犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (8)

2014-01-31 22:47:33 | 時間・生死・人生
 
 「本当に3ヶ月なんだろうな」と所長が厳しい口調で問う。その冷徹な視線には、疑念と苛立ち、そして呆れ以外の感情が全く含まれていない。私は、例によって直立不動で全身を固くする。しかし、その心の奥底を見てみれば、今回ばかりは恐怖感よりも脱力した哀しみのほうが大きい。「はい、本当に3ヶ月です」と私は答える。所長は相変わらず不機嫌な顔で押し黙り、そんなに話が上手く行くはずがないと言いたげであった。

 一期一会という世の定めのうちに、依頼人の夫婦から人生の正念場を託された私には、やはり職業人としてのプライドと意地がある。私は何のためにこの職業に就いたのか、ここで依頼人の希望に応えられなければ仕事をする意味がないと思う。日々の雑事に忙殺され、なぜ自分はこの仕事をしているのか、なぜ自分は生きているのかを見失っているからこそ、できる限りの献身によって職務を全うしなければならないと思う。

 他方で、私がこのようなことを考えていられるのは、精神的・経済的に余裕があるからである。法律事務所も商売であり、これは利益を生み出す日々の戦いである。私には、自分で事務所を経営するだけの才覚は全くない。自分が一番よくわかっている。だから、嫌々でも今の所長の下で雇われつつ、費用対効果の問題に心を占拠されることなく、仕事のやりがいを追求しているのである。要するに、私は精神年齢が幼く、視野が狭い。

 「3ヶ月が限界だろう」と所長は言う。依頼人が3ヶ月で死ななかったらどうするのか、事務所の看板に傷をつけることにならないか、お前は責任が取れるのかということだ。人の善意や熱意だけで物事が丸く収まるのは、架空の物語の中だけである。社会における組織やシステムは、常に責任問題を生じさせ、現に生身の人間を精神病に追い込む。私は、「本当に3ヶ月です」と重ねて答えることにより、責任の所在を明確にした。

(フィクションです。続きます。)