宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その3)『精神現象学』の史的意義!「絶対者は主体である」:「産業革命」・「政治革命」・「精神革命」!

2024-09-16 17:30:17 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その3)(310-311頁)
(82)ヘーゲル『精神現象学』は「絶対者は主体である」or「実体は主体である」ことを証明しようとした!
★ヘーゲル『精神現象学』の史的意義を、それ以後の思想史との連関において、以下一言する。(金子武蔵氏)(310頁)
★さて『精神現象学』は「絶対者は主体である」or「実体は主体である」ことを証明しようとしたものだ。(310頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。(88頁)
☆この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「意識」(or「対象意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)

《参考2》ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)

《参考3》(A)「意識」(「対象意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A)「意識」(「対象意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)

《参考4》「自然的意識」は同一律・矛盾律を厳密に守ろうとする。普通の「自然的意識」が、それ(同一律・矛盾律)を墨守せんとしながら、じつは「そうはできないのだ」ということを証明しなければ、ヘーゲルの「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明はできない。がまさにそれを実行しようとするのがこの(「知覚」における)「錯覚」の段階だ。(105頁)

《参考5》まず「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立のなかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという相互転換を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)

《参考5-2》両者(「認識主観」と「認識客観」)は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
☆「無限性」は「概念」即ち「自己」にほかならないので、「対象意識」の段階から「自己意識」の段階にうつる。(123頁)
☆「無限性」の概念から我々の「意識」を考えてみよう。まず普通に「意識」するというのは「自己を意識する」のではなく、「対象を意識する」ことだ。(123頁)
☆ところが「無限性」からいうと、「対立」は「相互に他に転換」する。したがって「認識主観」は「客観」へ、「認識客観」は「主観」へというように、両者(「認識主観」と「認識客観」)は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある。そしてその「統一」が二分して「対立」し、「相互転換」して「統一」にかえる。このような「無限性」の運動において「対象意識」は成立する。(123頁)
☆「BがCを意識する」あるいは「CがBを意識する」というのは、「BもCもA(同一のもの)のあらわれ」だから、(「C」が)「B」を、また(「B」が)「C」を「意識する」ことではなく、「自己Aを意識する」ことだ。つまり「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく。(123頁)

《参考5-3》「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない!「対象の内なるもの」と「主体としての内なるもの」とは同じものだ!(123頁)
☆言いかえると、「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。(123頁)
☆「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)

《参考5-4》「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ!「実体は主体である」!(124 頁)
☆このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

(82)-2 「産業革命」・「政治革命」・「精神革命」は、「絶対者は主体である」(or「実体は主体である」)という同じ共通の精神(「時代精神」)によって成り立った!
★ヘーゲル『精神現象学』が証明しようとした「絶対者は主体である」or「実体は主体である」という命題は、広い見地からすると、すでに「ドイツ観念論」が近代を完結させ、現代に転換させた「精神革命」であることを
意味する。(310頁)

★「近代を完結させ、現代に転換させる」というこの「転換」を成就したものには3つの革命がある。すなわち「産業革命」・「政治革命」・「精神革命」である。これらはけっきょく根本においては「絶対者は主体である」(or「実体は主体である」)という同じ共通の精神(「時代精神」)によって成り立ったものだ。(310頁)
☆「産業革命」はイギリス人が担当して経済面において、「政治革命」はフランス人が担当して政治面において、「精神革命」はドイツ人が担当してイデオロギー面において成就したが、けっきょくは同じ「時代精神」(※「絶対者は主体である」or「実体は主体である」)の表現である。(310-311頁)
☆近代ヨーロッパ文化はルネッサンス以来「人間が自然の所有者であり、世界の主人である」という意識をもって進んできた。この意識がこの「3つの革命」によって成就された。(311頁)
★「精神革命」を担当したのが「ドイツ観念論」であり、ヘーゲルの哲学は「ドイツ観念論」の完成だ。(311頁)

