宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その2):「良心的自己」において、「啓示宗教」の「対象性・表象性」は剥奪され、「絶対知」が成立!

2024-09-14 15:04:43 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」3「現代(あるいは絶対知)」(その2)(307-310 頁)
(81)「絶対実在」が「主体」のそとに放置されるならば、「知識」はとうてい「絶対性」を得て「絶対知」となることはできない!
★さて「絶対実在」の問題が残っている。(307頁)
☆これを具体的いうと、「実行型の良心」と「批評型の良心」との間に「和らぎ(ヤワラギ)」が成り立つのも、そとから「神」が「愛の手」を差し伸べることによってだったが、かく「絶対実在」が「主体」のそとに放置されるならば、「知識」はとうてい「絶対性」を得て「絶対知」となることはできない。(307-308頁)

《参考1》①「実行型の良心」と②「美魂型・批評型の良心」とのいずれもが「非」であるとしても、またいずれにも「もっとも」なところがあるという理由で、ヘーゲルにおいては「高次の立場」即ちここでは「絶対精神」の立場、すなわち③「和らぎ」(Versöhnung)としての良心の立場への飛躍が要求せられる。(302頁)
《参考2》「和らぎ」(「やわらぎ」)の「しかり」は、各自独立なる人格のあいだに「神が顕現する」ことにほかならないとヘーゲルはこの段階の終わり((BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)において言っている。(303頁)

(81)-2 《「絶対実在」あるいは「宗教」の方で、「自己」の方にまでおりてきてくれる》ことがすでに成就されている:「啓示宗教」と「良心的自己」!
★ところで「絶対実在」をとらえるものは「宗教」だ。「宗教」は「絶対実在」を「自己」として意識する。(308頁)
☆だが「最高の宗教」である「クリスト教」でも「対象性」・「表象性」をまぬがれることができない。そこで《「絶対実在」あるいは「宗教」の方で、「自己」の方にまでおりてきてくれる》ことが必要だ。(308頁)
☆しかし《これ》はすでに成就せられている。(308頁)
☆《「絶対実在」あるいは「宗教」の方で、「自己」の方にまでおりてきてくれる》ことがすでに成就されていることは、「啓示宗教」(Cf. (CC)「宗教」C「啓示宗教」)と「良心的自己」(Cf. (BB)「精神」」C「自己確信的精神、道徳性」」c「良心、美魂、悪とその赦し」)を比較してみれば、明らかとなる。ヘーゲルはそう考えている。(308頁)

(81)-3 同じことを、一方で「啓示宗教」が「客体的」にあるいは「表象」の面で言い、他方で「良心的自己」(※「和らぎ」)が「主体的」にあるいは「概念的」に言う!
★「良心的自己」(※「和らぎ」)と「啓示宗教」とを比較してみると両者は実質的には全く同じものだ。同じことを、一方で「啓示宗教」が「客体的」にあるいは「表象」の面で言い、他方で「良心的自己」が「主体的」にあるいは「概念的」に言うかに違いがあるだけだ。(308頁)

(81)-3-2  ①「受肉」は《「個別的個人」が同時に「絶対的実在」である》ことを語る!「クリスト教」(「啓示宗教」)の「受肉」の教義は、「良心的自己」における「実行型の良心」のもつ「自己確信」を、「表象的」に「神話的」に表現したものだ!
★①「クリスト教」(「啓示宗教」)の第1の特徴は「受肉」だ。「受肉」とは《「神」が「賤しい大工の子」となる》ことだから、したがって「受肉」は《「個別的個人」が同時に「絶対的実在」である》ということを語っている。(308頁)
☆したがって「すべて個人が神の子として権威をもつべき」はずだが、「クリスト教」では「ひとりイエス・クリストのみがかかる権威をもつ」かのように観じている。(308頁)

