犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

門田隆将講演会 『光市母子殺人事件 ~法の限界を乗り越える~』 その1

2012-11-03 23:19:04 | その他

(中央大学白門祭の企画講演会です。門田氏の講演の内容と私の感想が混じっています。)

 光市の事件は平成11年4月であり、地下鉄サリン事件などと同様、どのような事件だったのかを説明するところから始めなければならない時期に差しかかっているようです。しかしながら、もとより人はこの意味での風化を避けることができず、人は自らがリアルタイムで見聞きした事実をも後講釈で変形することができるのに対し、生まれる前の事実についてもその時のその現場に身を置くことは可能であると感じます。これは、いかなる戦争や災害についても同じことだと思います。

 裁判所の判決文における本村洋氏の心情の描写は、「遺族の被害感情は峻烈を極めている」といったもので、いかにも判決文らしい定型句です。これに対し、門田氏が本村氏から聞き取った峻烈な感情は、当然ながら、自分自身に対する怒りが第一でした。それは、妻は最後の瞬間まで「なぜ夫は妻と娘の危機を察して飛び込んで来てくれないのか」という絶望を抱えていたはずなのに、妻の遺体を発見した瞬間、本村氏は腰が抜け、我を失い、妻を抱きしめられなかったのであり、そのことに対する自分への怒りであったとのことです。そして、「犯人よりも自分が許せない」という怒りは、あまりに文学的に過ぎ、法律の言語では表現できません。

 「遺族の被害感情は峻烈を極めている」という最高裁の判示は、死刑を適用する際の判断基準となっている「永山基準」の規範定立に即したものと思われます。永山則夫連続射殺事件の最高裁の上告棄却判決は平成2年4月であり、光市事件の発生は平成11年4月ですので、時間的距離を測れば、すでに光市事件から現在までのほうが長くなっています。永山基準を絶対的な規範とし、その後の刑事裁判をすべて支配するという1つの仮説も、事件の記憶の後講釈による変形に伴って、単なる相対的な地位に落ちることになります。この意味での過去の判例の風化に抗う意味はないと思います。

 門田氏の講演のテーマである「法の限界を乗り越える」とは、法律とは何なのか、裁判とは何なのか、あまりに当たり前のことを考え続けることであるとの感想を持ちました。門田氏は「裁判所には軸がない」と述べていましたが、私には「哲学がない」と同じ意味であると感じられました。人生の1回性を起点とし、「過去の判例に捕らわれず、この事件に巻き込まれたその人の人生に全身で向き合い、人間の叡智をもって裁判を行う」との哲学は、法律学のほうからは、裁判制度の基礎の基礎も理解していない妄言だとして一笑に付されるものと思います。そして、一笑に付しているうちは、人のために作られた法が人を苦しめ続けるのだと思います。

NHKスペシャル 『水玉の女王~草間彌生の全力疾走』

2012-09-30 21:52:23 | その他

9月28日 NHKスペシャル より

番組の紹介より
 張りつめた糸が切れそうで切れない。83歳の前衛芸術家の姿に、そんな感覚を抱いた。1~3日に1点のペースで作品を生み出すという。その一方で、自殺の恐怖にさらされ、病院とアトリエとの行き来が欠かせない。カメラは、筆を持った時に見せる鋭い眼光を捉えたかと思えば、病院で「自分が自殺しそうで」と苦悩を語る姿を映し出す。

番組内の本人の言葉より
 草間彌生のカルテには、不安神経症となってるんですよ。強迫神経症と。自分が自殺思想でいたたまれなくて、毎日毎日自殺の恐怖に、今でもさらされてきて、今もそう。外に一人で買い物にも行かれないくらい不安がいっぱいなんです。絵の力で生きていく道を探したわけですけど、もしそれがなかったら私はとうの昔に自殺していたと思います。


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 芸術のセンスのない私には作品を見る眼はありませんが、人間の狂気はテレビを通じても十分に伝わることを知りました。思わず見入ってしまうか、思わず目を逸らしてしまうか、凡人に可能な姿勢はどちらかだと感じます。強迫神経症という病名はとりあえずの解答であり、正確には「水玉を書いていないと死んでしまう病」というより説明がつかないと思います。人は自殺しようがしまいが最後には死があり、その死は無であり、その無は存在しない以上、正気を貫徹した先に狂気があり、個々の水玉は正気のバランスを取るための血の固まりだと直感します。

