犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある多重債務者夫婦の法律相談 その1

2010-10-19 23:59:34 | 国家・政治・刑罰
 その夫婦は見るからに疲れ果てており、顔に表情がなかった。服装にも無頓着で、典型的な多重債務者の身なりである。何社もの貸金業者からひっきりなしに電話をかけ続けられ、郵便を送りつけられれば、人は簡単にこのような状況に陥る。そして、ますます惨めな生活に拍車がかかり、そこから抜け出せなくなる。
 血も涙もない債権回収会社から見れば、債務者夫婦がこのような窮地に陥っているならば、十分に目的を達成したと言ってよい。自己破産されて借金を踏み倒されることが明らかであれば、せめて債務者が精神的に追い詰められているところでも見せてくれないと、筋が通らないからである。

 弁護士である彼は、経験則上、多重債務が生じた原因を当事者から事細かに聞きだす必要性を感じていた。自己破産の申し立て後、裁判官の前で新たな事実が明らかになったりすれば、目も当てられないからである。弁護士にとっては、債務者の破産が通らなくなる危険性よりも、裁判官に前で調査不足を皮肉られ、当事者の前で恥をかかされることへの恐れのほうが先に立つ。
 彼は、できる限り丁寧な口調で、この夫婦から多重債務に陥った状況を聞き出そうとした。しかし、夫婦ともなかなか口が重く、彼の問いかけに対する反応が鈍い。彼は徐々に苛立ってきた。借金の相談に来たのだから、借金の原因を正直に話してくれなくては困る。このような人達は、必ず弁護士にも言えない隠し事をしているものだ。要注意である。
 彼は夫婦をリラックスさせるために、軽口を交えながら、夫は競馬・競輪やパチンコで浪費していないか、妻は買い物依存症ではないかと聞いた。しかし、そのような事実も全くないようであり、どうにも話が前に進まない。ようやく口を開いたかと思えば、「まあ、色々ありまして……」と語り、薄ら笑いを浮かべて黙り込むのみである。

 彼は質問を変えた。家族や親戚の援助を受けて債務を返済することはできないのか。夫婦は、子供はおらず、親戚とも没交渉になっていると言った。彼は、これもよくある話であり、傷は浅いほうだと思った。親戚が下手に連帯保証人にでもなり、全員揃って自己破産という話にでもなれば、将来的に修復不能な禍根を残す。
 子供がいないというのも、かえって幸福かも知れない。彼はこれまで、子供が両親の借金を背負わされ、理不尽なトラブルに巻き込まれ、その人生の方向性を狂わされたケースをいくつも見てきた。子供の人生は子供の人生である。親の借金につき合わされるほどつまらないことはない。夫婦の生活状況を他者に明確に説明できない者は、往々にして夫婦揃って生活能力が低く、生活設計に甘さがあるものだ。
 夫婦によれば、今から親戚に援助を申し込むことも完全に不可能だとのことである。彼は無理に苦笑いしながら、「金の切れ目が縁の切れ目ですね」と言った。しかし、夫婦の表情は硬いままである。彼としては、最大限に気を遣って言葉を選んでいるつもりだったが、会話がスムーズに進まない。とにかく、自分から相談に来ておいて沈黙されることと、問いかけに対して返事がないことが一番困るのだ。

 彼はさらに質問を変えた。夫婦とも定年まで10年以上もあるのに、仕事ができないというのは本当なのか。確かに夫婦とも医師の診断書はあり、心身の不調により再就職に困難があるという点では問題ない。しかしながら、借金は働いて返すというのが大原則である。夫婦が同時に体を壊し、就職活動すらできなくなるというのも、少しばかり話ができ過ぎていやしないか。
 彼は、裁判官からの詰問に遭いそうな部分を予めしつこく聞いた。しかし、夫婦からは何らの有益な情報も出てこない。彼は、学生時代から培ってきたコミュニケーション能力にはかなりの自信があったが、このような人達はお手上げである。特に、夫婦揃って「死ぬのならばせめて借金をきれいに清算してから死にたい」と語るに至っては、下手に答えれば揚げ足を取られて責任問題となるため、彼のほうが苦笑して沈黙してしまったほどである。
 自己破産の代理人を彼に依頼するのか。彼が最後に聞くと、夫婦は「考えておきます」と答えた。これは、「あなたには依頼しません」の意味である。彼は、それがお互いのためだと思った。弁護士にすべてを正直に話してくれないような人達とは、信頼関係を築くことはできないからである。彼自身も、よくわからない人達に振り回されているほど暇ではない。世の中では貸す方ばかり悪く言われているが、借りる方にも必ずそれなりの責任があるはずである。

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フィクションです。