霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

小企業の廃業問題を考える

2006-10-27 21:11:23 | 経営/法律
 中小企業の間において、今だ景況感の回復感はないがまま推移していますが。最近は衰退しながら廃業する企業が目に付いています。開業率よりも廃業率が高いところに日本経済全体での景気回復感がないことのひとつといえましょう。

 というのも日本の企業数の99パーセントは中小企業企業が占めている。従業者の70パーセントは中小企業が占める。国民消費の60パーセントは中小企業が占めているのである。それだけ日本経済に大きく関与している中小企業の廃業は年々増加傾向にあるのである。

 廃業予定企業を活かす方法としてM&Aによる企業売買の方法もあるが、小企業の経営資産3000万円前後であればM&Aの手数料のうまみもなく誰もやりたがらないのである。

 また工場土地は経営者個人所有のため買い取ることが必要な場合も出てくるが買い取り資金も膨大でなかなか承継も難しい。

 手っ取り早いのは取引先関係の財産を評価して売買していくことが簡単である。同業者への譲渡や、従業員への譲渡、新規開業者への譲渡などいろいろ可能性は出てくるのである。

 できれば廃業による経営資源の喪失よりもその資源を活かしながら経済を活性化するほうが無駄がなく効率的であるといえよう。

 いったん廃業するとまた新規開業者がマーケッテイング活動を起こしながら相手のニーズを確認しながら新規に顧客を開拓していく努力が必要である。手間ひま金を賭けて取引先を開拓することになる。

 しかし既存の取引先、取引ネットワークを受けつくことで、技術ノウハウ、販売ノウハウ、サービスノウハウなども円滑に引継ぎスムースに経営活動ができると思える。M&Aも出来ればよいが、経営資産価値が1億円以下の小企業においては、既存の取引先ネットワークを有償で売買するほうが適合している可能性が大であろう。廃業先企業が増えていく中で効率よく経済活動の承継を望むものである。

厳島神社

2006-10-27 14:13:41 | 歴史/古文書
この神社は幕末の頃まではいまの県庁のあたりに安置してあった。

 文久3年に藩主毛利敬親が湯田へ療養に来てからこの地にとどまり藩庁を山口に移転した。山口で藩庁築城の為、この厳島神社は応永13年(1406)大内盛見が安芸の宮島から勧請して以来この地にあったが元治元年(1864)いまの宮島町に移設された。

 この中の多宝塔は創建当時のものが納められていて市の文化財に指定されている。

参考資料 観光案内板

鳳陽の墓

2006-10-24 14:12:35 | 歴史/古文書
 この墓は乗福寺の墓地の入口にある。特別の計らいで入口に移されたらしい。上田鳳陽は幕末に塾を開設しそれが後に山口明倫館となった。

 後の山口中学。山口高校と、学都山口の開祖の人である。

 左の墓は高弟服部東陽の墓である

農学校跡の碑

2006-10-23 10:31:33 | 歴史/古文書
 この石碑は元興隆寺の釈迦堂があったあたりにある。多分釈迦堂(興隆寺本堂)がいまの龍福寺に明治16年に移設されてここが空き地となったので、農学校が作られたと思われる。

 今は10数個の住宅が立ち並んでいて昔日の面影は見られない。まして興隆寺本堂があったなどもわからなくなっている。

 明治23年11月から明治43年7月まで開校されていた。山口農学校、山口県農学校、山口県立農学校と変遷している。

 この後は山口市中央一丁目の山口市民会館のところに移っていて、今は山口市平川吉田にある山口大学農学部に吸収されている。

180507

御堀神社

2006-10-22 14:11:26 | 歴史/古文書
 もともと御堀村には、八幡宮、厳島大明神、大歳大明神があって寛文9年(1669)大火があって、この三社が合祀された。

