犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その25

2013-08-12 22:58:48 | 国家・政治・刑罰

 責任感が強いということは、この社会で高く評価されることである。他方、責任感に苛まれて心を壊してしまうことは、この社会を生き抜くには虚弱に過ぎるとして、酷評の対象となるのが世の常である。この似て非なる2つの状態について、理屈を突き詰めて分析することは無意味であると思う。実際にその場に置かれてみないと、この強さと弱さが表裏一体であることは実感できないからである。責任逃れの態度は批判されるが、責任を抱え込んで病むことも批判され、どちらに転んでも批判される事態である。

 人の命を奪ってしまった被告人とは比ぶべくもないが、私自身の限られた経験においても、自責の念で心が潰れた状態というものは、この身体がよく覚えている。仕事上のミスにより一睡もできずに朝を迎えたり、食事も喉を通らないとき、あらゆる社会問題は無意味である。この自分が直面している問題が、世界で最も大変な問題だからである。誇りを持って真摯に取り組んできたはずの職務について、積み上げてきたものの全てが無意味とされ、「反省と再発防止」の一言でまとめられることは、本当に心が折れて立ち上がれなくなるものだ。

 この社会では、無数の組織内の論理と組織外の論理が複雑に交錯し、馬鹿正直は害悪となり、隠蔽は職務命令にもなる。いったい、1人の人間の打たれ強さやストレス耐性とは何なのか。これは言うまでもなく、精神的な健康を保つことであり、上手く気持ちの切り替えをすることであり、責任を抱え込まないことである。繊細な者には不利であり、鈍感な者には有利である。心底から自責の念に苛まれ、精神的に破綻してしまえば、結果的に「自分のケツを自分で拭く」ということもできない。責任を他人に押し付けて逃げ出すという、本来は正反対の意味を持つ行為との外形だけが一致することになる。

 「交通死亡事故は被害者よりも加害者のほうが地獄だ」という言い回しがある。私はいかなる意味でもこの意見に賛同できないが、思わずそのように考えざるを得なくなる資格の有無には段階があると思う。加害者の外側に向けた「身の置き所のなさ」と、内側に向けた「心の置き所なさ」の双方が極限に達すれば、この世の唯一の希望として「悪者に対して怒れる地位」が浮かび上がってくるはずだからである。実際のところ、普通の人間の心はそれほど強くない。人は追い込まれれば追い込まれるほど狡猾になり、開き直り、お金の力を借りる。

(フィクションです。続きます。)