★①-2 ところで「良心」(「良心的自己」)の立場は「抽象的な道徳法則」を心得ているほかに、(「実行型の良心」において)「個々一々のものの場合にのぞんでは何をなすべきか」を知っている。「良心」の立場にして初めて「決断し実践する」ことができるから、「この」個人が「絶対者」としての意義をもつのであって、「イエス・クリスト」のみが「絶対者」としての意義をもつのではないということがハッキリ示されている。(308-309頁)

★①-3 つまり「クリスト教」(「啓示宗教」)の「受肉」の教義は、「良心的自己」における「実行型の良心」のもつ「自己確信」を、「表象的」に「神話的」に表現したものだ。

(81)-3-3  ②「クリスト教」における「堕罪」ないし「楽園の喪失」という「善悪の対立」は、「良心的自己」の立場では「実行型の良心」と「美魂型の良心」の対立として「主体的」・「内面的」に了解されている!
★②第2に「クリスト教」は《「神の子」と「人の子」の対立》あるいは《「善」と「悪」との対立》のあることを、「堕罪」ないし「楽園の喪失」によるというような「神話」的な形で説くが、しかし「良心」(「良心的自己」)の立場においても、「実行型の良心」と「観想型あるいは批評型の良心」(「美魂型の良心」)との対立     があったのだから、およそ《「善」と「悪」との対立》(「善悪の対立」)の避くべからざるものであるということも、ここでは「主体的」・「内面的」に了解されている。(309頁)

《参考1》☆①「実行型の良心」は「ひとりよがりの『信念』」に「『義務』の『普遍性』」をマントとしてかぶせているだけだ。(※つまり「実行型の良心」は同時に「悪心」になる。)(300頁)
☆これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、たしかに「公共性」の立場をとりはするものの、そうすることのできるのは、「自分ではなにひとつ『実行』しない」からであり、しかも「『主観的・個人的』な意見をあたかも『客観的・公共的』なもの」であるかのように装っているからだ。(300頁)

《参考2》ヘーゲルにおいては、①「実行型の良心」も②「美魂型の良心」もいずれも、改まらなくてはならない。(300頁)
☆①「実行型の良心」は自分の「罪」を告白すべきだ。なぜなら「実行」する段になると、何らかの形で「自分の意志」を満足させざるをえないのはもちろんだが、同時に「他人の意志」をも尊重しなくてはならず、そうでなくては「実行」も、まして「仕事」は成就されないからだ。(300-301頁)
☆これに対して②「美魂型・批評型の良心」は、一方で①「実行型の良心」に対して、その「罪」を赦すべきだ。なぜなら①「実行型の良心」に「個別的な主観的な」点があるとしても、自分で実際やろう(行動しよう)とすれば、そうならざるをえないものなのだし、また他方で②「批評すること」自身も、それが「自分のメリット(功績)」と考えられているかぎり、「個別性」をまぬがれえないからだ。(301頁)
☆かくて①「実行型の良心」は自分の「罪」を認め告白し、②「美魂型・批評型の良心」は「実行型」の「罪」を赦さなくてはならないことになる。(301頁)

(81)-3-4  ③「クリスト教」において「『神の子』イエス・クリストが十字架について死ぬ」ことによって「やわらぎ」に達すると「表象的」に物語られることは、「良心的自己」の立場では「実行型の良心」が「罪」を告白し、「美魂型の良心」が「罪」を赦すことにおいて、「主体的」・「内面的」に了解されている!
★③第3に「クリスト教」では、「善悪の対立」あるいは「『神の子』と『人の子』の対立」は、「『神の子』イエス・クリストが十字架について死ぬ」ことによって「やわらぎ」に達すると「表象的」に物語られる。この「やわらぎ」も「良心的自己」の立場では、「実行型の良心」と「観想型あるいは批評型の良心」(「美魂型の良心」)とのあいだに、一方(「実行型の良心」)が「罪」を告白し、他方(「美魂型の良心」)が「罪」を赦すことにおいて「主体的」「内面的」に了解せられうるものとなっている。(301頁)

