霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

おじの愛犬

2007-09-30 19:54:48 | 随想
 いつもガルテンに来ます。特に土曜日と日曜日は必ず。来ます。又私たちに会いに来るのです。いつもビスケットをやると喜んでいました。ビスケットおじさんといわれていますが。最近は犬のからだによくないというので与えていません。

 この犬はイングランドが原産国ということで、小鳥を飛び立たせて猟師が鉄砲で撃つという役割をしていた、なかなか鼻の利く犬ですし猟犬として昔は使われていたそうです。

 今は愛玩犬で人になつっこいですし、吠えませんので番犬には不向きのようである。

クラインガルテン記13

2007-09-29 19:42:59 | 園芸
 今日は週末園芸と、リフレッシュも兼ねてガルテンに行きました。特にこれをしなければということはなかったのですが。気の向くままに作業をしました。

 物置を新しく設置する場所の整理とか、畑の草取り、果樹の消毒など重点的に行いました。昼食は取れたての野菜の煮物ですが新鮮でおいしかったです。まさに地産地消を地でやっています。いや自給自足ですね。

 農園は今コスモスが満開できれいです。最高の花日和でした。

 京かぼちゃが取れたり、季節外れの味ウリが取れたり、夏目やイチジクを採ったり、紫蘇の実を取ったりと一日を労働で過ごしました。

長州藩主毛利家墓所

2007-09-28 20:55:24 | 歴史/古文書
 この墓所は第13代毛利家藩主毛利敬親公が文久3年(1863)に居城を萩から山口の移し山口城としたものである。

 それに従いこの山口城から約1キロ離れた香山に墓所を築いたのである。萩の毛利家墓所は五輪等・笠塔婆形なのに対しここの墓地は土饅頭の前に石の墓碑を立てたものである。敬親夫妻と子・孫の三代の夫婦の墓を含め7基が置かれている。

 規模の大きさ荘厳さから近代墓所の代表的なものといわれている。

 その荘厳さを彩る1つに墓所に至る石畳は手を叩くか足で強く足踏みをすると「ピュンピュン・ビヨンビヨン」と音がなるのである。通称鴬張りといっている。

 前方の石段や石垣に反響してなる音であるらしいがその音がまた趣があっていいのである。

布教した場所

2007-09-27 11:06:01 | 歴史/古文書
 サビエルが布教した場所は分かりにくく公道よりすこし奥に入ったところです、約4mぐらい入っていますし、古井戸は見えません、今は家の中に組み込まれて壁が出ているところに井戸があるとのことです。

 古井戸は、大内館のメインどうりである大殿大路にある。大内館衛門跡から100m西よりの竪小路に近いところの大路に面している。

 目に付きにくいのである家の中に組み込まれていて普通分からないがいわれてみればそうかなと思えるのです。

 この古井戸はなんの変哲もないのであるが実は今から456年前、天文20年(1551)4月2度目に山口へやってきたフランシスコ・サビエルが井戸の前で布教した跡である。この絵がスペインのハビエル城内展示物として「井戸の傍らで布教するサビエル」という題名で現存展示されているのです。

 大内義隆の布教の許可を得たので大内館前というメインストリートでこのような布教ができたのであろう。

 また滞在5ヶ月足らずで約500人の信者を獲得できたのはフェルナンデスという日本語のできる修道士が片腕となって働いたこともある。一方大内義隆には、13種の珍しい品物を献上している。オルゴール、時計、老眼鏡、望遠鏡、鏡などである。大内義隆は前年は献上品1つなく布教を断ったが今回は上機嫌で許可している。

 人を動かすには利益や喜びを与えていくことも重要ということであろう。

長州ファイブ

2007-09-26 09:44:50 | 歴史/古文書
 長州ファイブとはイギリスで呼ばれている人々のことである。日本人で最初にイギリスに密航留学した人々のことで、井上馨(28歳)、伊藤博文(22歳)、野村弥吉(20歳)、遠藤謹助(27歳)、山尾庸三(26歳)の5人の若者である。若い日本人が西洋文明の吸収して持ち帰り日本の役に立ちたいという高い志をもって4ヶ月の苦難の渡航をしたのである。死んでもかまわないという気概を持って密航しており若さと心意気が同感できるのである。

 長州藩からは3人の留学は認めていて、一人200両の留学資金は援助してもらっていたが、伊藤と遠藤が加わり5人となった。しかし渡航費用は一人1000両必要と仲介業者のマセソン商会は言うので大村益次郎が御用商人から5000両を工面している。借りているが返したか同感の記録は見えないとのこと。
 

 今でいえば一両が10万円とすれば一人1000万円である。これは相当高額の渡航費用である。しかし山尾・野村は5年も留学していたので元は取れているかもしれないが井上、伊藤は半年で日本に戻ってきており採算はペイしていないかもしれない。

 横浜の出港日も二つあってどれが正当かよく分からない。5月12日説や5月8日説などがある。がそれはどうでもよいことでこの5人が「生きたる器械」となって本当に帰国後近代日本の礎を築き国のために役に立ったのである。志と実践力にすごさに敬服するしだいである。

 

