犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある判決の日の裁判所書記官の日記 その2

2010-10-03 00:05:33 | 国家・政治・刑罰
(「その1」からの続きです。)

 法廷の前のベンチには、他方の当事者と関係者が数人座っている。こちらは支援者もなく、孤立無援といった趣きである。当事者達は無言で虚空を見上げ、人生の分岐点を目の前にして怯えている。ベンチの周辺は時間が停止しているようでもあり、時間が停止し得ないことの残酷さを全身で表現しているようでもある。「大丈夫ですよ。あなたは勝っています。結論はずっと前に出ています」。彼は心の中だけで語る。
 この当事者の運命は客観的に決まっているのかいないのか。裁判長が最終的な結論を出した数ヶ月前の時点で、物理的世界におけるその事実は、間違いなく科学的に存在する。そうだとすれば、その時点で当事者の運命は客観的に決まっていたと言ってよい。世間一般の言葉の使い方に従えば、普通はこれを「客観的」と呼ぶからである。
 しかし、彼の思考は、この結論をさらに打ち消す。運命を左右される張本人がその客観的な運命を知らず、運命を左右されない彼が他人の客観的な運命を知っていることなど不自然ではないか。要するに、彼を含めて数人の人間の主観だけを集めて、それを客観と言っているだけの話なのではないか。そうかと言って、裁判長が判決を言い渡すまでは客観的に当事者の運命が決まっていないのだとすれば、その客観から逸脱した彼の立つ場所の説明がつかない。

 彼の脳裏には、運命の瞬間の到来を待つ当事者の姿が貼り付いている。昨夜は緊張で一睡もできなかったとすれば、それは結果的に無意味である。当事者がベンチに座りながら無理に深呼吸をし、手が震えて書類を床に落とし何度も拾い上げていたのも、本来であればしなくてもよい苦労である。結論は数ヶ月前に出ているからである。
 判決宣告の瞬間までわざわざ当事者に極度の緊張を強いることが、その後の当事者の人生に意味をもたらすことになるのか。やはり彼には、そうとは思えない。善とは何か、正義とは何か、彼自身の心の声から耳を塞いでいるように感じられるからである。実際のところ、結審から判決宣告までに恐ろしく長い時間がかかったのは、単に裁判官の異動や法廷の確保といったこちら側の都合だけである。
 極限の心労に向き合っている者の目の前を素通りし、その心労を一瞬で取り除く行為を行わないことが善であるとするならば、そうすることが善であり、そうしないことが悪であることが前提とされていなければならない。しかしながら、彼はそれが善であることを自分自身に説明できない。裁判所は善悪を裁く場でありながら、彼自身が善悪の問題から逃避している。彼の心には棘が刺さったままである。

 それでは、彼はなぜ、心の中だけで「あなたは勝っています」と語ったのか。それは、世間では本当のことを言ってはならないからである。もし、彼が実際に「あなたは勝っています」と言ってしまえば、事態は彼の意思とは無関係に勝手に動き出す。そして、これは彼にとってはこの上なく面倒であり、無意味の最たるものである。
 当事者は恐らく、マスコミの取材に対し、「判決の前から結論を知っていました」と語り、これは大変な騒ぎとなる。情報漏洩、前代未聞の不祥事といった単語が飛び交い、彼の上司はカメラの前で並んで頭を下げ、信頼回復と綱紀粛正に努めざるを得なくなる。そして、彼の心に刺さった棘など何の意味もない無用の長物であるとされ、彼は組織人失格の烙印を押されて懲戒免職となるはずである。
 もちろん彼は、当事者の前を素通りした瞬間、退職金や国家公務員の身分への執着にまで思考を回していたわけではない。職務倫理に照らし、情報漏洩が悪であり、判決の結論を事前に語らないことが善であるとの判断に押し切られたからである。その瞬間、彼は人間としての本音と組織人としての建前を使い分け、善と偽善の境界線を曖昧にしたと言ってよい。それは、主観と客観の境界線をも曖昧にし、神の目の錯覚の中で安易に生きる方法を選択したことでもある。

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フィクションです。