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宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『寝ながら学べる構造主義』内田樹(タツル)(1950生れ)、文春新書、2002年

2016-07-21 11:50:20 | Weblog
まえがき
A 入門書は「根源的な問い」を扱う。死、性、共同体、貨幣、記号、交換、欲望とは何かなど。
《評者の感想》:「心or他我とは何か?」が、「根源的な問い」に、例として挙げられていないのが、考えられない!「共同体とは何か?」の問いに、含まれるというのか?

第1章 構造主義前史
(1)構造主義の発想法に「みんなが飽きる」時代が来るだろう
A 私たちはいまだ「構造主義が常識である時代」にとどまっている。(19頁)
A-2 私たちは「偏見の時代を生きている」という構造主義の発想法から、逃れることはできない。(19頁)

B みんなが「マルクス主義的にしゃべるのに飽きた」ので、マルクス主義が常識の時代は終わった。(21頁)
《評者の感想》:連合赤軍リンチ殺人事件(1971-72)で、マルクス主義が、国内的に見捨てられたのが第1。そして第2に、1991年、ソ連邦が崩壊し、マルクス主義は世界的に捨て去られた。「マルクス主義的にしゃべるのに飽きた」から、マルクス主義が常識の時代が終わったわけではない。

C 構造主義特有の用語、システム、差異、記号などの言葉に、「みんなが飽きる」時代が来るだろう。(21頁)

(2)構造主義のポイント
D アメリカ人の立場とアフガン人の立場の「違い」について語りうるのは、比較的最近、ほんのこの20年の常識である。(22頁)
D-2 アルジェリア戦争当時、フランスとアルジェリアの言い分について、「どちらにも一理ある」と言ったのはアルベール・カミュのみで孤立無援だった。(24頁)

E 構造主義のポイント(25頁)
①自分の属する社会集団が受けいれたものだけを、選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
②私たちが、判断や行動の「自律的な主体」であるのは、限定的である。自由や自律性は、限定的。

《評者の感想》
(1)だからと言って私たちは、社会によって全面的に拘束され、何の自由・自律的な判断・行動もできない奴隷ではない。
(2)私達は、自分が、社会的に拘束されていることに、批判的に対応できる。つまり私たちには、「理性」がある。
(3)現に、すべての人が、自分自身の言動として、自分に執着してしゃべり、他者を批判し競争し勝利し、金を稼ぎ、地位を得、自身の自尊心などの感情を保持し、生きている。この本の著者にも当然、当てはまる。私たちは、自分勝手で、自分中心な「主体」である。
(4)「自律的」ということが、「自分ですべて決められる」という意味なら、そのような「自律的な」主体など、これまで、どこにもない。
(4)-2 あなたの行動の源である気分・欲望・衝動・希望・情動・感情・情緒等が、「社会的に限定されている」からと言って、それらが、あなたという「主体」のものでなくなることはない。そもそも、「あなた」とは、気分・欲望・衝動・希望・情動・感情・情緒等そのものことである。
(4)-3 しかも、もちろん、あなたという「主体」は、あなた自身に属する・あるいはあなた自身であるそれらのものに、批判的に(=理性的に)対する自由・自律性を、保持する。
(4)-4 そもそも私なる主体は、身体という物理的条件に制約されている。死なねばならず、精神(=心)は身体という牢獄&道具の内にある。その限りで、私は完全な自由も自律性も、原理的に持たない。
(4)-5 私の自由・自律性は、身体、物理的世界だけでなく、さらに、社会的・文化的諸制度(これらは物理的世界・他我として現れる)によっても、制約される。
(5)繰り返しになるが、社会的・文化的諸制度(これらは物理的世界・他我として現れる)によって拘束・制約され、選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」ことに、私は、気づくことができ、批判することができる。私(=主体)がもつ「理性」、あるいは思考の「自由」は、偉大である。

(3)マルクス:主体性の起源は、「存在」にでなく、「行動」のうちにある。生産=労働のネットワークの「効果」として、様々のリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」が決定される。
F マルクスは、帰属階級によって違ってくる「ものの見え方」を、「階級意識」と呼ぶ。
F-2 普遍的人間性、「人間」一般は、ない。(27頁)
F-3 人間の個別性は、「何ごとをなすか」(「行動すること」)で決まる。「存在すること」、「静止していること」としての普遍的人間性など、ない。(27頁)あるとしても「存在すること、行動しないこと」=「現状肯定」を正当化するイデオロギーである。(28頁)

G これを、マルクスは、ヘーゲルから受け継ぐ。ヘーゲルは、「自分のありのままにある」ことへの満足を否定。「命がけの跳躍」を試み「自分がそうありたいと願うものになること」、これこそが人間を動物から区別すると、ヘーゲルは述べる。(28頁)
G-2 人間は「彼によって創造された世界の中で、自己自身を直観する」。(マルクス)
G-3 「人間が人間として客観的に実現されるのは、(※「作り出す」活動としての)労働によって、ただ労働によってだけである」。(ヘーゲル)(29頁)
G-4 人間が「(※動物のような)自然的存在者以上のもの」であるのは、「人為的対象を作り出した後」だけ。(ヘーゲル)(29頁)
G-5 「動物は、単に直接的な肉体的欲求に支配されて生産するだけ」である。(マルクス)(28頁)

H そして「私を直観する」のは、他者とのかかわりとしての生産=労働の中に身を投じることによって、「他者の視線」になって「自己」を鳥瞰できることによってである。(30-31頁)

I 主体性の起源は、主体の「存在」にでなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義の根本にある。ヘーゲルとマルクスから継承したもの。(32頁)
I-2 私が「何ものであるか」は、生産=労働のネットワークのどの地点にいるかで決まる。(ヘーゲル&マルクス)(31頁)
I-3 ネットワークの中心に主権的・自己決定的な主体がいるのでない。ネットワークの「効果」として、様々のリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」が決定される。この構造主義の考え方は、「脱-中心化」、「非-中心化」と呼ばれる。(32頁)

(4)フロイト:「抑圧」のメカニズム(番人)により「無意識の部屋」から「意識の部屋」に入れないものがあるという(心的過程における)構造的な「無知」(34-35頁)
J 人間は、自分が何ものであるかを熟知し、その上で自由に考え、行動、欲望しているわけでない。(39頁)
①マルクス:人間主体は、自分が何ものであるかを、生産=労働関係のネットワークの中での「ふるまい」を通じて、事後的に知ることしかできない。(40頁)
②フロイト:人間主体は、「“自分は何か”を、意識化したがっていない(※抑圧)」という事実を、意識化できない。(40頁)
K かくて、人間的自由や主権性の範囲は、どんどん狭まっていく(①②)。(40頁)

