朝雲や 紅く染まりて 秋の風 秋分悟り 先揃う花
ひのひら ろくべえ
暑さが戻り、猛暑日となってる今日、日陰はなんとなく涼やかではあるが、日向は夏日そのものである。
大隅半島の夏はまだまだといった感じである。しかし、空の雲は鱗雲となり、秋の気候を表す雲となって
空を覆っている。天気も「あまのじゃく」だが、人間もまた「あまのじゃく」ではないだろうか。
人間はもともと、一人、パーソナルが基本である。一人で生まれて、一人で死んでいく、しかし生きるた
めには、集団性を確立して、厳しい自然から身を護ることが生きるということ、そうであれば本性である姿
「あまのじゃく」を押さえ込み、集団性を維持するために、組織や先祖に従うという方法をとらなければな
らず、「あまのじゃく」という姿を隠してしまい、いかにも集団的道徳性を持った人間という姿を見せてい
る。しかし時として本性である「あまのじゃく」が現れる。特に自我のコントールを失う場面ではそのこと
が顕著に表れる傾向にある。認知症などは良い例ではないだろうか。
しかし、「あまのじゃく」の本性は別の場面でも現れる。例えば、権力を持つ者から望むことを禁じられ
たとき、人は禁じられれば禁じられるほど、思いは募るという、心理を持つ、これは人間が集団性より、自
分を優先させる価値観を持った時現れるのだが、このような姿を「あまのじゃく」というのではないだろう
か。つまり、人間という動物は、その基本的な精神の中に「あまのじゃく」という心理を持ち合わせている
動物ということになる。
このことを理解していれば、納得できない行動や、不思議な行動というものを理解できるし、分析もしや
すくなるのではないだろうか。
人間は常に集団維持道徳性を持ち合わしているのではなく、「あまのじゃく」という深層心理が基本的な
姿であることを認めることが大切なのである。
人のためではなく、自分の為に何をしてどのように生きるかがとても大切と言う事になる。
「あまのじゃく」でいいのではないか、苦しむことはない、それは集団性を身につける一頁に過ぎない
のだから。
ひのひら ろくべえ
暑さが戻り、猛暑日となってる今日、日陰はなんとなく涼やかではあるが、日向は夏日そのものである。
大隅半島の夏はまだまだといった感じである。しかし、空の雲は鱗雲となり、秋の気候を表す雲となって
空を覆っている。天気も「あまのじゃく」だが、人間もまた「あまのじゃく」ではないだろうか。
人間はもともと、一人、パーソナルが基本である。一人で生まれて、一人で死んでいく、しかし生きるた
めには、集団性を確立して、厳しい自然から身を護ることが生きるということ、そうであれば本性である姿
「あまのじゃく」を押さえ込み、集団性を維持するために、組織や先祖に従うという方法をとらなければな
らず、「あまのじゃく」という姿を隠してしまい、いかにも集団的道徳性を持った人間という姿を見せてい
る。しかし時として本性である「あまのじゃく」が現れる。特に自我のコントールを失う場面ではそのこと
が顕著に表れる傾向にある。認知症などは良い例ではないだろうか。
しかし、「あまのじゃく」の本性は別の場面でも現れる。例えば、権力を持つ者から望むことを禁じられ
たとき、人は禁じられれば禁じられるほど、思いは募るという、心理を持つ、これは人間が集団性より、自
分を優先させる価値観を持った時現れるのだが、このような姿を「あまのじゃく」というのではないだろう
か。つまり、人間という動物は、その基本的な精神の中に「あまのじゃく」という心理を持ち合わせている
動物ということになる。
このことを理解していれば、納得できない行動や、不思議な行動というものを理解できるし、分析もしや
すくなるのではないだろうか。
人間は常に集団維持道徳性を持ち合わしているのではなく、「あまのじゃく」という深層心理が基本的な
姿であることを認めることが大切なのである。
人のためではなく、自分の為に何をしてどのように生きるかがとても大切と言う事になる。
「あまのじゃく」でいいのではないか、苦しむことはない、それは集団性を身につける一頁に過ぎない
のだから。