犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その22

2013-08-04 22:31:34 | 国家・政治・刑罰

 ある労働事件であった。運送会社で車庫入れに失敗し、トラックの側面に傷をつけてしまった従業員が、修理代及び休車による営業損害の賠償として会社から莫大な金額を請求され、解雇された末、疲弊の極致に追い込まれた状態で法律事務所を訪れた。事故の遠因は、一見して、会社の人員削減によるドライバーへのしわ寄せであった。

 しかしながら、証拠が会社側に握られている中で、厳しいスケジュールによる長時間勤務を証明するのは難しい。ましてや、ノルマ達成のための過重労働とハンドル操作のミスとの因果関係の証明などできない。この場面において、「運転手は自動車が人の命を奪う道具であることを一瞬でも忘れてはならない」との真実の力は圧倒的であった。

 会社側の主張は、運転手の人命軽視の態度に対する道徳的な非難の一点張りであり、その要求は多額の金銭であった。そして、その主張からは、命の重さに関する洞察もなく、会社の利益が下がったことへの憤慨だけがあった。他方、依頼者である運転手は、自らの安全運転への認識の甘さを責め、打ちひしがれ、鬱病から抜け出せずにいた。

 労働問題と交通事犯の論理は全く別々であり、実務処理も完全な縦割りである。労働者の権利を論じるとなれば、憲法の労働基本権からの仰々しい話が始まる。他方で交通裁判を論じるとなれば、憲法の定める被疑者・被告人の人権からの講釈である。一度失われた横のつながりは、二度と戻らない。これが私の偽らざる実感であった。

(フィクションです。続きます。)