(5)ニーチェ:「みんなと同じ」を善とし普遍妥当と信じる畜群・「笑うべきサル」
L 人間の思考は自由でない。外在的な規範の「奴隷」にすぎない。私たちに自明なことは、時代や地域に固有の「偏見」である。これらを、ニーチェは語る。(40頁)
L-2 「われわれは、われわれ自身を理解していない。」(ニーチェ『道徳の系譜』)動物と同じレベル。(41頁)
L-3 「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から自分を見るという「自己意識」(Cf.ヘーゲル)の欠如。(45頁)
L-4 同時代人は「臆断」の虜囚である。(45頁)19世紀ドイツのブルジョワは自らの偏見・予断を普遍的に妥当すると信じる愚物。(46頁)
M いかにして現代人はこんなにバカになったか?ニーチェの「系譜学的」思考。(46頁)
M-2 ニーチェ『道徳の系譜』:「善悪という価値判断」を人間は案出したが、人間の進展に役立ったか?(47頁)
M-3 功利主義者(ホッブズ、ロック、ベンサム)は、私権の保全のために、私権の一部を制限する善悪の規範(道徳)が成立したと言う。(47-50頁)
M-4 ニーチェは「大衆社会」の畜群(Herde)、つまり非主体的な群衆を、憎む。畜群における自己の「偏見」の絶対化。「畜群道徳」は「みんなと同じ」、「平等」、「同情」を善とする。(50-51頁)
M-5 他人と同じことをするのが「善」「幸福」「快楽」:畜群道徳!彼らは「奴隷」的存在者である。(53頁)
N 「畜群」「奴隷」の対極に「貴族」がいる。その極限が「超人」。(53-56頁)
N-2 「笑うべきサル」、忌まわしい永遠の「畜群」、「永遠の」をめぐるニーチェの超人思想は、暴力的反ユダヤ主義プロパガンダに帰結する。(57頁)


第2章 構造主義の始祖ソシュールと『一般言語学講義』
(1)「名づけられる前からすでに、ものはあった」のではない!
A 「ことばとは『ものの名前』ではない」(ソシュール)(61頁)
A-2 「名称目録的言語観」(「カタログ言語観」)をソシュールは否定する。(62頁)
A-3 ソシュールによれば、「名づけられる前からすでに、ものはあった」とするのは誤り!(62頁)

(2)概念(※もの)は、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される
B 「概念(※もの)は、それが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される。・・・・ある概念(※もの)の特性とは、『他の概念(※もの)ではない』ということに他ならない。」(『一般言語学講義』)(63頁)
《評者の感想》:ここでは、概念、意味は、「もの」と同義に使われている。

(1)-2 ことばがないと、概念(※もの)がない
C「ことばがないということは、概念(※もの)がないということ。」(高島俊男)(65頁)

(2)-2 語の「価値」(「意味の幅」)とは、言語システム中で、ある語と隣接する他の語との「差異」である
D 「語に含まれている意味(※もの)の厚みや奥行き」のことをソシュールは「価値」valeurと呼ぶ。いわば「意味の幅」。(65頁)
C-2 「語義」signification :“several”と「五、六」は「語義」としてはだいたい重なるが、「価値」は微妙に変わる。(65-66頁)
C-3 「価値」(「意味の幅」)は、その言語システムの中で、あることばと隣接する他のことばとの「差異」によって規定される。(66頁)

(1)-3 「ことば」と「もの」は同時に誕生する
C-4 ことばの「意味の幅」にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶなら、「ことば」と「もの」は同時に誕生する。(66頁)
D 非定型的な星々を星座に分かつように、ある観念(※もの)があらかじめ存在し、それに名前がつくのでない。名前がつくことで、ある観念(※もの)が存在するようになる。(67頁)

(2)-3 システム中の「ポジション」で事後的に決定されるもの&そのもの自体の生得的・本質的なもの
E 性質・意味・機能は、システムの中の「ポジション」で、事後的に決定される。そのもの自体の生得的・本質的な性質・意味は存在しない。(71頁)
E-2 すでに古典派経済学は、商品の「有用性」と区別し、“商品の「価値」が市場の需給関係で決まる”と述べた。(72頁)

(1)-4 私の中で語っているのは、私ではなく、ことばそのものが語る
F 「心の中にある思い」は、ことばで「表現される」と同時に生じた。心の中で独白する場合も同様。(73-74頁)
F-2 「心」「内面」「意識」は言語運用によって事後的に得られたもの。(73頁)
《評者の感想》:これは、内容の分節化のことを言っている。分節化されない「心」「内面」「意識」は、言語運用以前にも存在する。

G 詩人の「詩神」、ソクラテスの「ダイモン」!「ことばを語っているときに、私の中で語っているのは私ではない」。ことばそのものが語る。これこそ、言語運用の本質である!(73頁)

(1)-5 「私が語る」内容は、「他人のことば」の受け売り
H さらに言えば、私が確信をもってことばで語るとき、その意見は、「私が誰かから聞かされたこと」(私が習得した言語規則、語彙、聞きなれた言い回し、読んだ本の一部など)である。(73頁)
H-2 「私が語る」とき、語られている内容は「他人のことば」の受け売り。
H-3 純正オリジナルの自分の意見は、普通、ぐるぐる循環し、矛盾し、主語が途中から変わり、何を言っているのか分からなくなったりする。(74頁)

(3) 「自我中心主義」批判
I 「私のアイデンティ」は「私が語ったことば」を通じて事後的に知られる。そして、語られている内容さえ「他人のことば」の受け売り。(75頁)
I-2 「私のアイデンティ」、「自分の心の中にある思い」などあるのか?(75頁)

J 「自我中心主義」は、致命的にダメージを与えられる。(75頁)
①「自我」「コギト」「意識」が世界経験の中枢?そうではない!
②すべてが「私」という主体を中心に回っている?そうではない!
③経験とは「私」が外部に出かけ、いろいろなデータを取り集めること?そうではない!
④表現とは「私」が自分の内部に蔵した「思い」をあれこれの媒体を経由して表出すること?そうではない!