 「誰が神様ですか」という質問に草間彌生が「私」と答えている場面がありましたが、ここは非常に誤解を受けやすく、既成の宗教からも唯物論的無神論からも理解されない部分だと思います。「誰が神か」という問いに正確に答えようとすれば、自分がこの自分であることが説明できなければならず、しかも人生が過酷であればあるほど教団も教理も役に立たないという事実を直視したうえで、死について主体的である自分の全存在に責任を持たなければならず、「私」と答えるしかないと感じます。

 他人から求められた仕事ではなく、自分の死に責任を負う自分の声のみに従わざるを得ない権利と義務を持つ者の関心は、絶対的な自分でしかあり得ないと思います。すなわち、他人の目を気にした上での相対的な自分というものは存在し得ないはずです。作品に破格の値段がつくという部分が目を引くため、世俗的な注目が集まるところも決まっており、ここも固定観念による解釈が多いと思います。「有名になりたい」「後世に名を残したい」といった世俗的な欲望がある者であれば、これだけ社会的に成功した上で毎日自殺の恐怖に苛まれることは不可能です。

 以下は、自分の仕事に引き付けた強引な推論ですが、「何かをやっていないと死んでしまう」という悲痛な狂気を伴って裁判をしている人は多いと感じます。そして、その自殺と隣り合わせの狂気はほぼ間違いなく誤解され、「苦しく長い裁判を闘っている」と表現され、ある時には「精神的苦痛を金に換える裁判」「負けることが解っていて腹いせのために起こした濫訴」と誹謗されているように感じます。憲法13条が個人の尊厳と生命尊重を第一としているならば、「裁判をしないと死んでしまう」という言葉をもう少し深く捉えるべきだと思います。

映画 『ニーチェの馬』

2012-05-26 23:44:07 | その他

 人間の内心は映像化できませんが、その映像を見た者の内心に生じた状況によって、映像が人間の内心を示すことは可能だろうと思います。文章にも読解力を要するものと要しないものとが存在するように、映像についても作り手がそれだけの要素を凝縮していれば、これを見る際には読解力が試されます。但し、ほとんどの映像が印象操作の道具であるような環境に置かれていると、一義的であることが論理の限界だと信じる癖がついてしまうため、その逆が論理の限界であると認識するのは困難だと思います。

 ニーチェが1889年にトリノの広場で昏倒したという歴史的事実については、その原因が「諸説ある」と言われているとおり、一種の逸話・寓話となっているようです。「鞭打たれる馬に駆け寄って守った」との説明もあれば、「疲弊した馬を見て哀れみ馬にすがりついて泣いた」との説明もあり、あるいは「トリノの往来で騒動を引き起して警察官の厄介になった」とも言われ、どれも本当でどれも嘘だと思います。哲人であろうと凡人であろうと、人の心の内は謎であり、発狂の理由など本人もわからないと思います。

 この映画を見た私個人の感想ですが、「ニーチェの馬」というのは、苦しみでしかない単調な人生を超越すること(超人)の限界を具象化しているとの印象を持ちました。ニーチェの言葉を格言として何かを得ようとするならば、本来であれば、心が引き裂かれるような狂気に直面しなければ嘘だと思います。ニーチェが21世紀の日本を予言している訳はありませんが、現代の格差社会に即して言えば、神が死んだ後には「馬車馬のように働かされている人間」に対する狂気が残らなければならないと思います。

映画 『はやぶさ 遥かなる帰還』

2012-03-25 00:03:44 | その他

 人間は「希望」「夢」という言葉に弱いものですが、宇宙旅行が見知らぬ世界への憧れであるというのは、多分に作られた固定観念であると思います。全人生を賭けて宇宙の謎を知りたいと問う者は、自分の寿命が尽きる前に何とか科学技術が追い付いてくれなければ死ぬに死ねないわけで、小惑星探査機はやぶさが小惑星表面の岩石質微粒子を採集できたか否かは、自分の人生の意義を決する問題であったものと思います。その切羽詰まった心境は、希望や夢とは無縁であったものと想像します。

