宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

キケロ(前106ー前43)『老年について』:①「公の活動」ができなくなる!②「肉体」が弱くなる!③「快楽」が奪われる!④「死」が近づく!だが老年は惨めでない!

2018-09-14 20:43:19 | Weblog
古代ローマの政治家・文人大カトー(84歳)が二人の優秀な若者に、老いと死について語るという形で書かれている。大カトーは軍団副官としてセレウコス朝シリア王を破る。(前191年)また監察官として峻厳に職権を行使した。(前182年から任期1年半)

(1)不平のない老人
A 不平のない老人は「欲望の鎖から解き放たれたことを、喜びとする。」そもそも「不平は、性格の所為であって、年齢の所為ではない。」(三)
B 「人生を善く生きたという意識と、多くのことを、徳をもって行ったという思い出ほど、喜ばしいことはない。」(三)

《感想1》古代ローマにおいて「善」あるいは「徳」は、共通理解があった。
《感想2》現代は、世界観(政治神学)間の闘争があり、何が「善」で、何が「徳」か不分明だ。
《感想3》大カトーにとってローマがすべてであり、他の諸国・諸民族は、ローマに支配されるべきものとされた。

(2)老年が「惨め」である4つの理由
C 「老年が惨めなものと思われる理由」は4つあると大カトーが言う。①軍事・政治など「公の活動」ができなくなる。②「肉体」が弱くなる。③「快楽」が奪われる。④「死」が近づく。(五)

《感想》老年の惨めさのこの4種類は、今も、妥当だ。①「公の活動」(Ex.会社、個人事業、政治家)から退職・隠居・引退する。君は無用あるいは戦力外となる。②「肉体」の衰えは明らか。③「快楽」(Ex. 飲む打つ買う)から遠ざかる。④「死」が近づき、残された人生の時間は少ない。

(3)「公の活動」ができなくなると惨めか?(①)
D 老人は「思慮・権威・見識」で「公の活動」に貢献できる。(六)
Dー2 若い盛りは「無謀」だが、老いゆく世代は「深謀」だ。(六)
Dー3 詩人、哲学者では、知力・情操が老年に盛んとなることがある。(七)
Dー4 賢者であり、また徳を持った老人は、若者から愛される。(八)

《感想》老人は、賢者であり、徳を持つ者として、その「思慮・権威・見識」、「深謀」で、若者に影響力を与える。かくて間接的に「公の活動」に働きかける。

(4)「肉体」が衰えると惨めか?(②)
E 老人の「静かで気負いのない話ぶり」、「整然とした穏やかな」雄弁は、傾聴を勝ち取る。(九)
E-2 老人が、体力的に演説できなくても、若者に教えることができる。(若者の熱意に取り囲まれた老年ほど喜ばしいものはない。)(九)
E-3 若者の覇気(Ex. 勇士)、安定期にある者の重厚さ(Ex.執政官・軍司令官)、老年期の円熟(Ex. 深慮ある言葉)、これらは各々、自然の恵みだ。(一○)
E-4 鍛錬と節制で、老年においても一定の頑健さが維持できる。(一○)

《感想》老年とは円熟であり、「静かで気負いなく、整然と穏やかな雄弁」が可能となる。老人は「肉体」が衰えても、若者に尊敬され、そして彼らを教えることができる。幸福で楽しく豊かな老年だ。

(5)「快楽」が奪われると惨めか?(③)
F 「老年に快楽がない」と主張するのは俗説だ。(一ニ)
Fー2 「肉体の快楽」は「精神」に有害であり、「自制」も「徳」も破壊される。「理性」も「思索」も弱まる。「快楽ほど忌まわしく害毒のあるものはない。」「魂の光をすっかり消してしまう。」(一ニ)
Fー3 「肉体の快楽」がなくなれば、「精神」への害悪が減る。(一ニ)
Fー4 もちろん老年になっても「節度ある酒席」(快楽)を楽しむのは良いことだ。「破目をはずした宴会」でなく会話を楽しみ、「生を共にする」。(一三)
Fー5 老年の快楽に、「研究や学問」というような糧があれば喜ばしい。(一四)
F-6 老年には農作業も楽しい。Ex.葡萄作り。(一五)
G なお「老人は気むずかしく、心配性で、怒りっぽく、扱いにくい」と言うが、これらは「性格の欠陥」であって、「老年の咎(トガ)」ではない。(一八)

《感想》「肉体の快楽」は精神の害悪だから、老年になって「肉体の快楽」が減ることは、良いことだ。節度ある宴会、会話の楽しみ、研究・学問、農作業など老年にふさわしい「快楽」がある。

(6)「死」が近づくと惨めか?(④)
H 「人は皆、生きるべく与えられただけの時に満足しなければならぬ。」「青年が望むところを老人は既に達成している。」「あちらは長く生きたいと欲するが、こちらは既に長く生きたのである。」(一九)
H-2 「自然に従って起こること(※死)は全て善きことの中に数えられる。」(一九)

《感想》老人はすでに、「生きた」のであり、若者はまだ「生きていない」のだから、老人が「残りが少なくて惨め」というのは我が儘だ。死は「自然に従って起こること」だから「善きこと」である。

(6)ー2 「魂の不死」について
I 大カトーは、「魂の不死」を求める。彼は「この世から立ち去った時にこそ初めて真に生きることになるとでもいうかのように、絶えず後の世を見つめて来た。」彼は「不死の誉れ」を求め最大の努力をしてきた。(二三)
I-2 賢い人ほど平静な心で死んで行くのは、彼が自分の「魂の不死」を信じ、自分の魂が「より良い世界へと旅立つ」ことが見えるからだ。(二三)
I-3 「魂が不死である」からこそ、死後、すでに亡くなった人々の魂と会える。(二三)
J 「仮に、われわれは不死なるものになれそうにないとしても、人間はそれぞれにふさわしい時に消え去るのが望ましい。自然は、他のあらゆるものと同様、生きるということについても限度を持っているのだから。」(二三)

《感想》大カトーは、一方で「魂の不死」を信じたいと思うが、他方で「不死なるものになれそうにない」とも思う。古代ローマ人は現実主義者だ。彼らは「魂の不死」を信じないことがあるが、「自然」は信じる。
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