《評者の感想》
①分節されない「心」「内面」「意識」は、言語運用以前にも存在する。
①-2 1次世界一般における「他我」の出現or構成とともに、1次世界は分裂し一方で客観的物理世界、他方で「心」「内面」「意識」が、必然的に出現or構成されざるを得ない。現象学的知見における「他我」構成の問題領域を参照。
①-3 世界=有は出現する。しかも構造化されて出現する。それが超越論的主観性と呼ばれる世界=有の出現である。
②「心」「内面」「意識」には、一定の働き方がある。現象学がそれを本質的形式として叙述する。
③「私のアイデンティ」とは、気分・欲望・衝動・希望・情動・感情・情緒等である。
③-2 それらは、連続的時間的出現、蓄積、分節化=類型化(ことばによるもの、注視・意図など能動性によるもの、あるいは受動的なもの)、混乱、相互作用、習慣化=構造化等をこうむる全体として、存在する。

(4)構造主義の前史、第1、第2、第3世代(76-77頁)
K 構造主義前史:マルクス(システムの結び目としての人間)、フロイト(人間主体への構造的疑い)、ニーチェ(自由などウソ、外在的規範の奴隷・畜群としての人間)
K-2 第1世代:ソシュール(①ことばがないと、概念(※もの)がない、②概念(※もの)は、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される、③「自我中心主義」批判)
K-3 第2世代:1920-30年代の東欧・ロシアの「ニューウェーブ」。プラハ学派(ローマン・ヤコブソンら)そしてロシア・フォルマリスム、未来派、フッサール現象学との異種配合。プラハ学派が「構造主義」と命名。
K-4 第3世代:1940-60年代フランス。「構造主義の4銃士」。
(1)文化人類学のクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009):(a)親族関係は2ビット、(b)人間の本性としての贈与
(2)精神分析のジャック・ラカン(1901-81):(a)幼児と鏡、(b)ことばの贈与と嘉納による「共生」
(3)記号論のロラン・バルト(1915-80):(a)「零度の記号」or無垢のエクリチュール(ことばづかい)、(b)作者の死
(4)社会史のミシェル・フーコ―(1926-84):(a)系譜学的思考、 (b)社会制度としての身体


第3章 フーコーと系譜学的思考
(1)世界は別のものになる無限の可能性に満たされている&歴史を「生成の現場」にまで遡行する:『知の考古学』
A フーコーの仕事は、「今あるもの」が、「昔からあったもの」だとの思い込みを粉砕すること。『監獄の誕生』、『狂気の歴史』、『知の考古学』。(79頁)
A-2 制度や意味が「生成した」現場にさかのぼる。(80頁)
A-3 Cf. 「生成した瞬間の現場」=「零度」(ロラン・バルト)。(80頁)
A-4 構造主義とは、人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)について、「零度の探求」である。(80頁)
B フーコーは人間主義的進歩史観に異を唱える。「いま・ここ・私」が歴史の進化の最高到達点とする「人間主義」(一種の「自我中心主義」)批判。(80-81頁)
B-2 進化でなく退化でも、いずれにせよ「歴史の直線的推移」は幻想。(81-82頁)
C 世界は私たちが知っているものとは別のものになる無限の可能性に満たされている。(85頁)
C-2 「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」(86頁)

(2)狂気の「生成の現場」:『狂気の歴史』
D 「歴史から排除され、理性から忘れ去られたもの――狂気――」(87頁)
D-2 正気と狂気の分離は17-18世紀の近代的都市・家族・国家の成立とともに始まった。(87頁)
D-3 近代以前においては、狂人が「人間的秩序」の内部に、正当な構成員として受容されていた。西欧中世では、信仰の重要性を証しする「生きた教訓」としての狂人が教化的機能を担った。(88頁)また「別世界から到来するもの」として歓待された。(90頁)
D-4 日本では「ものぐるひ」は、世俗と霊界を結ぶ「リンク」。(88-89頁)

E 17世紀になって狂人は非神聖化される。(90頁)
E-2 「理性」による狂気の排除。(91頁)Cf. 理性の時代における「魔術からの解放」(M.ウェーバー)
E-3 医師による治療の対象として、狂人を隔離。「知と権力」の結託。(91頁)

(3)一個の社会制度としての身体or「意味によって編まれた身体」(〈例①〉・・・・〈例⑤〉):『監獄の誕生』
F 知と権力は、近代において人間の「標準化」をめざす。その一つが、「身体」の標準化。
F-2 身体は、「意味によって編まれた」一個の社会制度である。「意味によって編まれた身体」!(92頁)
F-3 〈例①〉「肩凝り」は日本語話者に固有である。(93頁)
F-4 〈例②〉日本の伝統的な歩行法は「ナンバ」(右足前・右半身前、左足前・左半身前)で深田耕作に適す。明治維新後、軍隊行進のヨーロッパ化のため、学校教育で「ナンバ」廃止。(93-94頁)

(4)〈例③〉「国王二体論」:王は自然的身体と「政治的身体」を持つ
G 〈例③〉前近代の身体刑が残忍だったのは、刑罰が目指していたのが、「自然的身体」でなく「政治的身体」だったため。(96頁)
G-2 絶対王政期の「国王二体論」。王は自然的身体と「政治的身体」を持つ。王の政治的身体は政治組織・統治機構からなり、人民を指導し公共の福利を図る。(これもまた「意味によって編まれた身体」である。)(96頁)
G-3 大逆罪を犯した者が毀損した「王の政治的身体」の対極に、不死にして不壊の「弑逆者の政治的身体」を想定し、大掛かりな身体刑でそれを破壊する。それとともに国王の「政治的身体」の不可侵性を奉祝する。いわば「負の戴冠式」。(97-98頁)
H 〈例④〉騎士や殉教者が、戦場や火刑台で、恐るべき身体的苦痛を、ときに強烈な宗教的法悦や陶酔感とともに経験した。(98頁)
H-2 〈例⑤〉「フランス革命の大義」について徹底的イデオロギー教育をうけた兵士は、「苦痛を感じない身体」を持つ兵士となりうる。手足切断の手術を受けてすぐに戦場に戻った兵士!(99頁)

