フランシスコ・サビエルが1549年8月15日鹿児島に上陸し日本に布教の許可を求めて平戸、山口、堺、京と上って行き1551年1月に京に行くも応仁の乱で京都は混乱し幕府からの許可は得られずわずか10日間で京を去ってしまった。
一端平戸まで退却したのである。再度の布教許可はその当時都に次ぐ第二の都市であった山口に出かけ当時の支配者・守護大名大内義隆の布教許可を2度目には得ることができた。1551年4月から4ヶ月の間で約500人の信者が得られたのである。しかし9月初旬には大友宗麟に呼ばれ山口を去る。
1551年11月に日本を去り12月に中国上川島(サンチャン)で病死。前向きな生き方に感動する。
サビエル記念聖堂には1548年1月にポルトガルの国王宛にサビエルが書いた直筆の手紙が見られる。さすが国王宛に書かれたもので文字が漢字にたとえれば楷書のようにわかりやすく書かれている。文字も丁寧に書かれまじめで聡明な感じのする書体である。横書きで罫線はないので行間の間隔は少しは乱れが見えるが、手書きにしては乱れも少なく慎重にかかれたものといえよう。
一端平戸まで退却したのである。再度の布教許可はその当時都に次ぐ第二の都市であった山口に出かけ当時の支配者・守護大名大内義隆の布教許可を2度目には得ることができた。1551年4月から4ヶ月の間で約500人の信者が得られたのである。しかし9月初旬には大友宗麟に呼ばれ山口を去る。
1551年11月に日本を去り12月に中国上川島(サンチャン)で病死。前向きな生き方に感動する。
サビエル記念聖堂には1548年1月にポルトガルの国王宛にサビエルが書いた直筆の手紙が見られる。さすが国王宛に書かれたもので文字が漢字にたとえれば楷書のようにわかりやすく書かれている。文字も丁寧に書かれまじめで聡明な感じのする書体である。横書きで罫線はないので行間の間隔は少しは乱れが見えるが、手書きにしては乱れも少なく慎重にかかれたものといえよう。