犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (21)

2014-02-22 21:24:39 | 時間・生死・人生

 3ヶ月を過ぎると、債権回収会社からの催促の電話の頻度が増えてきた。1週間に数回かかってくることもある。恐らく担当者は、社内において、上司に「3ヶ月で見通しがつきます」と言って守れなかったことの責任の矢面に立たされているはずである。ここの点を想像すると、私は少し心がざわつく。しかし、電話口からの担当者の喧嘩腰の声を聞くと、そのような繊細なものは吹き飛んでしまう。世の中、物事が予定通り行かないのは当たり前だ。

 人間は、それぞれの思惑が交錯する交渉事に揉まれていると、いつの間にか性格が図太くなり、面の皮が厚くなってしまう。他者への想像力や共感力なるものは、それを働かせたいときには働かせ、それを働かせたくないときには働かせず、要するに他者ではなく自分の好き嫌いであると思う。そして、この矛盾を覆い隠すものは「正義」である。純粋な観念として身につけられた正義は、世の中の厳しさを経ると、なぜか権力性を帯びる。

 人が人生を誠実に生きることの難しさは、それ自体に内在する論理の限界ではなく、組織における他者への責任との関連性であると思う。人は組織の中で社会性を身につけ、ある時はペコペコし、ある時は毅然とし、この技術の会得は公共的な利益に転化する。「人は1人で生きているのではない」という命題は、他者の人生を尊重することではなく、相手の立場やメンツを察知することである。すなわち、相手の足元を見て態度を変えることである。

 法律家は、屁理屈と屁理屈の戦いの中で、他人の屁理屈を心底から嫌いつつ、自分の屁理屈を愛する。人の職業は、仕事上の演技に止めているはずが、思考の型まで規定することを免れないものだと思う。公務員は公務員、実業家は実業家、学者は学者である。これは肩書きではなく、私生活全般の人格である。ここで、法律家の職業病とは、もともと理屈っぽい人間が法律理論を身につけ、さらに法律実務で理屈っぽくなる過程である。

(フィクションです。続きます。)


余命3ヶ月の連帯保証人の話 (20)

2014-02-21 22:49:57 | 時間・生死・人生

 医師からの余命宣告は、往々にして外れるものである。見通しよりも早く病状が進むこともあれば、何年も元気で生きているという話を聞くこともあり、所詮は統計学的なものだと思う。今回、私が3ヶ月を一応の目安として話を進めたことについては、明らかに間違っていたとは思わない。しかし、その選択が結果としてベストであったと言えるのは、本当に依頼人が3ヶ月前後で亡くなった場合のみである。

 「理想の世の中の実現に寄与したい」という青雲の志の困難性については、私はとうの昔に悟っていたはずであった。しかし、「社会の片隅で僅かでも世の中に貢献したい」という願望の挫折ですら、思い描いていた挫折の道筋とはまた違っていたとなれば、思考は混乱の独り相撲に陥る。私は、単に依頼人の人生を利用して自己満足に浸り、自己実現を図ろうとする偽善者に過ぎなかったのではないか。

 法律家の職責は、何よりも依頼人のためにベストを尽くすことであると思う。しかし、貸金業者を悪の側に置き、債務者の味方である自分を善の側に置いて事足れりとするのは、あまりに稚拙であることも確かである。いくつもの修羅場をくぐって来た所長から見れば、青二才の私の危機管理能力などゼロに等しいはずだ。双方の立場に立って状況を俯瞰できなければ、経済社会では通用しないということである。

 「お前は仕事をなめてるんじゃないのか? 世の中をなめてるんだろう?」と、所長が決定的な一言を言う。その通りである。私は、人の生死ほど大きな問題はなく、その問題の前にはお金の話など俗世間の些事だと思っている。しかし、私は心の中ですら所長に反論することができない。確固とした自信がなく、激しく揺れて倒れそうである。「はい、申し訳ありません」と適当に謝り、その場を取り繕うしかない。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (19)