(5)〈例⑥〉国家は身体を操作する:身体の政治技術
I 〈例⑥〉-1 フランス近代における兵士の造型(100頁)
I-2 〈例⑥〉-2 山県有朋:農民兵の身体を「練習数月」で軍事的に「標準化」し、中央権力にに服さない士族兵の身体を「統御」する。西南戦争を勝利させた軍事的身体加工の成功。(101頁)
I-3 〈例⑥〉-3 森有礼の「兵式体操」の学校教育への導入(M19)。(102頁)
J〈例⑥〉-4 身体の政治技術が、「監視され、訓練され、矯正される人々」に適用される。「狂人、子ども、生徒、植民地先住民、生産装置に縛りつけられる人々」!(103頁)
J-2 身体の支配を通じて、精神を支配する。統御されていることを感知しない。(103頁)
J-3 〈例⑥〉-5 1958年から文部省が導入した「体育坐り」or「三角坐り」。(104-5頁)

(6)「カタログ化し一覧的に位置づける」ものとしての「権力=知」が産みだす「標準化の圧力」:『性の歴史』
K 19世紀になると、性的逸脱が「治療」の対象となり性的異常のカテゴリー産出。性的逸脱を「カタログ化し、一覧的に位置づける」情熱!(109頁)
K-2 さらに、もろもろの「性の言説化」(110頁)
K-3 「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類・命名・標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする「ストック趨向性」である。「カタログ化し、一覧的に位置づける」ことは、すでに「権力」である。(110-111頁)
L 「権力=知」の産みだす「標準化の圧力」。おのれの「疑い」そのものが「制度的な知」へと回収されていく。それへの不快を真骨頂とするフーコーの批評性。(111-112頁)


第4章 バルトの記号学:① 覇権を握った語法(エクリチュール)=「価値中立的な語法」の内に社会集団のイデオロギーがひそむ&②「作者の死」と「読者の誕生」
(1)徴候(自然的因果関係に基づく)、象徴(事実的連想に基づく)、記号(取り決めに基づく)
A しるし①徴候(indice):しるしと意味が自然的因果関係を持つ。Ex. 黒雲は嵐のしるし。(113-4頁)
A-2 しるし②象徴(symbole):しるしと意味が、事実的な連想で結ばれている。Ex. 天秤は裁判の公正のしるし。(114頁)
A-3 しるし③記号(signe): しるしと意味が、社会集団の制度的・人為的取り決め(「集合的な記号解読ルール」)で、結び付けられている。しるしは「意味するもの(signifiant、シニフィアン)」、意味は「意味されるもの(signifié、シニフィエ)」と呼ばれる。(114-6頁)
B ロラン・バルトは、あらゆる文化現象を、「記号」として読み解く。(117頁)
B-2 バルトについて(a)「エクリチュール」の概念、および(b)「作者の死」の概念について、以下、述べる。(117頁)

(1)-2 覇権を握った語法(エクリチュール)こそ「客観的ことばづかい」である&この「価値中立的な語法」の内にその社会集団の全員が共有するイデオロギーがひそむ
C 1960年代、バルトの「エクリチュール」の概念が、大流行する。(117頁)
C-2 言語の規則には①「ラング(langue)」と②「スティル(style)」がある。(118頁)さらに③「エクリチュール」(écriture)がある。(120頁)
C-3 ①ラング:「ある時代の書き手全員に共有されている規則と習慣の集合体」。「国語」にあたる。「言語共同体」はラングを共有する。ことばづかいの「外側からの」規制。(118-9頁)
C-4 ②スティル:個人個人の言語感受性、言語感覚。話すときの速度、リズム感、音感、韻律、息づかい等。書くときの文字のグラフィックな印象、比喩、文の息の長さ等。ことばづかいの「内側からの」規制。個人的な好み。(119-120頁)
C-5 ③エクリチュール:ことばづかいの第三の規制。集団的に選択され、実践されることばづかいの「好み」。「エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を、選び取ることである。」(バルト)ことばづかいが、その人の生き方全体を、ひそかに統御する。Ex. 中学生男子のエクリチュール、おじさんのエクリチュール、教師のエクリチュール、やくざのエクリチュール、営業マンのエクリチュール(120-122頁)

D すべての語法(エクリチュール)は、覇権を争う闘争である。ある語法が覇権を手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、無徴候的な偏見(doxa)となる。(121頁)
D-2 「価値中立的な語法」の内にこそ、その社会集団の全員が共有するイデオロギーがひそむ。Ex. 「覇権を握った性イデオロギー」(123頁)

E 読む「主体」は、簡単に「テクストを支配している主人公の見方」に同一化してしまう。(124頁)
E-2 テクストが、「主体」を変える。ものの見方の変化。(125頁)
E-3 テクストと読者の双方向的なダイナミズム。(126頁)(次節(2)読者の誕生と「作者の死」参照!)

(2)近代批評:(1)作者の「底意」(真に「言いたいこと」)を捜すことから、(2)「それと気づかずに語ってしまったこと」に照準を合わせ「作者に書くことを動機づけた初期条件」(=作品の「秘密」)を探すことへ
F 「作者」に「言いたいこと」があって、それが、作品を「媒介」として、読者に「伝達」されるという単線的図式。これをバルトは否定する。(126-7頁)
F-2 近代批評は、「行間」を読み、作者の「底意」(真に「言いたいこと」)を捜した。作者は、「この作品を通して、何を意味し、何を表現し、何を伝達したかったのか」を、批評家が問う。(127頁)
F-3 ところが、作者たちは「自分が何を書いているのか」、はっきり理解しているわけでない。(128頁)
《評者の感想》
①言葉が並べられている限りで、「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」は、類型性(=一般性)を持つ。かくてそれら、が取り込む事象・感情には、一定の幅がある。その幅から、全く自由に、読み解けるとは思えない。
②「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」が作者によって選び取られ、産出されたのだから、その選び取る行為を動機づけた「意図・感情」は存在する。意図・感情が「並べられた言葉」(=作品)を産みだした。「意図・感情」を問うことはできる。ただし、この「意図・感情」が、作者にとって「言いたいこと」として明確に把握されていたかどうかは、不分明である。

G (a)「言おうとしたこと」が声にならず、(b)「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。(「それと気づかずに語ってしまったこと」がある。)これら(a)(b)が、人間が言語を使う時の宿命である。(128頁)
《評者の感想》
③「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」は、類型性(=一般性)を指示する。つまり類似の(=類型的・一般的な)様々な事態を喚起する。
かくて(a)「言おうとしたこと」が声(=言葉)にならない(=言葉によって喚起・指示されない)ことがある。
あるいは(b)「言うつもりのなかったこと」(=事象・意図・感情)を、選ばれた言葉がかってに喚起・指示することがある。

