霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

中世の本陣

2007-03-31 17:55:58 | 随想
 今日も昼休みに「風林火山」のパネル展をみに行った。中世の本陣は普通はお寺であった。4回目の川中島の合戦のように平原でやるときは見晴らしのよいところに本陣を幕で張り目ぐらし戦場を見渡しながら指揮や戦略を練るという。そういった模型が飾られていた。そのほか武田家の家宝の鎧の写真や山本勘助像、武田信玄像の写真がパネルで飾られている。

中世の衣装

2007-03-30 19:12:25 | 随想
 今日は昼休みにNHK放送局に行ったところ大河ドラマ「風林火山」のパネル展が開かれていた。

 そこには当時の衣装が陳列されていて天正小袖、天正袴、などが展示されていた特に由布姫の桜柄模様内掛けは赤に金糸と色糸を持ちいて刺繍がたくさんあって手の込んだ打掛である。

 三条夫人の打掛は黄色の生地にこれまた金糸や色糸での刺繍があってその刺繍も小柄だけど数が多く手の込んだ菊柄模様打掛であった。

 その他本陣の模型や。俳優のサインが20人分ぐらい展示してある。気に入りのスターがいれば一度足を運んでみたらいかがでしょう。

大内政弘世という人物

2007-03-29 17:07:34 | 歴史/古文書
 この人は大内義隆のように巷間知られていないが、中世・15世紀の歴史上の人物としては有名な人である。応仁・文明の乱の中心人物でもある。

 京都に約10年も過ごし。応仁の乱では西幕府のリーダーであった。足利幕府の将軍・細川側を官軍といえば山名氏側は賊軍となる。将軍・細川側を東幕府・東軍といえば山名氏側は西幕府・西軍となる。

 いずれにしても幕府が二つに割れて争ったのが応仁の乱の始まりでその西幕府・西軍の中心人物が大内政弘なのである。

 なぜ大内政弘(1446~95)は山名氏に着いたかといえば彼の妻が山名氏の出であるからである。それと瀬戸内海の海上権を守るためにも西幕府・西軍につかなければならなかった理由があったのである。

 応仁の乱は結果として大内政弘らが和睦を入れ賊軍という形になり政弘は山口に帰り中国の一部、防長、北九州の大内家の版図を安堵してもらったのである。

 この人物のすごいところは、当時の世相では総領権が子供同士で争われていて強い子供が親の権力を踏襲するといった争いがあったのである。大内道頓の乱など総領権の争いと東幕府が認めた大内家の総領としての主張でもあったといえよう。 

 また在京10年と永きにわたり京の公家・僧侶(禅僧)・学者とも交流をしていた、そこでの文人振りは和歌や連歌を数多く作り、生涯において幾万首も作ったといわれているのである。「拾塵和歌集」、宗祇に作らせた「新撰筑波集」、雪舟を支援して山口に通算30年ぐらい住まわせ数々の大作(山寺図(伊自良村)、天の橋立図、四季山水図)を作る環境を与えている。武家文人の最たる人であろう。

 弓や槍、武術に長けかつ文学の素養も高くなければ権力者になれないのであろう、それに応える能力を持っていた人物として傑出しているのではないかと思える。

ユスラウメの開花

2007-03-27 19:08:41 | 園芸
 今年も3月25日に農園に行くとユスラウメの開花が発見されました6月には赤い実がたくさんついてくれればと淡い期待をしています。

 サクラ科の木でウメとは違う種なので、ウメのように切ればいいというわけでもなく、灰色カビ病の予防も必要かと思います。10日ぐらい前に一度していますから近くまたする必要があると思います。

 義兄が休憩所の窓ガラス10枚全部に透明ビニールを貼ってくれた。今日も来て残っていた4枚を貼って帰っていった。

 台風でガラスが割れると困ると思い貼ってくれたのであろう感謝します。

 070325

中原中也とダダイズム

2007-03-25 12:46:12 | 人生・文学
 今日は小雨が降るので散歩がてらに中原中也記念館に行ってみました。

 今年の4月29日が中也生誕100年ということで4月のはじめから生誕百年祭が始まります。佳境は28日の前夜祭から5月6日目まで毎日ゲストを呼んでコンサートとサーカス小屋を作りサーカス団によるさまざまな芸があります。

 今日の記念館は中也が17歳のころダダイズムにのめり込み99ページの習作を大学ノートに書いているのである。このダダイズムというのは第一次大戦後起こった運動で第一次大戦は科学的・機械的兵器を使用し900万人が死んだという背景に厭世気分も入ってどうやら今ある社会をゼロにする、解体する運動であったといえよう。ダダイズムの詩を作りたければ新聞をカッターで切り刻み組み合わせれば出来上がると書いてあった。無意味がいいのである。

 中也はその後ダダイズムから離れフランス文学に傾注しフランス文学を数多く翻訳している。次第に「ランボー」を中心に象徴主義の影響を受けた詩が発表されたと思います。

 中也の詩の語彙にも研ぎ澄まされた言葉が使われているのがわかる詩や、やや難解な詩が多いのもその影響だといえましょう。やや硬派の抒情詩人といえるのではと思います。

 わたしの好きな詩は「汚れちまった悲しみに」「サーカス」「冬の長門峡」「帰郷」がお気に入りです。       

博物館の歴史を考える

2007-03-24 18:59:39 | 歴史/古文書
 博物館の学芸員の人を呼び、博物館についての学習会を行った。

 博物館といえば昭和26年に施行された博物館法により行政的に定められたものでそこから博物館は始まるという考えもないことはないが、古くは正倉院、お寺の宝物館も一定の種類のものを保管し見せるということでは古くからあったものでひとつの博物館といえるとのこと。

