犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (5)

2014-01-27 22:04:52 | 時間・生死・人生

 彼女は、夫がこのような厳しい状態にあることについて、債権回収会社の担当者には絶対に知られたくなく、一切話していないと言う。彼はここで初めて強く頷き、私のほうを見る。彼は視線を宙に泳がせたりしながら、ほとんど言葉を発しない。そして、これは単純な沈黙を意味しない。ならば私も、彼の目の前で沈黙によって語らなければならないことは当然である。厳密に定義された法律用語の正反対を行くということだ。

 彼らの意志は当然である。債権回収会社にとって、彼の病気は単なる偶発的な事故の一つにすぎない。彼の人格や人柄は重要ではなく、彼の人生という形式さえ重要ではなく、問題となるのは彼の財布と通帳だけである。もともと連帯保証人とはそのような立場だ。回収会社にとっては、彼の経済力を信用していたのに勝手に病気になられてしまい、踏み倒しによる貸し倒れが生じたということになる。これが経済社会の通念である。

 もし、回収会社が今回の事実を知ったなら、どのような対応をしてくるか。当然、死亡保険の有無やその金額を調査したり、新たな連帯保証人をつけることを強硬に求めてくる。回収会社の担当者は、彼の妻に対し、「病気なら債務を払わなくていいという決まりはない」との正論を示し、連日の電話攻勢を強めるはずだ。そして、債務を支払ってほしいという理由だけのために彼の快癒を望み、その希望を彼の妻に伝えてくるだろう。

 人は、自分の死に直面して、必ず言葉を求める。生死すなわち人生の真実を語る言葉を必ず求めるはずである。人が本当に必要とするものは言葉であって、お金や物ではあり得ない。ここで耳に入る言葉が、債権回収会社の担当者からの請求であれば、彼は肉体よりも先に心を殺される。娘のために絶対に治してみせると語る彼と、奇跡を信じる妻に対し、ある種の言葉はそれらの繊細な精神を打ちのめし、ズタズタにしてしまう。

(フィクションです。続きます。)