《参考1》「観念論」idealism
☆理論的にせよ実践的にせよ、「観念あるいは観念的なもの」を「実在的あるいは物質的なもの」に優先するとみなす立場を「観念論」といい、「実在論」あるいは「唯物論」に対立する用語として使われる。
☆「観念論」は、「物質」ではなく「観念的」なもの(イデア・理念・意識など)が根本的本質だとする考え方。①生滅変転の「現象界」に対し永劫不変の「イデア界」の優位を主張する「プラトンの客観的観念論」、②近代では「物」の存在を「知覚」に解消しようとする「バークリーの主観的観念論」、③経験的世界は超越論的主観により構成されるとする「カントの超越論的観念論」など多様に存在する。「観念論」は主として認識論上の語で,倫理的な局面では「理想主義」と呼ばれる。また存在論・世界観上は別に「唯心論」の語を与えることもある。

《参考2》「観念論」という用語法の成立とその背景!(『日本大百科全書(ニッポニカ) 』坂部恵)
☆「観念論者」idealistの語が最初に用いられたのは、17世紀末のライプニッツにおいてだといわれるが、そこでは「観念論者」の語は、「唯物論者」エピクロスに対して、プラトンを形容する語として導入された。すなわち、「物質」を実在とするエピクロスに対して、「イデアないし形相」を真の実在とし、事物の本質規定とみなすプラトンの立場が「観念論」的とされた。
☆しかし中世このかた、こうしたプラトン主義の立場は、「唯名論」(普遍論争 における「唯名論」、すなわち普遍者実在論or実念論or概念実在論に対する「唯名論」)との対比において「実在論」あるいは「形相論」として特徴づけられるのが一般的だった。
☆「観念論」の用語は、近世哲学での新たな人間中心的認識論の登場に伴って導入されてきた。これ以後、「観念論」の用語は「外界あるいは物質的世界」の実在を認めるか認めないかをめどとして使われるようになる。

《参考3》バークリーの「主観的観念論」!(坂部恵)
☆「存在するとは知覚されること」という命題において、「外界ないし物質的世界の実在」を「否定」し、認識のすべてを「人間の観念」に還元したバークリーの立場が、18世紀には「観念論」を代表した。

《参考4》カントの「超越論的・批判的観念論」!(坂部恵)
☆カントは、「外界ないし物質的世界」としての「自然」を、「空間・時間、純粋悟性概念(カテゴリー)」など人間の「認識主観」の「ア・プリオリ(先天的)な認識の諸形式」に従って構成され、その限りで客観的妥当性をもつ「現象」とみなす「超越論的観念論」の立場を打ち出した。カントの「超越論的観念論」は、「数学的自然科学」の普遍性を救いつつ、認識の有効性の範囲を「批判的」に限定する意図から出たものであり、「現象」の背後に「物自体」を想定する。
☆カントは「超越論的観念論は経験的実在論にほかならない」とするなど、バークリーの「主観的観念論」とは一線を画した。

《参考5》「ドイツ観念論」の3人の哲学者:「倫理的観念論」(フィヒテ)、「美的観念論」(シェリング)、「絶対的観念論」(ヘーゲル)!(坂部恵)
☆カントの「物自体」の考えを批判し、むしろカントの唱道した「実践的・自律的主体としての人間」を宇宙そのものの展開の根本原理としての「自我」にまで高めたフィヒテの立場は、主体の自発性・自律・自由を重んずるゆえに「倫理的観念論」として特徴づけられる。
☆また美的創造や美的直観に自然世界の展開の究極をみたシェリングの立場は、「美的観念論」とよばれる。
☆さらに自然的、歴史的を含めた世界の展開を「観念」あるいは「絶対的精神」の弁証法的自己展開とみなすヘーゲルの立場は「絶対的観念論」とよばれる。
☆以上3人の哲学者によって展開された「ドイツ観念論」の哲学においては、「観念」のもつ「プラトン」以来の「原型」ないし「規範」の意味がいずれも強く表面に出されており、「観念論」はここでは「理想主義」の訳語をあてられることがまれではない。

《参考6》観念論への批判!(坂部恵)
☆近世以降の「観念論」は、つねに実証科学の展開と結び付いた「唯物論」と対抗関係に置かれてきた。19世紀の「実証主義的・科学主義的唯物論」、マルクス主義の「弁証法的唯物論」などが「観念論」批判の主要な潮流であった。

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