(81)-4 「良心的自己」において、「啓示宗教」がまだまぬがれることのできなかった「対象性」・「表象性」は、おのずと剥奪され、ここに「絶対知」は成立する!
★かくて「啓示宗教」(Cf. (CC)「宗教」C「啓示宗教」)と「良心的自己」(Cf. (BB)「精神」」C「自己確信的精神、道徳性」」c「良心、美魂、悪とその赦し」)とを比較してみれば、「啓示宗教」がまだまぬがれることのできなかった「対象性」・「表象性」は、おのずと剥奪せられるのだから、ここに「絶対知」は成立する。(309頁)
☆「絶対知」の成立とともに、「人間」は「神の子」としての権威を具えるものになる。これは『精神現象学』の序文に《「絶対者は主体である」(Cf. 「実体は主体である」)ということが『精神現象学』の証明しようとする命題である》と提唱されたゆえんだ。(309頁)

《参考》「力」は「物の内なるもの」だが、その「内なるもの」は「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものである! (88-90頁)
(あ)ヘーゲル哲学の根本的な命題:「実体は主体である」!この命題を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ!  
☆ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「意識」(or「対象意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)
☆「実体」とは、基本的・常識的な意味は「物」Ding ということだ。(88頁)
☆いろんな性質をもつ「物」において、その性質は哲学的には「属性」であり、文法的には「述語」である。「物」(Ex. 白墨)は「主語」あるいは「実体」である。(88頁)
(い) ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」を証明しようとするなら、「物」が「対象的に存在するもの」ではなくて、「主体」or「自己」or「概念」であることを証明しなくてはならない!
☆ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)
(う) (A)「意識」(or「対象意識」)の段階Ⅱ「知覚」の段階:「物」がじつは「物」ではなくして「力」である!「力」は「物の内なるもの das Innere 」だが、その「内なるもの das Innere 」は、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであり、かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく!
☆「物」が「対象的に存在する」のでなく、「自己」・「主体」・「概念」であることを証明する必要がある。この課題を引き受けるのが(A)「意識」(or「対象意識」)の段階だ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(89頁)
☆(A)「意識」(or「対象意識」)の段階(Ⅰ「感覚」、Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」)の中心はⅡ「知覚」、Ⅲ「悟性」のところだ。Ⅱ「知覚」の段階において、「物」がじつは「物」ではなくして「力」であることが証明される。(89頁)
☆「力」は「感覚せられる外的なもの」ではなく、「物の内なるもの das Innere 」である。
☆その「内なるもの das Innere 」は、直接的には「物における内なるもの」だが、じつは「主体的なる自己としての内なるもの」と同じものであることが証明される。かくて (B)「自己意識」の段階に移っていく。(89頁)
(え)「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」!
☆ (A)「意識」(「対象意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A)「意識」(「対象意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)

(81)-5 体系総論である『精神現象学』!
★『精神現象学』(1807 )において「絶対知」の成立を明らかにしたのち、ヘーゲルは自分の哲学体系の主要部門である「論理学」と「自然哲学」と「精神哲学」(特に「歴史哲学」)を概観し、予告する。これは『精神現象学』が体系総論であることからくる当然のことだ。(309-310頁)
☆ただしそこに説かれている内容は、もはや『大論理学』(1812-1816)や『エンチュクロペディー』(1817)に
関することなので、今は立ち入らない。(金子武蔵氏)(310頁)

《参考》「絶対精神」についての一般的説明:ヘーゲルによれば「精神」の本質は、その「内部」ではなく「外部」にある。すなわち「精神」は「根拠を持たない」。「外部」とは「主観的」・「客観的」なそれぞれ視点で見られる領域である。「主観的」・「客観的」両方の領域を通して「外部」の情報を熟知した上で、初めて「精神」が両方の領域の影響を受けることなく展開し、またそれを自覚・吟味できる。そのようになった状態の「精神」が「絶対精神」だ。
☆「絶対精神」は、「客観的」・「主観的」な全てのあらゆる視点からの思考を含む。ヘーゲルの目的は「哲学の体系」を構築し、そこから「過去と未来」をすなわち「現実の全て」を哲学的に理解できることだった。それらを成せるのは「絶対精神」である。
☆そしてヘーゲルは「絶対精神」が歴史を支配していると考えた。