2014-02-19 23:24:07 | 時間・生死・人生

 私は所長の前で硬直しながら、内心の複雑な思いを押し殺している。この心の操作は、思いを複雑なまま保存するのではなく、単純化して終わらせてしまうことである。およそ「実務と理論の融合」など無理な注文だとつくづく思う。目の回るような実務の現場では、複雑な理論は単純にして済ませなければ、人間はパニックに陥って頭がパンクしてしまう。高邁な理論が高邁であるのは、それが現場の悲鳴と無縁だからである。

 「町弁」の仕事は、暮らしの中の相談事を通じて、依頼人の人生の一部を預かることである。今回の仕事は、法理論として難問を含むわけではなく、債権回収会社との交渉も一辺倒であり、弁護士としての専門知識や手腕が必要な種類のものでもない。依頼人の希望に沿うよう力を尽くすことが可能である。費用対効果が極めて悪いわけでもなく、「もう少し事務所全体で親身になってもいいではないか」というのが私の本音である。

 所長が私に不快感を示す理由はよくわかる。私の行動の中に、「誰がやっても同じ仕事はしたくない」「自分だけの仕事がしたい」という虚栄心が垣間見え、それがイソ弁以下のノキ弁の忠誠心を明らかに疑わせるからである。しかしながら、私はいずれ死すべき人間として、どうしてもこの仕事への熱意を失うことができない。そして、この仕事に限らず、「なぜ人は苦しい仕事を続けるのか」という問いを失うことができない。

 他方で、社会人・組織人であることの絶望によって、私のこの熱意は完全に空回りしている。法律実務家にとって「期間」は命である。期日や期限に1日遅れただけで、強制執行を受けて会社が倒産することもある。私が「3ヶ月」という数字を出せば、私はこの数字に対して責任を負う。従って、債権回収会社から厳しく問い詰められることは当然である。この点の軽率さや緊張感の欠如を叱責されれば、私には返す言葉がない。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (18)

2014-02-17 22:39:44 | 時間・生死・人生

 人が怒りを感じるポイントはまちまちであり、議論して噛み合う種類のものではない。私は、ある出来事が法制度の矛盾や社会の矛盾だと感じられるときに、そのこと自体に怒りを覚えることが多い人間である。これに対し、ビジネスに精通し、朝から日経の隅々まで目を通せるような弁護士は、その部分にはあまり怒りを感じないようだ。そして、私が全く怒りを覚えないような部分が、その弁護士の激しい怒りのポイントであったりする。

 民法改正案により、ようやく連帯保証人制度の廃止が現実のものとなってきた。経済に造詣の深い専門家は、金融機関の貸し渋りによる中小企業の影響を懸念し、大局的な見地からの議論を繰り広げる。この議論の側から見れば、私のような感情論は素人のそれであり、法律家としては失格だということになる。そして、私にとって壁だと感じられているのは、目の前に座っている所長ではなく、もっと大きな法制度・社会常識である。

 「余命3ヶ月」という具体的な死までの時間を目の前にして、私は所長の人間的な部分に期待してしまった。そして、これは愚かなことだった。グローバルな視点から日経平均株価の動向を注視し、為替市場を常時チェックしている所長にとって、この案件はあくまで「債権回収」「焦げ付き」の問題である。我が国の1000兆円超えの累積国債赤字を現実問題として捉えている頭脳は、500万円の債務の実体をそのように把握する。

 債権債務で構成される経済の流れを見るためには、自分をその外側に置かなければならない。いわゆる評論家目線である。ここには、労働力を売って対価を得ることの直感的な惨めさはない。また、この対価を債務の返済に充てなければならないときの独特の切なさはない。債権と債務は、実際には同じ抽象概念の両面である。そして、複雑な法制度の構築は、金融業者側の「債権回収」「不良債権」の概念の実体化に拠っている。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (17)