 哲学的に宇宙を問うならば、「ビッグバンの前は何があったのか」、「宇宙の果ての外側はどうなっているのか」との問いによって科学の問いを凌駕できますし、「そもそも何故こんなところに(別に無いなら無いで済んでいたのに)宇宙などという空間があるのか」という身も蓋もない問いも問えるものと思います。いずれにしても、宇宙に希望や夢を求め、同時に地球上の表面に貼り付いて現実の世界で生活するという芸当の欺瞞性には敏感であるはずです。

 映画のモチーフが、はやぶさを開発した科学者・技術者たちの誇りというところであれば、人間の内的宇宙の精緻な描写は、一般的に考えられている科学よりも科学的なものになるはずだと思います。この無限の宇宙空間の中の豆粒よりも小さい星の上で生きているはずの人間の頭の中に、宇宙がすっぽりと入るからです。「絶対にあきらめない」、「日本の技術力・人間力が世界を変える」との宣伝文句は、作られた固定観念をさらに増幅する作用しか持たないとの印象を受けます。

映画 『ALWAYS 三丁目の夕日’64』

2012-03-18 00:10:13 | その他
 
 今となっては、パソコンや携帯電話がない日本社会は想像できませんが、1960年代への憧憬が単なる懐古趣味に止まらないとすれば、それは情報通信機器なしで生活できていた過去の我々への畏敬の念を含むものと思います。これは、不便な世の中に耐えてきた者に対する同情ではなく、情報通信機器によって奪われた人間の思考力の再認識です。

 何かが便利になるということは、人間が何かの能力を使わずに済むようになるということですので、その分だけ何かの能力は衰えているものと思います。そして、その何かが何なのかは良くわからないはずです。1960年代に生きていた日本人は、他者の言葉や気配に対する感度が鋭く、物事を抽象的ではなく具体的に考えていたとの感を強くします。

 「人は昔に戻ることはできない」とはあまりに当たり前の事実であり、これを改めて言わなければならないのは、何かを恐れていることの証拠ではないかと思います。60年代に目指していた夢の未来であるところの現在が、「60年代は良かった」であることを認めるのは苦しいからです。

3月3日 朝日新聞朝刊より

2012-03-04 23:24:56 | その他

● 『いま伝えたい千人の声』 第12回「わが子を亡くして」より

 「寂しさは増してきた。何年か後も同じかも知れない」。でも、いま、ここに子どもたちがいなくても、親であることには変わりない。

 「町はきれいになっていくのに、なんでうちの子だけいないんだろう」。

 「経済都市に戻るだけでなく、家族を亡くした人々の『気持ちの復興』をしなくては」。

 子どもを亡くした親たちによる「つむぎの会」(仙台市)の集まりが昨年7月、石巻で開かれた。すがる思いで参加した。みな同じ悲しみを抱く。「部屋に入ったとき、空気が違いました」。

 「周りの笑顔が受け入れられなかった」。慰めの言葉にさえ傷ついた。


● 『鎮魂を歩く』 第40回より

 イベントやら何やら、色々誘ってはもらうんです。ありがたいんですけどね、静かにしといてほしいんです。どこかの新聞社の人が前に来たときも、こう言いましたよ。つらい経験を乗り越えて前へ進もうなんて、そんな記事が書きたいんでしょう、お断りしますよって。(中略)

 別にだれを恨みもしないんです。ただ、悔しさは、悔しいのなっす。じいさんは年も年だから、まあ、あきらめもつきます。でも息子はこれからの人だもの。私の心は、私でないと分からないですよ。


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 東日本大震災の日より数ヶ月が経過した頃から、「責任の所在」を論じることができる原発事故の報道を除けば、マスコミで提示される論点の形は限られてきたように思います。がれきの受け入れの問題、風評被害の問題、その他「復興」に関連づけられた以後の問題が99%以上を占め、その日の事実が事実として報道されるものは1%以下に減っていたとの印象です。

 震災が起きる1ヶ月ほど前、解説者の池上彰氏が「マスコミは意図的に明るいニュースを取り上げるべきだ」と述べ、新聞の暗い紙面を戒めていたのを思い出します。震災が起きた数日後、評論家の森永卓郎氏が「単なる復旧ではなく従来よりも素晴らしい街を創らなければならない」と述べ、ピンチをチャンスに転化する方法を力説していたことも思い出します。