《参考》ヘーゲル『精神現象学』のこれまでの経過を回顧してみよう。(304頁)
☆段階①《「感覚」→「知覚」→「悟性」》の運動によって「対象意識」が「自己意識」に転換すること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界

☆段階②「自己意識」に《「欲望」→「主奴」→「自由」》の運動のあること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(B)「自己意識」orⅣ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」

☆段階③「自由」(※「無限性」)によって「自己意識」が再び「対象意識」に転換して、「理性」の「あらゆる実在である」という「確信」のえられること。(304頁)
☆段階④この「確信」を「実証」すべく、「理性」は「観察」し「行為」すべきであり、そうすることによって「社会」のうちに安住しうるようになること。(304頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》(C)(AA)「理性」orⅤ「理性の確信と真理」A「観察的理性」(※「観察」)、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(※「行為」)(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(※「社会」)(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)

☆段階⑤「社会」のうちに安住しえたとき人間は「人倫の国」に住むが、これはやがて「法的状態」に移行して「教養」の苦悩が到来すること。(283頁)
☆段階⑤-2 しかしこの「教養」の苦悩を通じて「道徳的確信」のえられること。(283頁)

☆おおよそこのようなこと(①②③④⑤⑤-2)によって、すでに「絶対知」が成立している。(283頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(BB)「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)
Cf. ヘーゲル自身の「良心的道徳」(※(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心、美魂、悪とその赦し」における「赦し」or「やわらぎ」)にあっては、その展開は不十分ではあるが、すでに「絶対精神」が顕現し「絶対知」に到達している。(304頁)

☆段階⑥しかしまだ「宗教」(※(CC)「宗教」A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)が残っている。そのかぎり「意識」(※(A)「意識」、(B)「自己意識」、(C)(AA)「理性」・(BB)「精神」)がまだ「神という超越者」、したがってまた一般に「他者」を負うていることは否定できない。そこでヘーゲルは((C)「理性」)(CC)「宗教」において宗教の諸形態についての展開を行い、それらの完成であるところの(CC)C「啓示宗教」が(BB)Cc「良心道徳」(「悪とその赦し」or「やわらぎ」)と実質において同じであることを証明し、もって「啓示宗教」を「良心道徳」のうちに摂取し、かくして(DD)「絶対知」が真に成立することになる。(304-305頁)
☆この(DD)「絶対知」の成立こそは、ヘーゲルにとっては「現代」の「時代精神」が渇望している課題だ。(305頁)
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(CC)「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」
Cf. 《『精神現象学』目次》((C)「理性」)(DD)「絶対知」

(82) 《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」!「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明!(※(59)-9“《参考》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』において「実体」について言及された主な箇所一覧!”の再録)
《参考1》ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)
《参考1-2》(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代!(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63-64頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。
☆これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。
「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)
《参考1-3》『精神現象学』の本文でヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代」について述べるのは、『精神現象学』が「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3段階から成りたっているという見方からすれば「(B)自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」においてだ。(63-64頁)
☆また『精神現象学』が「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」の8つの段階から成りたっているという見方からすれば、ヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」について述べるのは、「Ⅶ宗教」のうちの最高のものである「絶対宗教」(※「啓示宗教」)においてである。(64頁)
《参考1-4》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(62-66頁)
・(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
・(ロ)《精神》における「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、すなわち「ルネッサンス」から「啓蒙」の時代!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場!
・(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する。
《参考1-5》ヘーゲルは現代を、(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」と考える。これには2通りあるとヘーゲルは言う。すなわち(A)「直接知」の立場と(B)「絶対知」の立場だ。(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(A)「直接知」の立場:これは(ロ)「反省・媒介の段階」すなわち「ルネッサンス」・「啓蒙」の時代の「有限性」の立場を嫌悪するのあまり、「悟性」を抹殺して直接に「絶対性」の立場へ逆転しようとする立場!「永遠なもの・絶対的なもの・無限なもの」を「悟性」を媒介することなく、直接的に「感情・情緒」といったもので捉えることができると考える。かくて「悟性」とか「反省」を全く軽蔑する!「ロマンティスィズム」の立場!(65頁)
☆(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「悟性の反省」の媒介の意義を十分に認めたうえで「実体性」=「直観され表象された全体」を恢復する!「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」!(65頁)

