宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その2-2):ヘーゲルは「宗教」(クリスト教)偏重のため、「自然観察」の段階で「近代の科学」の諸問題を十分に展開しない!

2024-06-18 14:24:18 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その2-2)(163-166頁)
(34) ヘーゲル「哲学」は徹底した「ヒューマニズム」(※人間中心主義)であって、「神」を人間の位置にまで引きずりおろし、「人間」を神の位置にまで高めた!ところが同時に、ヘーゲル哲学は「宗教」(クリスト教)に依存しているところに限界がある!
★「ヘーゲルの哲学」では「クリスト教」が大前提となっている。(163頁)
★しかしヘーゲルは、「クリスト教の信仰」は多分に「表象」の立場をまぬがれないと言う。かくてこの「表象」の形式を「概念」の形式にまで高めるのが「哲学」の役割だと考える。(163-164頁)

《参考1》「原始クリスト教」は、このように、がんらい「普遍的」に考えるべき「絶対者」を、「感覚的表象的個別的」に考えようとする。(150頁)
☆「普遍者」が「形態」(「人間と同じ姿」「個別性」「賤しい大工の子イエス」)をうることによって、「クリスト教」(「原始クリスト教」)では「ユダヤ教」とちがって、「神」は一層「人間」に近づいている。(150頁)
☆しかし「神」を「個別的感覚的表象的」にとらえようとするから、「人間の自己」と「分離」したものになり、
「個別的可変者」(「可変者」or「人間」)と「普遍的不変者」(「不変者」or「神」)との分裂からおこる「不幸」を「原始クリスト教」は克服していない。(150頁)
Cf.「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

★こうしてヘーゲル「哲学」が出てくると、「信仰」はもういらなくなるとも言える。(164頁)
☆その限りで、ヘーゲル「哲学」は徹底した「ヒューマニズム」(※人間中心主義)であって、「神」を人間の位置にまで引きずりおろし、「人間」を神の位置にまで高めたものだ。(164頁)

★ところが同時に、ヘーゲル哲学は「宗教」(クリスト教)に依存しているところに限界がある。すなわちヘーゲルには「俺の哲学はクリスト教をさえ説明できる、ところでお前たち(※クリスト教の信仰者)は、クリスト教を否定できないだろうが、そのクリスト教をさえ説明できるんだから、俺の哲学は真理なんだ」という趣がある。(164頁)
☆ヘーゲルはこのように「宗教」に依存しているところに限界があって、ここにフォイエルバッハやマルクスという人々が出てこなくてはならない理由がある。(164頁)
☆「宗教」(クリスト教)の偏重にヘーゲル哲学の偏りがある。(164頁)

(34)-2 ヘーゲル哲学における「宗教」(クリスト教)の偏重のため『精神現象学』「自然観察」の段階で、本来とり上げるべき「近代の科学」の諸問題を十分に展開しない:★1「天文学」・「力学」、★2「数学」・「数学的自然科学」、★3「時間空間の相互関係の問題」、★4(a) 「微分法」or「無限」、★4(b)「解析幾何学」をヘーゲルは十分にとり上げていない!
★ヘーゲル哲学における「宗教」(クリスト教)の偏重については、「近代の科学」がどのような問題を含んでいるかを考えれば明らかだ。(164頁)
★これに関して「自然観察」の問題を取り上げてみる。(※ヘーゲル哲学における「宗教orクリスト教」の偏重が、それら「自然観察」にかかわる問題・重要なテーマをとりあげていない。)(164頁)

《参考2》 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階の課題は、「範疇」(※「理性」)をまず①「対象」に即して展開すること、次に②「自己意識」に即して展開すること、最後に③「『対象』と『自己意識』の統一」に即して展開することだ。これらの3つが(金子武蔵の目次においては)(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」である。(160頁)
《参考2-2》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)である。

《参考3》(「観察的理性」における)「観察」とは、全般的に言えば「記述」に出発して「標識」を見いだすことを通じて「法則」を定立することだ。(161頁)
☆発見せらるべき「法則」には「自然」の法則、「精神」の法則、「自然と精神の関係」の法則の3つがある。(161頁)

★1 「近代の科学」の「自然観察」の問題において、まずコペルニクス(1473-1543)、ガリレイ(1564-1642)、ニュートン(1642-1727)等が思い出される。その人々によって近代の「天文学」や「力学」が発展したことは重大なテーマになるはずだ。(※しかしヘーゲル哲学は「宗教orクリスト教」の偏重のため、「天文学」・「力学」を重点的には取り上げない。)(164頁)
★2 コペルニクス、ガリレイ、ニュートン等の自然研究には「数学」が重大な役割を演じたから、「数学」あるいは「数学的自然科学」が問題となるはずだ。哲学史の方でもデカルト(1596-1650)、ライプニッツ(1646-1716)、カント(1724-1804)等は「数学的自然科学」を正面の問題として取り扱っている。(※しかしヘーゲル哲学は「宗教orクリスト教」の偏重のため、「数学」・「数学的自然科学」を重点的には取り上げない。)(164頁)
★3 また「数学的自然科学」が問題となれば、「時間と空間との関係」も重要なテーマとなるはずだ。じっさい『精神現象学』の全体を通じて、時間と空間の対立は、相当重要な意味をもっている。(感覚的確信の対象たる「このもの」が「今」と「ここ」であることについてのヘーゲルの議論につてはすでに述べた。)だからヘーゲルはここで(「観察的理性」における「観察」のうちの「自然観察」の項で)正面から「時間空間の問題」、とくに「時間空間の相互関係の問題」を当然展開すべきだ。(※しかしヘーゲル哲学は「宗教orクリスト教」の偏重のため、「時間空間の問題」とくに「時間空間の相互関係の問題」を正面から展開することはない。)(164-165頁)