2014-02-15 23:48:39 | 時間・生死・人生

 経済社会の複雑なシステムにおいては、目の前の問題の先に多くの組織が絡み、利害関係人も芋づる式に増幅することになる。人は、実務的技術を身につけるだけで精一杯の状況では、個人の善意による臨機応変な行動など望むべくもない。かような行動は実際に迷惑であり、余計な責任問題に他人を巻き込むことになる。何よりも心を病まないことを第一に考えるのであれば、事なかれ主義のマニュアル思考ほど有効なものはない。

 この件の依頼人が1日長く生きようと生きまいと、この世の中は何も変わらない。それは、私の生命についても同様である。ゆえに、社会の片隅で今回の依頼人の件を託された私は、どうしても譲れないバランス感覚の中に置かれてしまった。それは、経済優先社会の拝金主義に対する無駄な抵抗をしなければならない点である。私の仕事は、余命を宣告された依頼人に対して「安心して死んで下さい」と伝えるものであってはならない。

 この経済社会が生んだ連帯保証という法制度は、無数の人間関係を破壊し、無数の人生を狂わせ、死に追いやってきた。法律実務家や法学者ならば誰でも知っていることである。しかし、現実にどうしても資金繰りが必要であり、融資がなければ全てが終わってしまう状況においては、必要なものは抽象的な理屈ではなく、連帯保証人の実印と印鑑証明である。貨幣という脳内の観念は、その脳を苦境に追い詰め、後先を考える余裕を奪う。

 「絶対に保証人には迷惑を掛けません」と誓った主債務者が自己破産し、親族の連帯保証人が残されたとなれば、双方の実家を巻き込んだ修羅場となるのは必至である。金の切れ目は縁の切れ目であり、これは親族であるが故に根が深くなる。そして、経済社会の論理は、この修羅場には全く関知しない。契約の履行に関する道徳は、何としても保証人は破産させないよう上手く言いくるめ、1円でも多く分割払いさせる行動に親和性がある。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (16)

2014-02-12 22:03:05 | 時間・生死・人生

 私が今の事務所に来たのは約1年半前である。以前に私が所属していた事務所の所長は、人情に厚く、依頼人に親身になり、何時間でも話し込むことがあった。そして、経営は下手だった。費用対効果を度外視した「依頼人の感謝の言葉」だけでは、事務所の経営など立ち行かなくなる。ビルの賃料、公共料金、税金、弁護士会の会費などの支払ばかりに追われ、結局は理念倒れが顕在化し、経営者としての不適格さを露呈するのみである。

 依頼人に親身になることは、他方で依頼人に過度の期待を持たせ、最後に「話が違う」との内紛を生じることでもあった。交渉事には相手があり、お互いに譲れない真実というものがある。弁護士が一生懸命頑張ったものの力及ばずという結果の報告は、依頼人に対して必然的に逃げ腰となり、保身に追われることになる。ここを見抜かれると「約束が違う」ということになり、話がこじれる。最初から冷淡に突き放しておけば、かような事態にはならない。

 また、「依頼人に親身になる法律事務所」という評判は、なかなか利益には結びつかない。弁護士に依頼するほどのトラブルは、短期間に同一人物に何度も起きるものではなく、起きてはならないものである。そして、弁護士に依頼して問題を解決した人の多くは、その過去について友人知人に口を閉ざす。すなわち、口コミというものが生じにくい業種である。「町弁」の事務所のビジネスモデルは、今も昔も、上客である顧問先の確保が第一である。

 私が以前の事務所と袂を分かったのは、所長から給与の引き下げを示唆された際に、「僕は金儲けなど一切目指していない」と所長から断言されたからである。近年の司法制度改革により、食えない弁護士は廃業やむなしという容赦ない競争が生じている。私は、「依頼人からもらう報酬金」よりも「依頼人の感謝の言葉」に価値を覚える人種であるだけに、その同じ人種である所長の事務所を飛び出した。お金を稼いで食べていくことは厳しい。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (15)