 明治42年には近郷の三社をさらに合併している。興隆寺の一部氷上山山王社も一緒になっていて、その手水鉢が神社手前に置かれている。

参考資料 観光案内板

180514

姫山登山口

2006-10-21 10:16:17 | 歴史/古文書
 ここは姫山に登る入り口に当たる。なぜか鳥居がある。不思議に思い途中まで登ってみたがよくわからない。

 しかし問田川が真下に見えるなど砦や山城としてはよいところであると感心した。

 問田川、仁保川、椹野川と姫山は三方を川に囲まれ天然の要害であることがよくわかった。大内時代はここには山城があり、毛利元就の攻撃を守っていたところでもある。

 姫山伝説として、往昔、殿様が地元の美しい娘を屋敷に連れてきて無体のことをしたが、その娘は拒み続けたためこの山の井戸につるし蛇攻めにして殺されたという。其のとき娘はこの山から見えるところには美しい女子を産まさないようにと叫んで死んだそうだ。

 山口に美人がいないのは、毛利氏が萩に城ができるまで毛利輝元が1年間居住していたから其のとき萩城の御殿女中要員等として若くて美人な娘たちを連れて行ったのではなかろうか?

 それはないだろうといいたいが、「山口男に萩女」といわれるぐらいだからまるっきりうそではないかも?

 しかし姫山伝説は、必ずしも美人だから幸せになるということではなく心美人が一番いいですといっているようでもあります。

180507

問田武家屋敷跡

2006-10-19 08:31:47 | 歴史/古文書
 この通り道は昔の武家屋敷があったところで、昔は道幅も今より広く松並木もあったといわれている。田町と呼ばれていた。江戸時代は毛利氏の永代家老職にあった益田氏の受領地であった。

 益田氏はもともと大内氏の臣下で島根県益田市に本拠地を構えていた、益田氏と陶氏は親族の間柄であった。

 陶氏と吉見氏との争いのときも益田氏は陶氏に援軍を送るなど大内氏の元で働いていたが、大内義長が自刃した後は身内を裏切ってうまく毛利元就の側に入り込み、豊臣政権下で、よく毛利氏のために働いた特に萩城普請の時は身を粉にして働き、輝元に可愛がられ永代家老にまでなった。

 いまはそのかげりは薄く、塀はブロック作りや家屋は合板葺きとかモダンな建物に変わってきている。唯一通りが直線であることが昔日を感じさせる。

180507

観光説明板を参考にする

乗福寺

2006-10-18 14:10:21 | 歴史/古文書
 この寺は大内氏22代・大内重弘が開基となって創建された。始祖琳聖太子の墓、いわゆる供養等がある5輪の石塔である。当時の大内氏の氏寺であった。いまはその当時の荘厳さや華麗な色合いも見られず伽藍も減って門や塀も崩れている。何か廃寺に近づいた感じで観光地ともいえない。モット住民の力添えが必要であろう。

 元応2年(1320)大内重弘がこの寺に葬られている。延元元年(1336)北朝の勅願寺に指定されている。貞和元年(1345)足利尊氏が諸国に安国寺・利生塔を定めたとき当寺を以って周防国のそれに当たらせたといわれていいる。

 その後大火で焼失しさびれたが、大内義隆が再建している。寺伝では塔頭26、末寺88カ所もあったというが、面影はない。大内滅亡後、毛利輝元は財政破綻したのでこの寺を博多の崇福寺に売却した。いまは塔頭であった正寿院が本堂に座っています。

 幕末坂本竜馬が長州藩士と薩長連合の相談をした場所としても名をとどめているのである。これは知らなかった。

同寺の観光案内板を参照

180514

大内義興の墓

2006-10-17 18:09:11 | 歴史/古文書
 凌雲寺惣門跡の大地の西北隅に義興と夫人の墓・開山塔と伝えられる三基の宝きょう印塔がある。

 義興は享禄元年(1528)12月20日に病没している。

 法名は「凌雲寺殿傑嫂義秀大禅定門神儀」、位牌と念持仏「毘沙門天」は吉敷の玄斉寺の祀られている。

 今は風雪の為印搭の文字やマークなど判別ができない。が立派な宝きょう印搭であった。

181009

参考文献 説明板と大内文化探訪会編「大内文化探訪」