H 批評家は、作者が「言おうとしたこと」の特定は、原理的に困難とわかり、かくて「それと気づかずに語ってしまったこと」に照準を合わせる。「作者に書くことを動機づけた初期条件」を探る。作品の「秘密」を探す。(128頁)
H-2 ①家庭環境、②幼児体験、③読書経験、④政治イデオロギー、⑤宗教性、⑥器質疾患、⑦性的嗜虐などが、作品誕生の「秘密」を教えてくれる。(128-9頁)
H-3 今もこれが、近代批評の基本パターンである。(129頁)
《評者の感想》:つまり選ばれた言葉(=「作品」)がかってに喚起・指示する類型的な事象・意図・感情((b))から、一方で「言おうとしたこと」を推定、他方でその「言おうとしたこと」を動機づけた類型的事態(作品誕生の「秘密」)を推定する。

(2)-2 「作者の死」と「読者の誕生」
I バルトは、「テクスト」(=「作品」)は「織り上げられたもの」・「テクスチュア」で、「その背後に何か隠された意味(真理)を潜ませている」ものではないとする。(129-130頁)
I-2 「作者は何を表現するためにこれを織り上げたのか」と問うことに、意味はない。(129-130頁)
I-3 主体は解体する。「作者の死」!(130-131頁)
《評者の感想》:バルトは作者もまた、読者の一人だと言っている。書かれた「作品」は変わらずにそこにある。「作品」の解釈において、作者の特権性は、原理的にない。(「作者の死」!)しかし「作品」を形として産出したのは作者である。

J 「テクスト(※作品)は、様々な文化的出自を持つ多様なエクリチュールによって構成されている。」(バルト) (131頁)
《評者の感想》
① バルトによれば、「作品」を形として産出した作者は、「主体」でなく、システムの結節点である。作品は、「主体」が産みだすのでなく、諸システム一般の帰結、つまり「様々な文化的出自を持つ多様なエクリチュール」一般であるとバルトは言う。
② “作者が「主体」でなく、システムの結節点である”と言ったところで、作者は作品を書き、それを売ってカネと地位を得て、いい生活ができるのなら、そしてそれを追求しているのなら、作者は「主体」であり続けるのではないのか?カネと地位と「いい生活」の快楽を感じる者こそ、「主体」である。
③ “快楽を感じる者つまり「主体」”が、システムの結節点だとして、だからと言って、“快楽を感じる者が「主体」である”という事実に何の変化もない。

J-2 「テクストの統一性は、その起源(=作者)でなく、その宛先(=読者)のうちにある。」(バルト)「作者の死」と「読者の誕生」!(131頁)
《評者の感想》
① バルトは、テクストの「解釈」(=「テクストの統一性」)について語っているにすぎない。
② すなわち、書かれた「テクスト」そのものは変わらずに、そこにある。テクストの形としての「書き換え」について、バルトは語っていない。

K “改造自由なインターネット・テクストは、上記のバルトの説そのものだ”と、内田樹氏。(131-3頁)
《評者の感想》
① インターネット・テクストは多数の作者の共同作業で、作品の「形」を変化させていく。
② しかし、バルトは、作品の「形」としての書き換えについては、語っていない。「解釈」の主体が、作者を含む読者であって、作者のみでないと言っているだけである。

(3)純粋なことば(「無垢のor白いエクリチュール」)という不可能な夢
L バルトは、「白いエクリチュール」、何も主張せず、何も否定しない、ただそこに屹立する純粋なことばという不可能な夢を持つ。(135頁)
L-2 これは、あるいは「エクリチュールの零度」、「直接法的エクリチュール」、「モードを持たないエクリチュール」、「ジャーナリストのエクリチュール」(ただし希求法、命令法などパセティックな語法を含まない)、「絶叫と判決文の中間」、「非情なエクリチュール」、「無垢なエクリチュール」とも呼ばれる。(135頁)
L-3 願望、禁止、命令、判断など主観の介入を完全に欠いた「白いエクリチュール」!バルトが生涯を賭けて追い求めた言語の夢!(135頁)

M バルトは、アルベール・カミュの『異邦人』の乾いた響の良い文体、「説明」せず「内面」に潜り込まない文体を「理想的な文体」と絶賛。(136頁)
M-2 しかしその文体が「美分の模範」として制度的語法となれば、もはや「白いエクリチュール」ではない。(136頁)硬直化し、使用者に隷従を強いる装置となる。

N バルトは、ジャーナリズムもだめ、『異邦人』もだめ、シュルレアリスムもだめ、ヌーヴォーロマンもだめ・・・・と、あらゆるエクリチュールの冒険に幻滅するが、最後に、日本の俳句と出会う。(137頁)
N-2 俳句は、「言語を欲情させる」ことがない、「言語を中断する」。(137頁)
N-3 ヨーロッパの言語は、対象を裸にして、すべてを露出させ、意味で充満させる。つまり語義を十全に解き明かすというヨーロッパ的解釈。(137頁)
N-4 俳句は解釈を自制する。(137頁)
N-5 「意味を与えて、解釈に決着をつける」ことの抑制が、「言語を中断させる」ことである。(138頁)
N-6 俳句の解釈は、禅僧が師から与えられる「公案」の解釈に似る。公案に一義的解釈はない。それを玩味し、「ついにそこから意味が剥落するまで、〈噛み〉続ける」ことが求められる。(138頁)

O 俳句は、「簡潔に語る」のではない。それは「短い形式に凝縮された豊かな思想」ではない。(138頁)
O-2 俳句は、「おのれにふさわしい形式を一気に見いだした短い出来事」である。それは「意味の根源そのものに触れる」。(138頁)
O-3 俳句こそ、「無垢のエクリチュール」への王道である。(バルト)(139頁)

P ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」に対するバルトの激しい嫌悪。(138頁)
P-2 「みごとに説明しきること」、「何ごとについても理非曲直を明らかにすること」より、「無根拠に耐えうること」、「どこにも着地できない宙吊りになったままでいられること」を人間の成熟の指標とみなすという「民族的奇襲」を持つ日本人。(138-9頁)


