犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある判決の日の裁判所書記官の日記 その1

2010-10-02 23:57:47 | 国家・政治・刑罰
 運命の瞬間が刻々と到来するとき、人はただ時間の流れに身を委ねているしかない。判決の日の朝、裁判所の玄関前に集まる人々の表情は、人間と時間の関係を裏側から説明しているようにも見える。勝訴か敗訴か、これは多くの人間の運命を一瞬で変え、その後の人生を根本的に変える。
 手に手に横断幕やプラカードを持った支援者の表情には、負けるわけがないとの確信が表れている。しかし、その眼差しは定まらず虚ろであり、ぎこちなく歩き回る姿からは動揺が滲み出ている。極度の緊張は隠しようがない。そして、そのような支援者達がお互いに作る張り詰めた空気が、周辺一帯に異様な空間を形成している。
 人は他人と全く同じ場所に立つことができない以上、それぞれの人にとって風景が違って見えることは当たり前である。しかしながら、裁判所書記官である彼にとって、この裁判所の玄関前を通ることは、それ以上の意味での世界の違いを見せつけられることである。事前に判決の結論を知る者にとって、この世界への接触は、主観と客観の境界線を揺らがされる経験である。

 弁護士が支援者に対し、無理に笑顔を作って何かを話している。彼は、その方向を見ないようにし、足早に去りつつも、腹の底では冷笑していることに気付く。「あまり期待を持たせることを言わないほうがいいですよ。あなた達は、もう負けています。あなた達の敗訴を書いた判決の下書きは、とっくの昔にできています」。
 支援者が「勝訴」の垂れ幕を用意しているのが見える。今日は、この垂れ幕の出番はない。何と無駄なことを。それは、彼にとって優越感と罪悪感が入り混じったような心情でもあり、そのどちらでもないような心情でもある。彼は今、この集団の心を一瞬で凍り付かせる力を持っている。この集団の全員の頭をハンマーで殴りつけ、魂を抜かせる力を持っている。この力は、国家権力といった無粋なものではない。
 弁護士や支援者は今は笑顔を見せているが、数時間後には、その顔は一瞬で凍る。裁判長の言葉に耳を疑い、驚き、うろたえ、憤激し、なぜ正義が負けて不正義が勝つのかと悔しさを爆発させる。そして、「司法は死んだ」「裁判所の信頼は地に墜ちた」と叫ぶ。連日の深夜残業で判決の日に備えた彼の苦労などには全く想像も及ばずに。

 弁護士や支援者達は、数年間にわたり主張と立証を尽くして結審に持ち込み、今は天命を待っている。ところが、彼はその天命を知っている。天命を先に知り得るのは神だけだ。裁判長が主文を言い渡した瞬間、世界は確実に変わる。ところが、彼を含めごく少数の人間においては、先に世界が変わってしまっている。
 神の視点を持つ者は、絶対的な権力を手にしているはずである。ところが、彼には、そこまで言い切れる自信がない。弁護士や支援者達の顔が凍るのは数時間後のはずであり、そこまでは時間の流れには彼も身を委ねているしかないからである。次の瞬間に直下型の大地震が襲い、裁判どころではなくなることが絶対にないと誰が言えるか。数分後に彼に急病が襲い、命を落とすことなど絶対にないと誰が言えるか。
 彼が錯覚した神の視点は、所詮は人間が書いたシナリオの中での出来事である。この世の人々が法律を作り、裁判所を作り、裁判長が判決を言い渡す。彼が立っている特権的な地位とは、この一連の儀式を信じている者の内部において、シナリオを少しばかり早く見ているだけのことである。この特権に何の意味があるというのか。

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フィクションです。