2014-02-11 22:52:57 | 時間・生死・人生

 自らの行動に対して最後まで責任を持たず、自分の行為がもたらす隅々までの影響への想像力を欠く者は、ただの夢想家であると思う。すなわち、高い理念を掲げるほど、最後まで約束を守る意欲が希薄になり、偽善的な行動を採ってしまうという逆効果である。観念論をもって想像力と取り違え、組織間相互の立体的な把握を欠く思考を、私は無責任の典型であるとして注意していたはずだった。しかし、罠はすぐ近くにあった。

 私が所長に対して言いたいことは、心の中に大量にくすぶっている。そして、実際に何も言えないのは、組織の上下関係がもたらす掟の遵守であり、恐怖感による萎縮であり、要するに権力関係によるものである。しかし、さらに深いところには諦めの境地がある。事務所のホームページを開くと、人の好さそうな所長の笑顔の写真と、「お困りの方は1人で悩まずお電話ください。親身に対応いたします」という文字が飛び込んでくる。

 今回の依頼人も、悪夢のような余命宣告を受けつつ、債権回収会社からの請求書の束を前にして、藁にもすがる思いでインターネットで法律事務所を探したのだった。そして、「親身に対応する」との言葉が決め手となり、この事務所を選んでくれたのである。法律家が言葉に対する厳しい責任を負うべき職業なのであれば、この思いに応えようとしないことは詐欺に等しいと思う。職業人として、1人の人間として、私の直観は変わらない。

 一人称の死は、人がものを考える最大の契機であると思う。これは「命が重い」というありきたりの話ではない。私は確かに、依頼人の生命の重さが借金の問題に覆い尽くされることを危惧し、これに抗うことを法律家の使命であると考えている。しかし、「命とお金はどちらが重いのか」というステレオタイプの問いに対しては、強い嫌悪感しか覚えない。私は今、抽象的な知的遊戯はしたくないし、実務の現場ではそのような余裕もない。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (14)

2014-02-09 22:45:06 | 時間・生死・人生

 月曜日の朝、私は電話の内容を機械的に所長に報告する。予想どおり、所長の表情は徐々に険しくなり、強い怒りを帯びてきた。「債権者には3ヶ月だけ待ってくれと言っちゃったんだろう? どう弁解するんだ」。所長の言う通り、私がどのように答えても弁解になってしまう。上手く言葉が出てこない。「法律家の言葉はそんなに軽くないという自覚が足りないんじゃないのか」と言いたげな所長の言葉を、私は自分の頭の中で補う。

 しかし、所長は机を叩いて更に厳しいことを言う。「こっちから3ヶ月だと言っておいて、守れませんでしたと債権者に謝るようじゃ、うちは嘘つき事務所だということだな。事務所の信用問題になるだろう?」。所長の言うとおりである。この経済社会は、相互に期限を守ることによって、初めて順調に回ることが可能になる。これは最低限かつ最大限の約束事だ。私にはその自覚と常識が欠けているという厳しい指摘である。

 「最初に契約した段階で普通に分割払いを始めておいて、死んだら終わりという正攻法で行くしかなかったんじゃないのか?」と所長は腹立たしげに続ける。次いで、「支払うべき債務を逃れさせてやろうとか考えて、姑息な手段を取るから面倒なことになるんだろう? 本当に3ヶ月なのか、俺は重ねて聞いたよな」と、いかにも弁護士らしく畳みかける。私はその都度「はい」と合いの手を入れ、かしこまって頭を下げるしかない。

 所長は険しい表情を崩さないまま、「もう遅いだろう。3ヶ月前なら、無理にでも手を添えて分割払い承諾書に署名させれば済んだものを、今このタイミングでそれをやったら大問題だよな。奥さんからクレームが来たら終わりだろう」と機関銃のように言う。1つ1つの言葉が私に刺さってくる。心がゾワゾワし、全身がゾワゾワする。依頼人が3ヶ月で死亡しなかったという事実を前にして、瞬間的に背筋に冷や汗を感じていたのは私だ。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (13)

