春嵐 出足を挫く 夜明けかな 二度寝の至福 味わい過ごす
ひのひら ろくべえ
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ぎょうじゅう(行住)とは、行くこと、とどまること、転じて平生とか、ふだんという意味があるそうな(広辞苑)
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という言葉がある。これは日常のたち居ふるまいのこと、日常の事またふだんの事とあ
る。行は歩くこと、住はとどまること、坐はすわること、臥はねること、この四つの動作がその人を表すとも言う。仏
教用語だそうな。しかし宗教関係なく人間の本質的な育ちとか、考え方、ものの捉え方などを知ることができる。貴重
な情報である。さらにはこの行住坐臥を整え、生活をスムーズにできるよう援助するのが対人援助ということになる。
今朝のニュースであったような保育所、つまり食べ物を与えない、部屋の環境を快適にしないなど、もってのほかと
言うしかない。
鹿児島のニュースで、精神科の拘束率が高いというニュースも見た。精神科だけでなく人間を援助者の都合で拘束す
る施設は、医療、福祉の現場では多いのではないだろうか。残念ながらまだまだ日本の医療福祉のレベルの低さを物語
っているのではないだろうか。
クライアントの行住坐臥を援助しなければならないものが、対象の行動を物理的に抑制することが妥当という方法を
とることで、クライアントの行住座位の成長を妨げになることは火を見るより明らかな事。援助者の未熟性をクライア
ントに転嫁する援助方法は、未熟であることを自覚してほしいものである。
人間は日常の積み重ねその中でその人の成長は保証される。それが医療とか福祉という援助によって、妨げられるこ
とがあってはならないのではないだろうか。完全無欠を望むのでなく、できる限り少なくしようと努力をしているのか
否かが大切なのではないだろうか。人手がない、忙しいなどの言い訳の理由によって人間を抑制する。しかもその理由
を正当化して、医療とか福祉と語る。さらには鍵で閉じ込めてしまう。
国民の知らない、医療と福祉の水面下ではないだろうか。厚生労働省の立ち入りを厳しく、抜き打ち監査でもしなけれ
ばならないのではないだろうか。
日常生活動作(ADL)の拡大維持が援助の中心なのであれば、そのことの回復、あるいは維持に焦点を当てるなら
ば、行動制限という方針は逆行していることはだれにでも理解できること、早期離床をいかに早く行うかは、かかわる
者の技量にかかっている。その技術アップを行う事が大切なのではないだろうか。技術というと、手先の事、行動
の事だけと考えがちだが、そうではない技術を持とうとする精神が最も大切なのではないだろうか。精神に発展性を持
つことで、援助者の行住座位の質が向上する、そのことによってその人達がかかわるクライアントの行住坐臥を向上、
成長の方向に向けることができるのではないだろうか。
人間は特別な毎日を送っているのではなく、毎日行住座位を繰り返し生きているのである。その中のオアシスが楽し
み喜びである。このことを対人援助者は援助することを忘れてはならないのではないのか。科学的理論や、科学的援助
論ばかりに捉われていると、人間の本質的な生きるエネルギーのウエーブに気づかないことが起きてしまう。そうなれ
ば本末転倒、援助が援助でなくなるばかりか、抑制となってしまう事もなりかねない。原点回帰、援助という行為は、
クライアントあっての活動という事を肝に命じたいものである。
ひのひら ろくべえ
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ぎょうじゅう(行住)とは、行くこと、とどまること、転じて平生とか、ふだんという意味があるそうな(広辞苑)
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という言葉がある。これは日常のたち居ふるまいのこと、日常の事またふだんの事とあ
る。行は歩くこと、住はとどまること、坐はすわること、臥はねること、この四つの動作がその人を表すとも言う。仏
教用語だそうな。しかし宗教関係なく人間の本質的な育ちとか、考え方、ものの捉え方などを知ることができる。貴重
な情報である。さらにはこの行住坐臥を整え、生活をスムーズにできるよう援助するのが対人援助ということになる。
今朝のニュースであったような保育所、つまり食べ物を与えない、部屋の環境を快適にしないなど、もってのほかと
言うしかない。
鹿児島のニュースで、精神科の拘束率が高いというニュースも見た。精神科だけでなく人間を援助者の都合で拘束す
る施設は、医療、福祉の現場では多いのではないだろうか。残念ながらまだまだ日本の医療福祉のレベルの低さを物語
っているのではないだろうか。
クライアントの行住坐臥を援助しなければならないものが、対象の行動を物理的に抑制することが妥当という方法を
とることで、クライアントの行住座位の成長を妨げになることは火を見るより明らかな事。援助者の未熟性をクライア
ントに転嫁する援助方法は、未熟であることを自覚してほしいものである。
人間は日常の積み重ねその中でその人の成長は保証される。それが医療とか福祉という援助によって、妨げられるこ
とがあってはならないのではないだろうか。完全無欠を望むのでなく、できる限り少なくしようと努力をしているのか
否かが大切なのではないだろうか。人手がない、忙しいなどの言い訳の理由によって人間を抑制する。しかもその理由
を正当化して、医療とか福祉と語る。さらには鍵で閉じ込めてしまう。
国民の知らない、医療と福祉の水面下ではないだろうか。厚生労働省の立ち入りを厳しく、抜き打ち監査でもしなけれ
ばならないのではないだろうか。
日常生活動作(ADL)の拡大維持が援助の中心なのであれば、そのことの回復、あるいは維持に焦点を当てるなら
ば、行動制限という方針は逆行していることはだれにでも理解できること、早期離床をいかに早く行うかは、かかわる
者の技量にかかっている。その技術アップを行う事が大切なのではないだろうか。技術というと、手先の事、行動
の事だけと考えがちだが、そうではない技術を持とうとする精神が最も大切なのではないだろうか。精神に発展性を持
つことで、援助者の行住座位の質が向上する、そのことによってその人達がかかわるクライアントの行住坐臥を向上、
成長の方向に向けることができるのではないだろうか。
人間は特別な毎日を送っているのではなく、毎日行住座位を繰り返し生きているのである。その中のオアシスが楽し
み喜びである。このことを対人援助者は援助することを忘れてはならないのではないのか。科学的理論や、科学的援助
論ばかりに捉われていると、人間の本質的な生きるエネルギーのウエーブに気づかないことが起きてしまう。そうなれ
ば本末転倒、援助が援助でなくなるばかりか、抑制となってしまう事もなりかねない。原点回帰、援助という行為は、
クライアントあっての活動という事を肝に命じたいものである。
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