 江戸期には見世物小屋といって特殊なものを見せる仕組みもできている、博物館の特別展の走りであろう。また物産会(ぶっさんえ)なども各地の産物を紹介・販売しているものもありこれらも博物館の一種といえる。

 明治に初期には札幌や函館の開拓による北海道の生物や産物の保存を目的にした館がある。明治中期には全国各地に物産陳列所などができた。実業の推奨が主目的のようである。山口県は明治15年山口県物産陳列所ができている。これらも博物館の一種と見られている。

 本来の博物館というか博物館の定義が難しいが幅広いものといえよう。

 博物館らしきものといえば山口県では明治41年(1912)防長教育博物館が大殿小学校の旧校舎に開設し大正6年(1917)の県立に移管し現在の春日山のふもとに移ったのが「博物館」という名の始まりであるし「博物館」という言葉をはじめて山口県で公的に用いたことになろう。

 教育博物館というだけあって、維新資料の収集と学校教育参考品、教育図書、家庭教育参考品、青年教育参考品、実業教育参考品、軍事教育参考品などが中心を占めていた。

 昭和20年4月から収集品の疎開を始めたがいくつかは行方不明や廃棄、損傷などがあった、昭和20年8月末か9月末には軍事教育参考品は廃棄される。戦後は科学教育研究所とか科学博物館という名に変えて疎開先の収集品の回収に努力していた、昭和25年に現在の山口県博物館と名称を変えて今日まで存続できたのである。今年がちょうど博物館創設95年の歴史の節目にあたる年といえる。

 県民としては安い入館料で質の高い真物が見られる真物を見るすごさ、かもしだす勢いを感じられることは非常にありがたいと思っている。とともに子孫に真性なものを残していけることは大事でありわれわれの役目といえよう。

 また財政不足が続く中での資料収集が今後も続くとなれば寄付活動の推進か、特別展示による有料化で一定の収益を出していくか今後の活動のあり方を考える必要があろう。

ツブラジイ

2007-03-22 19:55:45 | 園芸
 今日はお彼岸の中日です。農園でアンデスのジャガイモを植え、ウドの木を植えて昼食をとっているところに義兄が来たのである。

 食後団欒をしてその後お墓参りにみんなで行った。小高い山の中腹にあるお墓には登る途中に椎の木がたくさんあり椎の実がまだ落ちていました。拾いながら登りお線香を焚いて墓参りをしました。

 椎の実であるツブラジイの実生がたくさん登り道に芽生えているのでその苗をとりこの農園に植えてみました。将来ツブラジイの実をつけてくれるかもしれません。楽しみとしておいておきます。

190321

インキュベーション

2007-03-21 09:05:42 | 経営/法律
 インキュベーションというと一般的には新規創業支援や育成を行う事と解しているのである。ビジネスインキュベーションということはそれらを指導育成する施設ということでインキュベータ(卵の孵化器)といわれている。

 そもそもビジネスインキュベーションはアメリカで失業対策に生まれたもので今から48年前のことである。1959年アメリカの片田舎で失業対策のため長屋のような建物を区割りして失業者に安い家賃で貸していたがその中の一人が養鶏を始めたくさんの鶏が孵化していったので冗談でインキュベータと呼ばれるようになったのが始まりといわれている。

 日本ではバブル崩壊ご事業所数の減少が目立ち新規開業を政策的に育成していかなくてはと一斉に全国的にビジネスインキュベーション活動が広まっている。各県に必ずインキュベータができている状況である。

 最近はビジネスインキュベーション・マネジャーという人々が各施設に配置されてより充実したものとなっている。

 昔から創業支援は、のれんわけとか、地元の分限者の支援とか、戦後は国民金融公庫の新規開業資金貸付とか、民間銀行等の手で新規創業をバックアップしてきたわけである。もっとも地域の商工会や会議所も同様であるが。しかし高度成長期はそれですんだわけであるが、今日の国際化とマーケットの競業の激しさ、市場の細分化など、難しい局面での創業である。

 いかに市場分析するか、いかに売れる仕組みを作るか、いかに資金手当てをするか、人事面、労務面、製造工程管理、在庫管理、仕入れ管理など事細かに経営者は目配りをしながら起業をしていくわけである。

 創業時のストレスや悩みは計り知れないほど多いことであろう。そういった相談事や悩みを話し合える場がインキュベータでもあろうし、そうあってほしい。

 今後の日本経済を発展させるためにもこの活動は重要といえるのではないか。また国際化時代に発展途上国が追い上げてくる時代に新しい事業の芽を育てていくことは重要といえましょう。

桜陰館

2007-03-19 20:24:10 | 歴史/古文書
 この古い民家は幕末に活躍した岡熊臣の住宅である。文化12年(1815)にここで私塾をはじめ「桜陰館」と名づけて地方の教育の場としていたのである、傍ら宮司の仕事や著作を行い、天保2年(1849)には津和野藩主から焦がれ藩校初代国学教師となっている。