《参考2》「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)
《参考2-2》この「統一づけ」は2つあるとヘーゲルは考える。一つは(悟性的な)「定立」と「反定立」とを区別した上で「統一づける」という「思弁的理性の立場」だ。(67頁)
☆もう一つは「定立」と「反定立」の区別を全然なくして「統一づける」という「神秘主義の立場」だ。だがこれは、「直接知」の立場にほかならない。これは最初の「実体性の立場」に簡単に帰ってしまうものだ。(67頁)
☆これではいけないのであって(悟性的な)「定立」と「反定立」とを統合しはするけれども、どこまでも悟性的な区別を認めた上での統一であることが必要だ。真の理性は悟性的理性だ。これが「思弁的理性の立場」からの(悟性的な)「定立」と「反定立」の「統一」だ。(67頁)
《参考2-3》このようにして、最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)
《参考2-4》このことをヘーゲルは次のように述べる。(68頁)
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」(68頁)
《参考2-5》「根源的統一」というものは「真理」でなく、「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)
《参考2-6》「悟性の反省」(※悟性的諸規定を与えること)は、たしかに「人間」を「普遍的・全体的・絶対的なもの」から「個別的・部分的・相対的なもの」に導き、したがって実生活においても個人の悦楽や幸福を求めさせることになる。(Cf. 《世間知》《専門知識》を得て実利を得ること?)(68頁)
☆「悟性の反省」は「ただ漠然と直観せられ表象せられ情感せられている《全体》」(※これが「実体」だ!)を、「明確なる《思惟規定》」、しかも「自我一般のもつところの《思惟規定》」にまで分割し分析し、最初の「直観や表象」のまぬがれえなかった「個人性や主観性」を洗い落とすところに積極的意義をもつ。(68-69頁)
《参考2-7》ただ「悟性」の欠点は、個々の「思惟規定」に執着して動きのとれないところにあるが、しかし固執も極限まで行けばかえって「反対の規定」を喚起するから、それはおのずと「理性」となって最初の「全体性」が恢復せられ(「規定」の「統一」がなされ)、しかも「悟性」の与えるものは「自我一般」の「思惟規定」であるから、その「統一」はもはや「実体」ではなくして「主体」である。(69頁)
《参考2-8》「悟性の反省」の「媒介」を通ずることによって、「実体」は「主体」となる。じつは「実体」を「主体」に転換させることこそが『精神現象学』の目的だ。(69頁)

《参考3》「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(ハ)《精神》における「実体性恢復の段階」(B)「絶対知」の立場:「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、それを深めてゆく」!(73頁)
☆「普通の認識」に対して、「真の絶対知の立場」においては、「主語」は「不動の実体」というものではない。「絶対知」における「主語」は「存在的・客体的なもの」ではない。(73頁)
☆「絶対知の立場」においては「主語」たる「サブスタンス」(「実体」)そのものが、我々の「主観」と同じように「生けるもの」、「自分自身で自分自身の内容を反省し、その反省を自分自身で深めてゆく」ものである。(73頁)
☆そういうところに初めて「真の哲学的認識」が出てくるとヘーゲルは言う。(73頁)
☆ヘーゲルでは、文法上の「サブジェクト」(Cf. 「主語」)に当るものが、我々人間と同じような「サブジェクト」(Cf. 「主体」・「主観」)だ。「サブジェクト」は、「自分は何々である」という判断を、自分自身で行う。(73頁)

