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迷歩録 こうあつ

2018-09-03 12:45:46 | 日記
  涼風に  秋桜揺れて  夏の夢  のびのびかっ歩  砂浜の蟹


                                ひのひら  ろくべえ





     体操競技協会の問題が連日テレビのワイドショーを賑わしている。特に連盟の重鎮が、「こうあつ」的であった

    なかったと、与えた方と受けた方が争っているという話題が中心である。

    そもそも、「こうあつ」的とは、言葉や態度に留まらず、その立場や役割、人間関係で起きる現象であるにも関わ

    らず、言葉だけに限定をして「こうあつ」的ではないという主張をする重鎮の感覚自体が問題なのではないだろう

    か。重鎮二人に呼び出され、呼び出された時点で「こうあつ」的な事であることが解らない重鎮は如何なものであ

    ろう。

     人間は集団の動物、その集団の中で見えないヒエラルヒーの中で、役割や、立場を維持しょうとする時、立場や

    人間力、才能が上のものに話かけられると、恐縮してしまう。そのような精神を有している動物であることをまず

    知らなければならない、犬などを調教するのとは意味が違う、精神という知力を有している動物なのでである。

     まずはそのことに対する理解が薄いのではないだろうか。スポーツという体力が大事な場であっても、その体力

    や、技術向上には精神が大きく関与していることは誰もが知ること、なのにスポーツの世界は暴力的な指導という

    ものが日常化しているのではないだろうか。特に子供たちに指導する立場の大人が、子供という未熟な者を指導す

    る時、大人であるというだけでも、子供にとっては「こうあつ」的と感じることを知らなければならないのであろ

    う。このような上下関係は、集団の中では必要ではあるが、必要以上にその部分だけ強調される組織となってしま

    うと、人間関係の歪が現れるのではないだろうか。

     このような歪は対人援助の場でも出現する。特に援助する側の勘違いで、援助する者の方が、上位と勘違いした

    時に起きる。「こうあつ」的態度、このことはクライアントはなかなか、表面化できないが、日々感じていること

    である。このことを察した援助ということができなければ、大きな事件、事故に陥っていくのではないだろうか。

     一見関係なさそうであるが、体操界の問題と、医療機関のクーラー故障で熱中症死亡問題は、根底の考え方と

    言う所で、繋がり、同じ考え方、同じような感覚が存在していることに気づくことが大切なのではないだろうか

     人間の集団性の中で、起きうる問題を、知的に研究していくことの必要性を考えさせる話題である。

     「こうあつ」的な態度は、誰も親や、教師、上司、など様々な所で感じる感覚なのである。そのことに配慮で

    きる人となることが大人ということなのかもしれない。