《参考4》(A)「意識」(「対象意識」)の段階におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の基本形式にあてはまる!(91頁)
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)
☆以上、(A)「意識」(「対象意識」)におけるⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」の3つの段階は、「個別性」・「特殊性」・「普遍性」という論理の3つの形式をふんでゆく。(92頁)

《参考4-2》「このもの」は「言葉」では現わせない!「このもの」は、あるにはあり、「指示」だけはできる!このように「感覚」は「このもの」があるとどこまでもがんばる!ところが「このもの」について「指示」さえできない。「今」も「ここ」も「指示」できない。(97-98頁)
☆「このもの」は・・・・はたして「指示」できるかどうか?やって見よう。再び「時間」と「空間」に分けて、「今」と「ここ」について議論しよう。(97頁)
☆時計を見る。「今」は30秒だと思っていると、もう31秒だ。31秒を「今」と思うと、「今」はもう32秒、33秒・・・・・となる。30秒も「今」なら、31秒も「今」であり、32秒も33秒も「今」だ。「今」はそれらに通ずる「今」だ。したがって「今」も「個別」ではない、「単なる個別」ではない。30秒が「今」であっても、それ(「今」)は「普遍のなかにある個別者」であって、「単なる個別者」はない。(97-98頁)
☆「ここ」についてはどうか?例えば「ここ」は机である。この机のなかをまた分けて、「ここ」と指すところは「ここ」!「ここ」!とたくさんある。この「ここ」というのは、多くの「ここ」のうちの「ここ」であって、他の「ここ」と切りはなされた「ここ」はない。(98頁)
☆「純然たる個別者」はないのに、「感覚」は「単なるこのもの」をつかんだつもりでいるが、じつはそんなものはない。自分だけが、そう考えているにすぎない。「感覚」は、「このもの」をつかんだつもりでいるだけで、「私念Meinung」にすぎない。かくて「普遍者における個別者しかない」のであって「単なる個別者」はない。(98頁)

★4 近代数学では「微分法」や「解析法」が重大だ。(165頁)
★4(a)「微分法」の問題は一般的にいえば「無限」の問題だ。「無限」はヘーゲルにおいても重要な概念である。「微分」の問題に即して、「無限」の問題が展開せらるべきだ。(このことはヘーゲル『論理学』ではある程度までなされている。)(165頁)(※しかしヘーゲルは「宗教orクリスト教」の偏重のため、『精神現象学』では「微分法」or「無限」の問題を正面から展開することはない。)

★4(b)「近代の科学」は「幾何学」の方面では、「解析幾何学」の発見がある。『精神現象学』の序文でヘーゲルは「幾何学」の悪口を述べる。「幾何学的思考には非常に偶然な点が多い。補助線をひくとき、それは事柄そのもの(事柄自身)からでてくるのでなはなく、とんちのようなものを働かせないと、補助線はひけない。」(165頁)
☆デカルトが「解析幾何学」を考案したのも、「ユークリッド幾何学」の場合よりも、もっと事柄に内面的な解法を要求したからだ。「解析幾何学」は図形を方程式に還元し、この方程式に操作を加えて、合理的に問題を解こうとした。(165頁)
☆こう考えると「解析幾何学」はヘーゲルの要求を満たしている。だからヘーゲルは当然、「自然観察」の段階で、「解析幾何学」をとり上げてもよいのに、それをとりあげていない。(165-166頁)

(34)-3 「自然の観察」の段階と言ってもヘーゲルは「数学的自然科学」はほとんど問題とせず、「有機体の観察」が偏重せられている!「ヘーゲル哲学の限界」!「自然」のうちに働いている「精神」は「堕落した形における精神」にすぎない!
★ヘーゲルの「自然観察」の段階の議論は、その大部分が「有機体」の観察に限られ、「数学的自然科学」がほとんど問題となっていない。ここには「ヘーゲル哲学の限界」が示されている。(166頁)
★ヘーゲル哲学の基礎には「クリスト教の信仰」があり、したがって「精神」(「理性」)といっても、根本的には「宗教」や「道徳的生活」において働いているものであって、むろん「自然」のうちにも働いているにしても、それ(「自然」のうちに働いている「精神」)は「堕落した形における精神」にすぎない。(166頁)
☆ヘーゲルにおいては、「自然界」にも「理性」と「法則」があるにしても、それらが明瞭に観察されるのは、比較的「人間」に近い「有機体」の場合に限られるということになる。(166頁)

(34)-4 ここ、 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」では、大体において「理論理性」の方が主となっている!
★「近代の科学」に関して「自然観察」の問題をこれまで取り上げてきたが、「近代理性」の「実践的な方面」は金子武蔵の目次で《(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」》のうちの2「行為」のところである程度出てくる。(166頁)
Cf. 金子武蔵氏の目次で《(三)「理性」2「行為」》は、ヘーゲル『精神現象学』の目次で《(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」B「理性的自己意識の自己自身による実現」》のところだ。

☆「近代理性」の「実践的な方面」は、むしろ《(BB)「精神」:Ⅵ「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」》の段階において、「純粋透見」として、もっと詳しく取り扱われている。(166頁)

★そこでここ、 (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」では、大体において「理論理性」の方が主となっている。(166頁)

《参考5》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」(対象意識):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」(A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」・Ⅱ「啓蒙」・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」(A「自然宗教」、B「芸術宗教」、C「啓示宗教」)、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考5-2》『精神現象学』の構成(目次)については、さしあたっては「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3つについて考えていけばよい。「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。(56頁)

《参考5-3》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」
1「感覚」、
2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、
3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、
3「現代(あるいは絶対知)」
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