 震災に関するマスコミの報道は、その1つ1つが長年業界に生きる職業人のバランス感覚に裏付けられたものであり、現場を知らない者が勝手に抱く印象は無責任だと思います。のみならず、報道の内容に対して何の影響力も有していない者による批判は、負け犬の遠吠えです。そのような無力な私にとって、上のような記事は、少し救われる思いがするものでした。

元日の各紙の社説より

2012-01-01 02:11:42 | その他

●読売新聞
 四海の波は高く、今にも嵐が襲来する恐れがあるというのに、ニッポン丸の舵取りは甚だ心もとない。このままでは漂流どころか、沈没の危険すらある。いったい、我々はどこへ行くのか。国のあり方を大きく変える、いわば「平成の改新」を実現するための、党派性を超えた構想力と大胆な行動力が、今の政治に求められている。

●朝日新聞
 なんとも気の重い年明けである。民主党が歴史的な政権交代を成し遂げてから、わずか1年4か月。政治がこんな混迷に陥るとは、いったいだれが想像しただろうか。長い経済不振のなかで、少子高齢化と財政危機が進む。政治はこれらの難問に真剣に取り組むどころか、党利党略に堕している。そんなやりきれなさが社会を覆っている。

●毎日新聞
 日本が元気をなくしている。日本人が内向きになっているといわれる。若者が留学や海外勤務を避けたがるという話もよく聞く。日本の人々が縮こまってしまい、本来の力を発揮できていないようだ。

●日本経済新聞
 めでたいとは言い難い年明けだ。経済が拡大せずに公的債務が膨らめば、遠からず国は破綻の危機を迎える。それを避けるには経済と財政、社会保障の改革を急ぐしかない。本格的な高齢化を2~3年後に控えて、これから1~2年は日本再生への最後の機会となるだろう。


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 今年ではなく、昨年(平成23年)の元日の各紙の社説からです。何だかどの社説も非常に暗いです。
 この10ヶ月間、「がんばろう日本!」「支え合おう日本!」「勇気を与える」「元気をもらう」などの言葉が耳に慣れてしまったため、1年前の社説が示すような「時代の空気」「暗い世相」が何だか上手く思い出せません。

 昨年の今頃の日本で広く語られていた言葉といえば、「閉塞感」「得体の知れない不安」「未来に希望が持てない」といったものが多かったように思います。震災前には日本中で未来に希望が持てなかったところが、急に日本が一丸となって被災地の未来の希望を語ったところで、暗い世相の暗さはより深く潜り込むしかないと感じます。

田中好子さん 死去

2011-04-22 23:54:34 | その他
 がんの手術をした知人から、その瞬間から世の中の見え方が変わったとの話を聞き、慄然としたことがあります。物の見方は自己の意思によって変えられる(プラス思考の推奨)との幻想を打ち砕かれました。死を遠い将来の一地点に置いたうえでの人生設計は無意味になり、「5年後の自分」「10年後の日本」などといった思考の形式も無意味になり、時間の単位が「1日」しかなくなったと聞きましたが、経験のない私にはその感覚が上手くつかめませんでした。

 田中好子さんがどのような経緯で映画『ゼロからの風』の主役を演じることになったのか、私は詳しいことは知りませんでしたが、俳優の魂のようなものを感じて圧倒されたことを覚えています。台詞がない沈黙の場面の演技が、語り得ぬものを語らないことによって語るのだという逆説を示しているように感じました。息子の命を奪った犯人が自宅に謝罪に来て、その犯人と無言で向かい合う場面では、言葉では語れない空気を表現する唯一の方法が選択されているとの印象を受けました。

 「息子の無念を晴らす」「理不尽な法律の壁に戦いを挑む」と言ってしまっては、単なるイデオロギーのための社会運動となり、絶望や死が遠ざかることになります。なぜ田中さんの演技が絶望や死から離れていなかったのか、平成4年からの20年来の闘病であったことを知り、その理由がわかりました。ワイドショー的な「突然すぎるスーちゃん死去」「キャンディーズ33年ぶり悲しき集結」には心が乱されます。