第5章 クロード・レヴィ=ストロース:実存主義批判&贈与システム
(1)レヴィ=ストロース:構造主義の立場から実存主義(サルトル)を批判
A ソシュール直系のプラハ学派のローマン・ヤコブソンからヒントを得て、レヴィ=ストロースは、親族構造を、音韻論の理論モデルを使って、解析する。『親族の基本構造』(1949)、『悲しき熱帯』(1955)。(140頁)
B 『野生の思考』(1962)で、ジャン=ポール・サルトルの『弁証法的理性批判』を、痛烈に批判。実存主義の死亡宣告。(141-2頁)
B-2 フランス知識人は、「意識」や「主体」について語るのをやめ、「規則」と「構造」について語り始める。「構造主義の時代」が始まる。(141頁)
C 実存主義:「実存は本質に先行する」。どういう決断をしたかで、その人間が「何者であるか」(本質)が決定される。ある歴史的状況のもとで、断片的なデータと直観を頼りに決断する=「参加(アンガージュマン)」。ただし、主観的判断に基づき下した決断の責任は、粛然と引き受ける。(142-3頁)
D レヴィ=ストロース『野生の思考』によれば、世界の見方の差異は、「知的能力」によるのでなく、「関心」の持ち方の差異による。(147頁)
《評者の感想》
①人間の欲求の実現、すなわち自然の支配という点では、近代科学技術は、「野生の思考」の呪術的世界を圧倒的に凌駕する。自然の支配という「関心」は、「未開」社会でも「文明」社会でも同一。だから、この「関心」のもとでは、「文明」社会は、「未開」社会より圧倒的に優れている。
 ②しかし、人生の意味への「関心」については、「未開」社会も「文明」社会も、優劣がない。

D-2 あらゆる文明は、おのれの世界の見方こそ「客観的」である、つまり真の世界を捉えていると考える。(147頁)
D-3 近代科学技術を発展させた「文明人」は、「未開人」が、「主観的に歪められた」世界を見ているとみなす。(147頁)西欧的知性の「思い上がり」!(151頁)

E サルトルは「歴史」を、未開から文明へ、停滞から革命へ進む単線的プロセスととらえ、「歴史的に正しい決断を下す人間」と「歴史的に誤りを犯す人間」を峻別する。これに対しレヴィ=ストロースは、サルトルの見方は、「野蛮人」が自らの「物差し」で、「自分たち」の真の見方と「よそもの」の誤った見方を区別するのと、同じだと批判。サルトルの「自己中心性と愚鈍さ」!(148-9頁)
E-2 実存主義は、「歴史の名において、すべてを裁断する権力的・自己中心的な知」である。(レヴィ=ストロース)(150頁)
F サルトルは、レヴィ=ストロースの構造主義に対し、真の見方である実存主義の立場から「歴史の名において」死刑宣告を下す。サルトルは、全く、レヴィ=ストロースの批判を理解しない。かくて、実存主義の時代に、唐突な終わりが来る。(150頁)
F-2 サルトルは次のように言う。構造主義は、「ブルジョアジーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギー的障壁」、「ブルジョワ・テクノクラートの秘儀的学知」、「腐敗した西欧社会」の象徴である。「ヴェトナムの稲田、南アフリカの原野、アンデスの高原」の「自由な精神」が、「暴力の血路」を切り開いて西欧に攻め寄せ、構造主義を叩き潰すだろう。(150頁)

(2)音韻論の発想法(2項対立の組み合わせとして構造(制度)を捉える)を親族制度に当てはめる:レヴィ=ストロース
G音韻論(phonology)あるいは音素論(phonemics)。(151頁)
G-2 音のアナログな連続体から、恣意的に切り取られ、集合的な同意に基づいて「同音」とみなされる言語音の単位を「音素」(phoneme)と呼ぶ。(152頁)
G-3 世界中の全言語の音素は、12種類の音響的、発声的問いを重ねると、カタログ化できる。(※《評者の注》2進法で12桁の数字、つまり12ビット(12の2項対立)、つまり2の12乗通り、計4096の音素!)(153-4頁)
H レヴィ=ストロースは、“2項対立の組み合わせで無数の「異なった状態」を表現する”という音韻論の発想法を、親族制度の分析に適用した。(154頁)

(2)-2 すべての親族構造は2項対立で表せる。(154頁)
I 2項対立①:①-1「父と息子」親密なら「母方のおじと甥」疎遠、構造①-2「父と息子」疎遠なら「甥と母方のおじ」親密。(155頁)
I-2 2項対立②:②-1「夫と妻」親密なら「妻とその兄弟」疎遠、構造②-2「夫と妻」疎遠なら「妻とその兄弟」親密。(155頁)
《評者の注》この場合の親族構造のパターンは、次の4通り:①-1②-1、①-1②-2、①-2②-1、①-2②-2
J 人間は、2項対立の組み合わせで複雑な情報を表現する。(156頁)

(3) 感情は、親族構造が作り出す 
K “人間が、社会構造を作り出す”のでなく、“社会構造が、人間を作り出す”。(157頁)
K-2 人間の「自然な感情」が親族構造を作り出すのでなく、親族構造(制度)が感情を作り出す。(157頁)
《評者の感想》
(a) “快楽の追求”、“人と人との平穏な関係の形成(戦争状態の回避)”という2目的(これらの基礎には、それら目的を肯定する感情がある)を目指す合理性は、人間にある。これらの目的・感情・合理性に基づいて人間は制度を変える。「信憑や習慣」は変え得る。
(b) そもそも制度は、繰り返される行為によってのみ、存在する。それら行為は、変わりうる。だから制度も変わる。「人間が社会構造を作り出す」ことが、当然、可能である。構造主義は、社会構造の変化の側面に言及しない。制度の静的な特性を、指摘するだけである。

(4)「贈与」とその「反対給付」(「返礼」)の制度=贈与システム
L レヴィ=ストロースは、親族構造(制度)は、「近親相姦を禁止するため」に存在すると言う。(158-9頁)
L-2 近親相姦の禁止のもとでは、「男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない。」(レヴィ=ストロース)(159-160頁)
L-3 「女を譲渡した男と女を受け取った男とのあいだに生じた最初の不均衡は、続く世代によって果たされる『反対給付』によってしか均衡を回復されない。」(レヴィ=ストロース)(160頁)