《参考4》ヘーゲル『精神現象学』「序論」において示されているヘーゲル哲学の根本的な命題は「実体は主体である」ということだ。(88頁)
☆この命題「実体は主体である」を証明するのが『精神現象学』全体を通ずる課題だ。(88頁)
☆これをもっとも手近な範囲において実行しようというのが、(A)「対象意識」(or「意識」)の段階のねらいだ。(Cf.  (B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階。)(88頁)
《参考4-2》「実体」とは、基本的・常識的な意味は「物」Ding ということだ。(88頁)
☆「物」(Ex. 白墨)は「性質」(Ex. 白い・一定の重さ・一定の比重・味など)をもつ。それらいろんな性質が「属性」だ。(88頁)
☆いろんな性質をもつ「物」において、その性質は哲学的には「属性」であり、文法的には「述語」である。「物」(Ex. 白墨)は「主語」あるいは「実体」である。(88頁)
☆「物」は性質をもっている。(Ex. 「この牛は白い」or「この馬は黒い」。)「実体」は直接的には「物」Dingである。(88-89頁)
《参考4-3》ヘーゲル哲学の根本的な命題である「実体は主体である」という命題(テーゼ)を証明しようとするならば、「物」というものが、じつは「対象的に存在するもの」ではなくて「主体」であることor「自己」であることor「概念」であることを証明しなくてはならない。(89頁)
☆「主体」は、ヘーゲルにおいては「概念」のことであり、「概念」は最も「自己」的なものであり、「概念」は「自己」であるとさえ言われる。(89頁)

《参考5》 (A)「対象意識」(「意識」)の段階はなぜⅠ「感覚」から始まるのか?(Cf. Ⅱ「知覚」、Ⅲ「悟性」。)それは「感覚」が最も直接的な、最も自然的な意識の形態だからだ。「物」をさえまだつかんでいないⅠ「感覚」から始めて、次に「物」をとらえるⅡ「知覚」に移り、これから(B)「自己意識」にまで移って行って、「実体は主体である」、「実体は自己である」、「実体は概念である」ということを証明しようとする。(Cf. (A) 「対象意識」(「意識」)の段階、(B)「自己意識」の段階、(C)「理性」の段階!)(90頁)
《参考5-2》「概念」という点からいうと(A) 「対象意識」(「意識」)Ⅲ「悟性」の段階において、「法則」というものが出てくる。「法則」は「主体としての概念」の「客観的な存在的形式」をとったものだ。(90頁)

《参考6》「認識主観」と「認識客観」は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
《参考6-2》「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)
《参考6-3》このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

《参考7》「人倫」の見地をいれると、「他者(※対象or他我)を意識する」のは「自己を意識する」ことであり、「自己を意識する」のは「他者(※対象or他我)を意識する」ことであるというのも、非常に充実した意味をもってくる。(135頁)
☆「《自己意識》の全き自由と自立とを具えた《両項の統一》であるところの《精神》というこの《絶対的実体》」、換言すれば「『我々なる我』であり『我なる我々』であるところの《精神》」とヘーゲルが述べるように、「無限性」は「精神」であり、その「精神」は「我々なる我」、「我なる我々」である。(135頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の「精神」は根本的には「人倫的生活」と分離しえない。(135頁)
☆したがって、この「無限性」を本来の「対象意識」(天文学者が月を観測して惑星の軌道を考えるというような「対象意識」)にもってくると、それは本来的には成り立たない。(135頁)
☆「『私が机を意識する』ということは『私を意識する』ことであり、『私を意識する』ことは『机を意識する』ことである」というのは、変なものではないかという「疑惑」が残る。だが「人倫的関係」をいれると、少なくともある程度までは、この「疑惑心」は解ける。(135頁)