雲谷庵内部

2007-09-25 18:43:34 | 歴史/古文書
 雪舟がいつからこの庵に居住しいつどこで亡くなったかということはよく分からないのであるが、寛正5年(1464)の山口に来て雲谷と呼ばれており、そのころから雲谷庵があったのか定かでない、明国から帰国してしばらくは大分の府中に居住していてそこが騒乱となり文明8年(1476)6月に大分を去って再度山口に来ているそのころ雲谷庵はできたのではないか。

 文明12年(1480)61歳の時は山口にいたのである。その後美濃、京都に行くなど東遊している、文明16年(1484)には山口に帰る。

 支援者大内政弘明応4年(1495)8月に亡くなる。

 支援の第一人者政弘がなくなってから7年後か11年後に雪舟はなくなっている。

 文亀2年(1502)雪舟益田の東光寺(大喜庵)出なくなる山県周南説。永正3年(1506) 数え年、87歳で山口雲谷庵でなくなる。

雪舟の絵

2007-09-24 18:38:11 | 歴史/古文書
 雪舟の絵をよく見てみると縦線があったり横線は水平を保った線が幾重にもある。当時は明の国にあこがれて明風の山や山河の絵を描いていたのが普通であるしまた喜ばれたらしい。したがって桂林のような山並みが描かれた水墨画が多いのであるが、雪舟の水墨画は少し違っている。

 縦に太い線や横にも太い線、力強い線とでも言い換えられるが。異質な線が絵の中に走っているのである。これがまた絵の構成上必要不可欠に見えるのである。縦に太い線があるのが見ていても違和感を感じないのである。

 雪舟は禅僧である。色即是空、空即是色(形あるものも空、形のないものも空)存在するものも空、そうでないものも空といって超宇宙的なことを仏教・禅宗はいっている。執着や煩悩、形あるものにとらわれるな!!。。。

 それが水墨画に反映されているのではないかと思えるのである。日本の風景を描いているけれど自分で主体的に想像した絵で構図を自己の個性を出しながら構成しているといえよう。

 ピカソほど構図的ではないが縦線横線など考えられないところに線を引いて水墨画全体を引き締めらせているのである。そう言った主体性を出した自由な水墨画の作風を雪舟は禅の教えから編み出したというか自然にそうなったといえるのではないか。

 雪舟を身近に感じて雪舟が16m山水長巻図を描いた雲谷庵を訪ねてみました。小さい路地を山にむかっれ50m歩くとそこには小さな庵があります。

 この雲谷庵は郷土史家近藤清石氏の調査により明治37年に復元されたものです。
 

 日当たりのよい小高いところで大内義弘の菩提を弔った五重塔がよく見えるところです。大内氏の支援や友人の支援を受けて67歳のときにこの16mの長巻図を作ったエネルギーに驚くとともにまだまだ若輩で力不足を感じているところです。

地方の環境ビジネス

2007-09-23 19:40:06 | 経営/法律
 環境省の発表によれば環境ビジネスの未来は2010年は58.3兆円と需要が伸びていく予想をだしている。2000年では29.9兆円であるから10年で倍増する予測である。

 地球の温暖化、京都議定書等の制約の中で各国が二酸化炭素の排出規制などをしているが地方でのそんな声はあまり聞こえない。

 小企業の皆さんは今をいかに生きるかで余裕がないのかあるのかよく分からないが、それともそういったリサイクル活動の意識が市民ともども向いていかないのか、政府の方針が普及しないのか、いろいろあるのであろう。

 しかし、リサイクルでは建築用材の有害物質を含んでいるか簡単に検査できる器械の発明とか、環境面では家庭用風力発電の開発、飲食店向けの排水処理施設、エアコンの周りの汚れを減少させるパネルの開発など小さな顧客のニーズに応え頑張っている中小企業の方々もおられる。

 昨日のテレビでも北極圏の氷河が温暖化のよって白熊が10年後にはすめなくなるといっていたが、地球温暖化を防ぐため個人としては潜在需要のある環境ビジネスに少しでも応援したいものである。


船山八幡宮

2007-09-21 11:55:53 | 歴史/古文書
 当初は平子重経(ひらこしげつね)が源久寺の境内に建久9年(1198)鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりである。貞和3年(1347)にこの地に移されたと伝えられている。

 古社ではあるが今は瓦葺きで建て替えられ新しくむかしの面影は少ない。仁保氏の氏神であったがその後村人の崇高も厚く今日まで残っている。

 庭園の池や石橋などが残っており盛時は格式も高かったと思えます。

船山八幡宮イチイガシの木

2007-09-21 11:43:21 | 歴史/古文書
 この八幡宮の裏山に自生している。幹周りは4.35m、高さは18m、根回り5.5mと市内では最大級である。

 県内でも有数の大きさといわれている。説明版では、明治初期の裏山の木を売り払う時、村の有志3~4人がお金を出し合って買い取り売り払いを防いだとのこと。この木が切られるのを守ったというのである。

 このどんぐりはむかしから食されており、古墳などからも出土するとのこと。

 推定樹齢は300~400年といわれているそうです。

 市指定天然記念物