M この「反対給付」の制度は、知られる限りのすべての人間集団に観察される。(160-1頁)
M-2 何か「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」をしないと気が済まないという人間に固有の「気分」に動機づけられた行為が、この「反対給付」の制度を形作る。ただし「お返し」は第3者に対して行われる。(160頁)
M-3 ポトラッチにおける贈与と返礼の往還。(161頁)

N 贈与システムの社会的「効果」
N-2 社会システムは、変化し続ける。新しい状態が作り出されることもあれば(「熱い社会」Ex. 近代社会)、ぐるぐる循環するだけのこともある。(「冷たい社会」Ex. 「野生の思考」の社会)(162-3頁)

O レヴィ=ストロースは、人間が3つの水準でコミュニケーションするという。①サーヴィスの交換(経済活動)、②メッセージの交換(言語活動)、③女の交換(親族制度)。(163-4頁)
《評者の感想》:女の交換とは、ずいぶん男中心の一般化である。
O-2 与えたものが何かを失い、受け取った者は反対給付の責務を負う。たえず不均衡を再生産するシステム。(164頁)
O-3 ただし返礼(反対給付)はピンポンのように行き来するのでなく、別の男に贈与(返礼)がなされる。(164頁)

(4)-2 人間のあらゆる社会集団に共通のルール(165頁)
P レヴィ=ストロースは、社会集団ごとに「感情」・「価値観」が多様だが、他者と共生してゆくための普遍妥当的ルールがあると、考える。(165-6頁)
①「人間社会は、同じ状態にあり続けることができない。」(165-6頁)
②「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない。」(165-6頁)
《評者の感想》
(1)人間が「他者と共生してゆく」ことは目的・価値である。それら目的・価値が定立されるのは「他者との共生」を肯定する感情があるからである。あらゆる行為(定立された目的の実現行為)の基礎には、それを支える感情がある。
(1)-2 あらゆる構造・制度は、人間に普遍妥当的な目的・価値、つまり「他者と共生してゆく」ことを前提している。そしてその目的・価値は、人間に普遍妥当的な感情、つまり「他者との共生」を肯定する感情に支えられている。


第6章 ジャック・ラカン:「鏡像段階」の理論、「偽りの記憶」の共作としての精神分析
A ラカンは、「フロイトに還れ」と言う。(168頁)
A-2 ここでは「鏡像段階」の理論と「父-の-名」の理論を紹介する。(168頁)
(1)ラカンの「鏡像段階」の理論:「鏡像」による自己の対象化
B 人間の幼児は生後6カ月位になると、鏡像に興味を抱くようになり、やがて強い喜悦の感情を持つ。(168頁)
B-2 ある種の自己同一化。主体が、鏡像を引き受け、主体内部に起きる変容。おのれの鏡像を、〈私〉の象徴として引き受ける。象徴作用の原型。(169頁)
B-3 ①「鏡像」による自己の対象化は、②「他者との同一化の弁証法を通じて〈私〉が自己を対象化すること」にも、また③「言語の習得によって〈私〉が、普遍的なもの(※言語)を介して、主体としての〈私〉の機能を回復すること」にも、先行する。(169頁)
C 生後6か月の幼児においては、身体はまだ統一されていない。「運動のざわめき」、原始的な混沌、寸断された身体という心像。「原初的不調和」!(170頁)
《評者の感想》
① 幼児においては、「身体はまだ統一されていない」とはいっても、触覚における自他の境界は常に形成されている。再帰的な、つまり自他が入れ替わる卓越した境界面が形成される。その境界面に囲まれた内側が身体である。
② “自”とは、絶えず到来する今における中心、「ここ」のことであり、また痛みがある「ここ」、触れることができる「ここ」、そして欲望に指示されて動く「ここ」物体である。“自”は、境界面で“他”に触れるが、触れられた“他”なる境界面は、普通は“他”であり続ける。ところが、その“他”が同時に“自”に転換することがある。自他が入れ替わる卓越した境界面!この境界面に囲まれた内側が身体である。
③かくて身体として“自”は、構成される。触れられるものとして対象化されつつ、触れる主体でもある特殊な物体としての身体は、自他が入れ替わる卓越した境界面に囲まれた内側として、対象化されている。主体と対象の相互転換が生じる特殊な対象が身体である。
④幼児が鏡像に興味を抱くのは、鏡像が、すでに対象化されている身体の象徴だからである。鏡像が自己を対象化するのでない。自己(“自”)は、すでに身体において対象化されている。幼児は、すでに対象化されている自己(“自”)としての身体に、類似する鏡像に興味を持つのである。

C-2 幼児の「原初的不調和」は鏡像を見て、統一的な視覚像として一挙に「私」を把持するとラカンは言う!(170頁)
《評者の感想》:これは誤りと思う。
(a)「私」=自己(“自”)は、すでに身体において対象化されている。幼児は、すでに対象化されている自己(“自”)としての身体に、類似する鏡像に興味を持つだけである。
(b)鏡像において、初めて、「私」=自己(“自”)が対象化されるのでは、断じてない。

D 自分の外部にあるもの(「鏡像」)を「自分自身」と思い込み、それに憑りつくことで、かろうじて自己同一性を立ち上げると、ラカンは言う。(172頁)
《評者の感想》:こんなことは、ありえない。
(c)ラカンは視覚の優位を主張するが、触覚こそ根源的である。触覚が、延長ある物を成立させる。視覚は触覚を補足する幻影の様なものである。
(d)また鏡像は、常に“他”としてしか存在しない。つまり鏡像は、“他”なる鏡の上に存在するだけ。“自他が入れ替わる卓越した境界面”は、鏡には、現れない。鏡&鏡像は、“他”でしかありえない。“自他が入れ替わる卓越した境界面”に囲まれた自己(“自”)である身体こそ、「私」の最初の対象化の産物である。

(2)精神分析:「偽りの記憶」を共作し、症状が消滅すれば、分析は成功
E 精神分析では「自我」は、治療の拠点にならない。(173頁)
E-2 「自我」は、「おのれが正気である」と前提する。しかし「自我」の「知」も、神経症的病因から誕生した「症候形成」かもしれない。(173頁)
E-3 精神分析が足場として選ぶのは、「ことば」の水準、「対話」の水準、あるいは「物語」の水準である。(173頁)

F 「番人」が追い返していた「抑圧された心的過程」を「意識の部屋」に連れ出せば、症候は消失する。(フロイト)(174頁)
F-2 「意識化」とは、要するに「言語化」である。(174頁)