2014-02-07 22:14:41 | 時間・生死・人生

 目に涙が滲んだまま受話器を置くと、私は深夜残業の真っ只中であるにもかかわらず、いつもの深い疲労感が消えていることに気付く。私は、「自分はいずれ死ぬ」という恐怖感を誤魔化すために、目の前の仕事に没頭し、俗世間の欲望がもたらす紛争に深入りしてきた。私の疲労感が、単なる労働時間の蓄積ではない俗世の垢と言うべきものに拠っているならば、この涙は私が仕事を続けていく上でどうしても必要なものだと思う。

 私が垂直的な思考から逃避し、自分の身を多忙な日常に紛れさせていたのは、ニヒリズムの恐怖に足を取られないためであった。しかしながら、その結果として私は「仕事から逃げ出したい」「組織から逃れたい」という思いを抱えていたのであり、全く始末に負えない。どちらに転んでも行き着く先は死である。そして、このような私の寝言は、今回、余命宣告を受けた依頼人の全身からの言葉によって簡単に打ち砕かれたのだった。

 世間一般に語られる理想の概念に逆らい、端的な現実のみに向き合ってきたという私の確信が、浮き世離れした夢物語への不信感の影に付きまとわれるようになってから、一体どれだけの時間が流れてきたのかと思う。しかし、そのような私の思考自体が、自分は平均寿命までは生きるだろうという根拠のない自信に基づいている。遠い将来の死からの逆算である。死が後ろから突然自分を捉える可能性を、私は全身では理解していない。

 私には医学の難しいことはわからない。ただ、彼の「生きたい」という意志が実際にどのような効果を生じたのかについては、医学的な説明は難しいのではないかと思う。主治医の驚きの言葉について、単に余命の予想が外れたことの責任回避であるとは想像したくない。現代医学による正確な判定において、彼は余命3ヶ月であったのだと思う。そして、私はその判定に基づいて仕事をしていたことを思い出し、背筋を冷や汗が伝う。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (12)

2014-02-06 22:06:30 | 時間・生死・人生

 最初の日から3ヶ月と数日が過ぎた。金曜日の夜9時前、事務所の電話が鳴る。私はディスプレイを見て、依頼人の妻の携帯電話番号であるとわかり、緊張して受話器を取った。どのような報告であっても適切な返答ができるよう、私は先回りして必死に頭をひねっている。これは、「依頼人に対して失礼のないように」という名目による自己保身である。この場面では、コミュニケーション能力なるものは全く役に立たない。

 電話口から、女性の弾んだ声が聞こえてきた。その瞬間、私の脳内にあった一方の言葉の束が消失する。依頼人は引き続き厳しい状態ではあるものの、当初の予想からは考えられないほど持ち直し、難しいと思われた一時帰宅まで果たし、主治医も驚いているほどだと言う。私は一気に緊張が解けて、「ああ、はい、そうですか」と繰り返すばかりである。心の底から嬉しいと思う。思考が回らないまま、ただただホッとしている。

 依頼人の妻は、「お陰様で夫は落ち着いてしっかり生きています。本当にありがとうございます」と涙声で話す。私はお礼の言葉などを受ける立場ではない。医師の示した余命を超えて彼が生きているのは、あくまでも医師の尽力と、彼の生来の体力や生命力によるものである。しかし、彼女の涙声に凝縮された沈黙に圧倒されて、私も自然と目頭が熱くなる。これは、もらい泣きなどという種類のものではない。私は感動などしていない。

 仕事と私事を問わず、このような「人間らしい気持ち」になったのは本当に久しぶりだと思う。前回がいつだったのか思い出せない。人間は誰もがいずれ必ず死ぬ。1分1秒を必死に生き長らえることは、全宇宙の側から見れば些細なことである。しかし、実際に依頼人から命の残り時間を託されてしまった私は、つべこべ言う前に、彼が3ヶ月を少しでも超えて生きられるよう願うことを、現に人間としての当然の義務だと捉えている。

(フィクションです。続きます。)