  つことで、援助者の行住座位の質が向上する、そのことによってその人達がかかわるクライアントの行住坐臥を向上、

  成長の方向に向けることができるのではないだろうか。

   人間は特別な毎日を送っているのではなく、毎日行住座位を繰り返し生きているのである。その中のオアシスが楽し

  み喜びである。このことを対人援助者は援助することを忘れてはならないのではないのか。科学的理論や、科学的援助

  論ばかりに捉われていると、人間の本質的な生きるエネルギーのウエーブに気づかないことが起きてしまう。そうなれ

  ば本末転倒、援助が援助でなくなるばかりか、抑制となってしまう事もなりかねない。原点回帰、援助という行為は、

  クライアントあっての活動という事を肝に命じたいものである。