G 被分析者は、「〈ほんとうの自分〉についての物語」を語る。しかし、これが「真実」だというわけではない。(174-5頁)
G-2 被分析者は、自分が何ものであるかを知り、理解し、承認してくれる「聞き手」を必要とする。(175頁)
G-3 患者が「思い出したもの」が、「症状の原因」でなく「新しい症状」であることもある。(176頁)
G-4 「無意識の部屋」の「昔のまま」の記憶がよみがえるのではない。記憶とは、「思い出されながら“形成”されている過去」である。(177頁)

(2)-2 「主体」の2つの極:①絶えず逃れ去る「自我」&②語られている物語の主人公としての「私」
H いくら語っても、その「思い出したもの」で、被分析者は、おのれの中心の「あるもの」(「探しているもの」)に達することは、できない。精神分析の対話における、構造的な「満たされなさ」!(179頁)
H-2 しかし、被分析者と分析家の間で創作・承認された「物語」のなかで、「私」という登場人物のリアリティが増してゆく。(179頁)
H-3 患者の内部にわだかまる「何か」が、症状という「作品」(つくりもの)となる。被分析者と分析家が共作する「物語」(「抑圧された記憶」)も、一つの「作品」(つくりもの)である。精神分析は、「あるつくりもの」を、「別のつくりもの」に置き換え(übertragen)、病的症状を軽微にする。これが「無意識なもの」を、「意識的なもの」に翻訳する(übertragen)というフロイトの技法である。(179頁)
H-4 これは「真実を明らかにする」のではない。「偽りの記憶」を共作し、症状が消滅すれば、分析は成功である。(181頁)

I 分析家と被分析者のやり取りは、物語世界を構築するが、それは「現実の再現」、「想起」、「真実の開示」ではない。それは、象徴化作用、「創造行為」である。(183頁)
I-2 被分析者は、他者(分析家)による「承認」を目指して、過去を思い出す。(184頁)

J フロイトは、主体の2つの極を区別する。①「自我」:主体による自己規定・自己定位のことばから常に逃れさるもの、そしてことばを語ることを動機づけるもの、それが「自我」である。②「私」:相手のいる対話の中で、主体が「前未来形」(相手による承認をめざすこと)で語っている物語、その主人公が「私」である。(185-6頁)
J-2 主体は、「自我」と「私」の2極間を行きつ戻りつしながら、両者の距離を縮小しようとする。分析家は、それを支援する。(186頁)

(3)「不条理で強大なもの」(「父」)に屈服する能力を身につけること(つまり「大人」になること=「成熟」)が、エディプスというプロセスの教育的効果である
K 他者と言葉を共有し、物語を共作すること。これが人間の人間性の根本的条件。これが人間の「社会化」プロセス。すなわち、「エディプス」。(187頁)
K-2 「エディプス」とは、①子どもが言語を使用するようになること、「人間の世界には、名を持つ物だけが存在し、名を持たぬものは存在しないこと」を父から教えられること(「父の名」)。また②子どもと母親との癒着が父親によって断ち切られること(「父の否」)。(187頁)
K-3 「父の否=父の名」。癒着したものに②「切れ目を入れること」と①「名前をつけること」は同じ一つの身ぶり。(187頁)
K-4 つまり①「記号による世界の分節」(ソシュール)と②「近親相姦の禁止」は同じ一つの身ぶり。(188頁)
L 言語の習得(①)とは、「私の知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け容れる他ない」。子どもの絶対的受容性、つまり「世界に遅れて到着した」こと。(188-9頁)
L-2 どういう基準で差異化・分節がなされたか、それを「遡及的に知ることができない」という人間の根源的な無能。あるいは「不条理」。(190-191頁)
L-3 子どもは、エディプスを通過して「大人」となる。「不条理で強大なもの」(「父」)に屈服する能力を身につけること(「成熟」)が、エディプスというプロセスの教育的効果である。(193-194頁)

(3)-2 「贈与と返礼の往復運動」としてのコミュニケーション
M 「正常な大人」は二度の自己欺瞞(「詐術」)をうまくやりおおせたものの別名。(a)(1度目)鏡像段階において「私でないもの(鏡像)」を「私」と思い込み「私」を基礎づけること。(b)(2度目)エディプスにおいて、おのれの無力と無能を、「父」の威嚇的介入の結果であるとして「説明」すること。(195頁)
M-2 精神分析の治療は、(b)エディプスの通過に失敗した非分析者を対象とする。Cf. (a)鏡像段階を通過できない者は、「私」が存在しないので、そもそも精神分析に、たどり着かない。(195頁)
M-3 精神分析は、分析家を「父」と同定し、「自分についての物語」を「父」と共有し、「父」に承認してもらうプロセスである。(195頁)

N 精神分析で重要なのは、分析家における、被分析者の言説の「理解」でなく、「返事」である。(196頁)
N-2 精神分析では、ことばの贈与と嘉納が重要で、「内容はとりあえずどうでもよい」。「ことばそれ自体」に価値がある。ことばの贈与と返礼の往還の運動を、くりかえすことが重要。(196頁)
N-3 精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではない。「治る」ことが目的。「治る」とは、コミュニケーションの不調に陥っている非分析者を、再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせることである。(196頁)
N-4 かくて精神分析で「治る」とは、停滞しているコミュニケ―ションを、「物語を共有すること」によって再起動させることである。これは他者との人間的「共生」において、常に採用している戦略でもある(197-8頁)
N-5 コミュニケーションとは、「他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往復運動」のことである。

《評者の感想》
① 一般に、コミュニケーションにおいて、内容が「どうでもよい」ということは、ありえない。パスポートの内容、身分証明書の内容、預金通帳の金額、契約書の内容、法律の内容等々が、「どうでもよい」ことは、全くありえない!
② 著者は、コミュニケーションを肯定的にとらえているが、コミュニケーションは、殺戮に終わることもある。戦争も、人と人との関係だからコミュニケーションである。この場合には、「贈与と返礼」の概念を使うなら、殺すことは「負の贈与」である、報復は「負の返礼」である。
③コミュニケーションについて、「贈与と返礼」と、特別に名付ける意味はどこにあるのか?「相互作用」一般とどこが違うのか?
④「贈与」の概念の重要な点は、贈与されたものが「退蔵」されてはならず、第3者にさらに贈与されねばならないことである。かくて社会の富の平準化が達成される。
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