《参考8 》翻って考えてみると、「序論」においてヘーゲル『精神現象学』の目的は、「反省」の媒介を尊重しつつ「実体性を恢復する」ことだと述べた。(155頁)
《参考8-2》ところで「実体性の立場」とは「個人が独立性を主張せずに絶対者に帰依し、あたかも(個人が)実体に対する属性のごとくそれ(実体)に帰属している」というものだ。(155頁)
☆したがって「実体性の立場」とは「信仰の立場」だ。(155頁)
☆「中世クリスト教」のもとにおける「人間」が、「日々の糧」も「能力」も「才能」も「神の与え給うところのもの」であると感じて「感謝」し、「貪らず所有を喜捨寄進」し、また「なにごとについても教会の指示を仰いで生活」していたということは「実体性の立場」にほかならない。(155頁)
《参考8-3》実をいうと「実体性の立場」が、「恢復せらるべき、また分析せらるべき全体」として『精神現象学』のかくれた前提だ。(155頁)
☆この観点からすれば「感覚」・「知覚」・「悟性」という(A)「対象意識」の諸段階も、また(B)「自己意識」の諸段階も、じつは「反省」の分析によって定立せられたものにほかならない。(155頁)
《参考8-4》(B)「自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」(クリスト教)において「実体性が恢復された」が、これはいいかえると「実体が主体となった」ことを意味する。(155頁)
☆「不幸なる意識」(中世カトリック教orクリスト教)を通ずることによって、「理性という絶対知」が到達せられた。(155頁)
《参考8-5》「反省の媒介」にはまだ不十分なところがある。その不十分を補うのが、今後の叙述((C)(AA)「理性」・(BB)「精神」・(CC)「宗教」・(DD)「絶対知」)の目的だ。(155頁)

《参考9》☆さて歴史哲学的にいって『精神現象学』の全体を通じて、「実体性」の段階と「反省」の段階と「実体性恢復」という3段階の区別が重要だ。(191頁)

《参考10》歴史哲学的には、『精神現象学』のうちにはいつも「実体性の段階」と「反省の段階」と「実体性恢復の段階」とがある。「観察の段階」((C)(AA)「理性」A「観察的理性」)も背後に「実体性の段階」として「中世クリスト教」を負うている。しかしまさにここにヘーゲルの特色もまた弱点もある。(金子武蔵氏)(163頁)
《参考10-2》「近代的理性」がその誕生の背後に負うている「実体性」は「信仰」だが(「実体性の段階」)、これに「反省」が加えられ(「反省の段階」)、「分裂」が生じ、いろんな段階が定立される。(C)(AA)「理性」1「観察」も、2「行為」も、3「社会」も、またそれぞれの小区分も、かくして生じたものにほかならない。(金子武蔵氏)(192頁)
《参考10-3》「反省」(「反省の段階」)によって生じた「分裂」を通じて「恢復されるもの」は再び「実体的なもの」だが(「実体性恢復の段階」)、この「恢復せらるべき実体性」(ヘーゲルの「目標」!)は究極的には「クリスト教」だ。(C)「理性」(DD)「絶対知」のすぐ前に、(CC)「宗教」C「啓示宗教」があるのは、このためだ。(金子武蔵氏)(192頁)

《参考11》ヘーゲル『精神現象学』は、「もっとも直接的な意識」であるⅠ「感覚」から始めて、哲学知であるⅧ「絶対知」にまで到達せんとするものとして、ヘーゲル哲学の①「認識論的序説」だ。(220頁)
《参考11-2》しかしヘーゲルは、人間の「意識」がもつ「社会性と歴史性」を高調するので、「個人意識の発展」は「世界精神の史的発展」を実体として背負うことになり、その結果として『精神現象学』は②「歴史哲学」としての意義を具える。(220頁)
《参考11-3》さらに一般に、「絶対」は「相対」を離れたものでなく、「相対」における「現象」をほかにして「絶対」のなんたるかを示し得ないという理由によって、『精神現象学』はそれ自身すでに③「精神哲学」・「哲学概論」の意義を持つ。(220-221頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

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