没後80年 金子みすゞ展

2011-04-17 23:25:25 | その他
 震災前の2月2日から14日まで、東京日本橋三越本店で開催されていた催しです。最終日近くに行きましたが、大変な混雑で、落ち着いて見られませんでした。パンフレットを買いましたが、その後も日々の雑事に紛れて放置しておりました。詩を読んで味わうためには、ある程度の心の余裕が必要であり、目が文字の上を滑る状態で無理に読むのは意味がないと感じているところです。
 震災に伴うACのコマーシャルの影響で、金子みすゞの『こだまでしょうか』に注目が集まり、詩集に注文が殺到しているとのニュースを聞きました。何かが違うと感じます。自殺により生涯を終えたみすゞの詩には、どこかに必ず死の影が伴うように思われます。そして、1万人を超える人々が亡くなった震災によりコマーシャルが差し替えられ、その波及効果で注文が殺到したという一連の流れに、何とも言えない違和感を覚えます。

 人が「詩人」として生きることを選択したのであれば、それはある種の生からの撤退を意味せざるを得ないと思います。言葉はコミュニケーションの道具ではないと知ることは、言語による日常生活を拒否するか、もしくは世間の中では演技をせざるを得なくなるからです。その意味で、詩とは一般に考えられているところの心情の吐露ではなく、自然科学の観察に類するものであり、人の感性ではない意識の論理的な現象であると思います。
 金子みすゞの詩については、動植物などの自然を通じた宇宙的感性が表れているとの評が多くありますが、全くその通りだと思います。「詩人」と言われる人々によって書かれた詩とは、どういうわけか鋭敏な言語意識を持って生まれて来てしまった者が、言葉と宇宙とが直結していることをも本能的に察知してしまい、宇宙大に膨張した狂気と錯乱を再び言葉に凝縮する作業を行った結果のことだと思います。ゆえに、「私はこう考える」という主格が消失し、視点が万物の側に移るのも当然のことと感じます。

 みすゞと宮沢賢治との哲学的感性の偶然の一致を指摘する論評もあり、なるほどと思わされました。『こだまでしょうか』は、宮沢賢治の『春と修羅』の有名な一節、「すべてが私の中のみんなであるように、みんなのおのおののなかのすべてですから」を連想させます。言葉は、在るものを「在る」と語り得るのみであり、無いものを「無い」とは語れない以上、絶対的な言語を語ろうとする者は、実在の周囲を旋回して無限に接近するのみであり、決してその場所には到達しないものと思います。
 そして、言語の不可能性を知り、詩は書けば書くほど嘘を書くことになると知った者のうち、その発語できないそのことを上手く処理できる才能に恵まれた者のみが、「詩人」として詩を書くことができるのだと思います。みすゞの『大漁』などは、その題名からして、計算され尽くした狂気を感じます。レトリックや発想の問題を超越しています。無私の私の言葉に耳を澄まさなければ、このような言葉の組み合わせは出て来ないはずだ思います。

 金子みすゞの自殺の理由については、自殺というもの一般がそうであるように、本人にしかわからないと思います。但し、後世の人々の詮索から想像するに、詩に表れている命への慈しみと、自らの死とは表裏一体であったものと感じます。「海の中での何万の鰮のとむらい」は、すでに生じた死を前にして、現実に命を慈しむことの不可能を示しています。そもそもこの詩の内容は、漁業関係者を不愉快にさせる営業妨害のようなものであり、みすゞにとっては生まれ故郷の漁港の町も居場所ではなかったのだと思います。
 みすゞが商売人である夫に蔑んだ視線を向けた気持ちもわかりますし、俗物的とのレッテルを貼られた夫がプライドを傷つけられてみすゞに詩作や文通を禁じた気持ちもわかります。これは、現代にもそのまま通じる対立軸だと思います。また、「夫に最愛の一人娘を奪われることへの抵抗」「娘を守るための自殺」という一見わかりにくい状況も、思考できないものを思考することの不可能性を知った詩人の選択なのであれば、そこには後世の解釈を拒む歴史的事実があるのみだと感じます。

