犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

横浜地検川崎支部・容疑者逃走事件(2)

2014-01-09 22:29:31 | 国家・政治・刑罰

 「逃走することの悪」と、「逃走されることの悪」とでは、どちらがより問題なのか。法治国家の社会常識は、「逃走されること」のほうを問題視する。両者は悪の次元が異なり、哲学的な罪と罰そのものの問題は掴みどころがない。これに対し、制度やシステムの不備は一見してわかる。人は叩きやすいところを叩き、これが世論の主流となって固定してゆく。

 大捕物はテレビの視聴者の娯楽である。出過ぎた杭は打たれない。視聴者が容疑者を見る目は、芸能人やスポーツ選手に対するそれに等しい。容疑者は逃げたいに決まっているのだから、「逃走すること」は悪くないことになる。社会は、現に起きた逃走劇を認める。これに対し、「逃走されること」は絶対にあってはならず、許されない過ちだということになる。

 実務の現場において、この世論の空気に囲まれつつ目の前の業務に向き合うことは、強姦被害者の踏みつけに加担しているようで心が非常に辛い。全ては、欲望のままに好き勝手に行動した容疑者の軽率さから始まったことである。容疑者は、世間様をお騒がせしたことも含めて、人間として今回の出来事の全てを背負い込むのが筋である。心の奥底からそう思う。

 ところが、この社会ではそのような論理は甘えであり、「逃走されることの悪」からの責任転嫁となる。当の本人を差し置いて、何よりもまず公務員である我々が反省しなければならない。そうしなければ、この社会では通らないのだ。やはり心の奥底では虚しい。仕事への誇りで心を支えるにも限界がある。見えない手錠や腰縄でがんじがらめにされているようだ。

(続きます。)