霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

サビエルの手紙

2007-02-27 21:41:23 | 歴史/古文書
 フランシスコ・サビエルが1549年8月15日鹿児島に上陸し日本に布教の許可を求めて平戸、山口、堺、京と上って行き1551年1月に京に行くも応仁の乱で京都は混乱し幕府からの許可は得られずわずか10日間で京を去ってしまった。

 一端平戸まで退却したのである。再度の布教許可はその当時都に次ぐ第二の都市であった山口に出かけ当時の支配者・守護大名大内義隆の布教許可を2度目には得ることができた。1551年4月から4ヶ月の間で約500人の信者が得られたのである。しかし9月初旬には大友宗麟に呼ばれ山口を去る。
 1551年11月に日本を去り12月に中国上川島(サンチャン)で病死。前向きな生き方に感動する。

 サビエル記念聖堂には1548年1月にポルトガルの国王宛にサビエルが書いた直筆の手紙が見られる。さすが国王宛に書かれたもので文字が漢字にたとえれば楷書のようにわかりやすく書かれている。文字も丁寧に書かれまじめで聡明な感じのする書体である。横書きで罫線はないので行間の間隔は少しは乱れが見えるが、手書きにしては乱れも少なく慎重にかかれたものといえよう。

日よけテント

2007-02-26 19:47:07 | 園芸
 一昨日から農園の休憩所の日よけテントを設置したのである。昨日はスチールにサビ止めをするといって再度テントの柱を土中から取り出し、スチールを水洗いして防錆塗料を塗ったのである。

 それも二度塗りをして今日は乾かし明日もう一度銀色の塗料(熱を反射して鉄に熱のこもるのを防ぐ)を塗って土中に収めて日よけテントとなるらしい。そこまで手の込んだことをしなくてもいいと思うのであるが人それぞれでの考え方があり、悪くなることでもないのでなすがままそのまんまにしています。

白梅

2007-02-25 19:42:42 | 園芸
 わが農園にようやく春が訪れました。ほのかに甘い香りをただよわせて白梅が満開となりなした。今日はロッカーの据え付けと畑の掘り起こし、藪日の整理など一日があっというまに過ぎてしまった。

 帰りには農園用の冷蔵庫135リットルの小さなものであるが3万円で購入し、これから暑いときを迎えても冷たいものが食せるよう準備万端のことをしたのです。さてそんなに農園を続けることができるのかな???。あまり単純なことは飽きるかもしれないのである???

消費者金融の貸付率下がる

2007-02-22 19:58:51 | 経済
 2月6日の新聞報道では大手消費者金融の貸付率が06年4月では平均60パーセントであったのが06年12月では平均44パーセントと約16パーセント低下し申込者の約半分は断られているとのことである。

 09年末にも上限金利が29.2パーセントから15-20パーセントの下がるため顧客の選別融資が強くなっているのである。

 多重債務者は今後融資を受けられなくなり行き詰まりが生じる可能性があり。公的融資に任せるも、生活保護の拡充で対応するにも税金を多重債務者に投入することも必要になりそうだという意見もある。

 しかし「貸すも親切。断るも親切」ということわざもあるように貸さなければ貸さないなりの生活をするのであり貸すから贅沢な生活をするのであり貸さなければそれなりに質素な生活をするのである。であるから消費者金融のこの選別融資は一般庶民の生活を健全化するためにも歓迎視されるべきものといえよう。

 今までの多重債務者に対しては貸し手責任としてリスクを負っていただくしかないのではないか今まで高収益を上げてきたのであるからやむをえないと思う。

070207

鬼瓦

2007-02-20 19:30:11 | 歴史/古文書
 洞春寺本堂の屋根に使用されていたもの。洞春寺は毛利元就の菩提寺で、初めは吉田の郡山にあった。後に広島城の近くへ、関が原の合戦による敗者としての削封で山口へ、萩に城ができると萩に移された。その後幕末に山口に藩庁が移されたので洞春寺も藩庁近くに移された。これは山口の洞春寺の鬼瓦で近年屋根の瓦が取り替えられてそのひとつが市立歴史資料館におかれている。一に星三つの大きな鬼瓦である。

蝋梅(ろうばい)

2007-02-18 20:33:27 | 園芸
 最近、年のせいか狼狽することが多くなり、この写真は何の花かと思い出せず他人に聞いたら「ろうばい」といわれひやりと脂汗をかくのである。

 蝋梅はこの極寒の季節に蜜蝋のような黄色い花を咲かせ甘い香りをかもし出すのである。花の少ない寒い季節に花を咲かせてくれる奇特な花である。

 また甘い香りが漂って始めて花が咲いたことを教えてくれるひっそりとした花の成り立ちがいかにもわびしさを感じさせると茶花としても重用されています。

 わが農園には似つかわしくありませんが、わが生き方としてはひっそりとしたわびしさがある生き方にはある種の共感がもてます。

070209
 

仮御手鑑

2007-02-16 17:23:10 | 随想
「山口お宝展」協賛特別展示として県立図書館で挙行されている。
展示品は仮御手鑑入記御根帳・安永2(1773)年巳12月の本や新撰つくば集、宗祇著 寛保3年(1743)などが陳列されている。

 仮御手鑑(かりおてかがみ)という聞きなれないものは何かというといわゆる毛筆のお手本本というものである。歌書、物語、漢籍、経本など優れた筆跡を鑑賞することで、切り取った断簡を集めて古筆切りを台帳に貼りこんだものをいう。

 現在では有名な小説や源氏物語の古典の一部をなぞり書きとか塗り絵とかがはやっていますが、いつの時代も同じようなことがあるのですね。  

 安土桃山時代に長崎で出版された「和蘭辞典」に手鑑のことがのっておりその当時はあったのでである。江戸時代には流行し嫁入り道具の一つにもなっていたそうである。

 今県立図書館2階で開催中です一度お運びされると面白いです。
 








吉見氏の入部

2007-02-15 20:58:35 | 歴史/古文書
 弘安の元寇の役のあと能登から吉見頼行一族がこの津和野町木部という片田舎に入部してきたのである。

 本当に山道をいろは坂のようにのぼり西中国山地の山間の小さな集落に出会うところである。

 その当時すでに開けたところには先人が住んでおり外から来た人はそういった山間地の人の住んでいないところを開墾開拓していったのであろう。

 弘安5年(1282)に入植したのであるが一族36人といわれている(江戸時代中ごろに書かれた岡治静覚書より)。
 
 元寇は文永12年(1274)と弘安4年(1281)と二度の襲来があったが二度目も大風雨のため多くの元の船は沈没し退散してしまった。

 伝え聞く沿岸警備に西下したとは遅きに失することである。本当の西下の動機は何であったのであろうか?

 木曾野周辺で吉見屋敷跡、吉見池、吉見氏墓所などを探したがどこにあるかわからずやむを得ず退散した。