3ヶ月を過ぎると、債権回収会社からの催促の電話の頻度が増えてきた。1週間に数回かかってくることもある。恐らく担当者は、社内において、上司に「3ヶ月で見通しがつきます」と言って守れなかったことの責任の矢面に立たされているはずである。ここの点を想像すると、私は少し心がざわつく。しかし、電話口からの担当者の喧嘩腰の声を聞くと、そのような繊細なものは吹き飛んでしまう。世の中、物事が予定通り行かないのは当たり前だ。
人間は、それぞれの思惑が交錯する交渉事に揉まれていると、いつの間にか性格が図太くなり、面の皮が厚くなってしまう。他者への想像力や共感力なるものは、それを働かせたいときには働かせ、それを働かせたくないときには働かせず、要するに他者ではなく自分の好き嫌いであると思う。そして、この矛盾を覆い隠すものは「正義」である。純粋な観念として身につけられた正義は、世の中の厳しさを経ると、なぜか権力性を帯びる。
人が人生を誠実に生きることの難しさは、それ自体に内在する論理の限界ではなく、組織における他者への責任との関連性であると思う。人は組織の中で社会性を身につけ、ある時はペコペコし、ある時は毅然とし、この技術の会得は公共的な利益に転化する。「人は1人で生きているのではない」という命題は、他者の人生を尊重することではなく、相手の立場やメンツを察知することである。すなわち、相手の足元を見て態度を変えることである。
法律家は、屁理屈と屁理屈の戦いの中で、他人の屁理屈を心底から嫌いつつ、自分の屁理屈を愛する。人の職業は、仕事上の演技に止めているはずが、思考の型まで規定することを免れないものだと思う。公務員は公務員、実業家は実業家、学者は学者である。これは肩書きではなく、私生活全般の人格である。ここで、法律家の職業病とは、もともと理屈っぽい人間が法律理論を身につけ、さらに法律実務で理屈っぽくなる過程である。
(フィクションです。続きます。)