 何はともあれ、震災に伴うACのコマーシャルの影響で金子みすゞの詩集に注文が殺到していることについては、みすゞのファンとしても、嬉しい気持ちにはなれません。

東日本大震災

2011-03-13 23:56:22 | その他
 その時私は、東京の真ん中のビルの中にいました。倒壊の危険を感じて外に飛び出ると、すべての建造物が大きく揺れ、無数の人々が道路に飛び出していました。地鳴りのような音を聞きながら、「狭い地球の表面に貼り付いて重力に逆らってビルを建てた人間の文明の儚さ」などという陳腐な台詞が頭に浮かんでいました。
 震源地が東北地方であることを知ると、私は「被災者とそれ以外」の二分法に従って安全地帯に移り、被災地を対象化して捉え始めていました。私には、これ以上被害が増えないことを祈り、亡くなられた方の冥福を祈ることしかできません。情けないです。

 先の先の復興政策を語り、中長期的な展望を語る政治家が嫌いです。時間は、今この瞬間しか存在せず、しかも「その瞬間」で時計が止まったならば、動くことはないと思います。
 自分のプレーで被災者を元気づけたいと言っていたスポーツ選手が嫌いです。何の力にもならないと思います。喪章も免罪符のようで好きではありません。
 被災者の悲喜劇のストーリーを無理に描いていた番組が嫌いです。先の1月の阪神淡路大震災16年の追悼行事の取り上げ方の小ささを思い起こすと、信用ならないと思います。

 「これほどの規模の津波は想定されていなかった」と淡々と語る専門家が嫌いです。自然の猛威の前に人智の無力さを語るのではなく、結果論としての精緻な分析を展開し、被災者の生活の破壊を前にして科学者の立場を守るのは欺瞞だと思います。
 天変地異の原因を為政者などの外部に求め、主義主張に転化する非科学的な思想を語る人が嫌いです。神や仏がいるのであれば、こんな悲しいことは起こりません。天変地異によって人類に警告を与える神は、それを信じる人間が勝手に作った神にすぎないと思います。
 これらの理屈を述べる人々に比して、被災地で理屈も語れず汗と涙を流している人々に対しては、敬意と畏怖以外の感情は湧いてきません。

 震災の翌日、メールで首都圏の帰宅難民の悲惨さと武勇伝を自慢してきた友人が嫌いです。「今から仙台で不動産屋でもやるか」と言っていた同僚も嫌いです。ここぞとばかりに耐震工事の営業に来たリフォーム会社の社員も嫌いです。
 これらの人々に対して愛想笑いをし、追従笑いをし、大人の対応をしている自分が嫌いです。
 歯切れの悪い記者会見をする東京電力や原発施設の関係者にはイライラします。しかし、これに対して矢継ぎ早に厳しい質問を投げかけ、常に正義の側に立っているマスコミの人々はもっと嫌いです。
 普段の仕事では同じような会話を繰り広げ、揚げ足取りと保身しか考えていない自分を省みて嫌になります。

 地震の直後に、メーリングリストで義援金の提供を募ってきた団体が嫌いです。この団体の内部では、先方からお礼状や「義援金を頂いた方々」の公表がないと、不満のメールが飛び交います。単なる売名行為だと思います。
 福島原発の爆発が起きた直後に、メーリングリストに鬼の首でも取ったかのようなメールを送ってきた原発反対活動家が嫌いです。被災者への支援活動と政治利用は紙一重であり、鈍感でありたくないと思います。

 好き嫌いはすべて解釈であり、自分が考えたいように考えることが可能です。これに対して、あらゆる不要な情報を取り去った後、最後に残るのが安否確認の情報です。ここでは、「心より震災のお見舞いを申し上げます」といった言葉は無価値です。
 奇跡の再会と、悲しみの対面とは、天国と地獄であると感じられます。そして、新聞やテレビでこの天国と地獄を交互に見ていると、心が整理できなくなり、言うべき言葉が何も出て来なくなり、余計な言葉しか書けなくなります。

 天国の場合には再会した両者の視点が存在するのに対し、地獄の場合には残された者の視点しか存在しない点において、死者からの視点は強制的に除かれます。「生存者の捜索」と「遺体の収容」の違いを分けて考えることも、言葉で無意識に線を引き、上から目線の安全地帯に逃げているように思われます。
 悪夢を前にして全身で生きている人々に対し、私は傍観者としてこれ以上被害が増えないことを祈り、亡くなられた方の冥福を祈ることしかできません。本当に情けないです。