霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

歴史地理学会の聴講

2011-06-29 08:16:00 | Weblog


朝10時から正午まで県の旧議会棟でおこなわれた。山口の町並み形成のことである。大内時代は線状町並みが伸びて行ったが、政治都市で経済は博多が中心であった。しかし線状 であっても江戸の幕末の絵図では畑地と町屋が混在していたとのことである。謎めいていますね!!

ポポー

2011-06-27 17:22:14 | Weblog
うれしいです。今年初めて一個、こんなに実が、大きくなった。昨年は花が咲き小さな実は出来たですがみんな落下しこの写真のような大きさは初めてです。上手く収穫季節まで持ってくれればうれしいです。

今津元寇防塁発掘跡

2011-06-10 08:40:40 | 歴史/古文書
文永の役後(1274)7年が経過した弘安4年(1281)モンゴルは再び6月に東路軍の高麗軍1万、蒙漢軍3万が博多湾に現れ7月初旬には江南軍14万、艦船4400隻が伊万里湾に集結し、鷹島を占領した。そのとき上陸した蒙古軍との戦いでこの防塁は役に立ったのです。しかし折りよく暴風雨が到来しモンゴル軍の艦船はその暴風雨で大破し、粗製濫造の艦船であったものと思われます。残ったのは200隻だったそうである。来襲したモンゴル軍は5分の1が逃げ帰ったといわれています。残りは海の藻屑となったのでしょうか?この写真は発掘された防塁の一番東側です。東端から西を写したものです防塁の石組みや高さがわかると思います。このモンゴル襲来は戦で戦った御家人に対する恩賞地がなく、御家人の不満は高まり、北条得宗家は次第に衰退していくことになったのです。

 長門にも北浦海岸には文永12年(1275)蒙古の使者杜世忠ら5人が捕縛され鎌倉の滝の口で処刑された。その従者40人をこの北浦(豊浦室津)で処刑した四十人塚という埋葬の塚が残っている。外にも長門にはモンゴル兵を埋葬した蒙古塚が残っている。

今津元寇房塁跡

2011-06-09 07:47:27 | 歴史/古文書
 元寇防塁では一番西に位置している。今津、今宿、生の松原、蛭浜、博多、箱崎、と6区分に渡り述べ20キロの長さである。石で築造された防塁が今から739年前に造られた。1267年、1269年には60人、1271年には100人の使節を送り通好と友好を求めてきたが柵封となることを嫌い幕府は拒否といううか放置した。ついに文永11年(1274)元軍は高麗で軍船900隻を造船し蒙漢混成軍2万5千と高麗軍8千が壱岐対馬を占領し今津、博多、百道、箱崎に上陸し戦闘となった。モンゴル軍側はドウランの合図による集団戦法、日本は名乗りをあげて一騎ごとに戦う個人戦では勝ち目はなくまた「鉄はう」という手榴弾のようなものも使われ馬は驚嘆しながらの戦で、戦況ははかばかしくなかった。しかし時に強風が吹いてモンゴル軍の軍船は大破し引き上げていったのである。

 翌年鎌倉幕府は九州の9カ国に対し6区分に分割して防塁を築くよう命じ、各御家人が築いたのがこの防塁である。石は近くの山から運んだ角ばったものや近くの海から取った丸い石などさまざまで築造技術も近世の石垣のように精緻なものではないが、しかしよく残って崩れていないのが不思議であった。砂に埋まり守られていたのであろう。高さは高いところで3メートル、底辺幅は3メートル、上部の幅は2メートルの台形の石組みが200メートル発掘されていた。           今津の防塁は大隈国と日向国が築造担当になっていた。

元寇防塁跡

2011-06-08 05:58:25 | 歴史/古文書
            
雨の中今津運動公園にバスを乗り捨て徒歩で1.6キロ歩いてきました。見事に防塁が残っているではありませんか。築いたのが文永の役の翌年ですから1275年です。今から738年前の先人が作った構築物ですが砂に埋まってよく残っていました。

伊都国歴史博物館2

2011-06-07 21:15:09 | 歴史/古文書
この写真は平原歴史公園の案内所の建物らしい。古代の伊都国は大陸から来た人もおり古墳からは中国製の環頭太刀も発掘されていました。また鮮やかな美しい青緑色の約3センチの名が丁字頭勾玉(まがたま)は美しく古代の権力者しかつけなかったものだそうです。古代はガラス玉もものすごく貴重なもので王などごく少数の人しかガラス玉は使っていなかったのです。今ではガラス玉は低級品ですが古代ではものすごく高級品でした。今でも古代を思いながらガラス玉を身につければ皆安くて綺麗な装飾が出来るでしょうね。

 東には吉備真備が築城したと伝えられる怡土城祉が見えました。古代日本と新羅の関係が悪化していた時期、大陸に対しての国防拠点として造られたものである。

 天平勝宝8年(756)唐の留学生として通算19年学んできた吉備真備が太宰大弐として赴任してきたときから着工し都合12年を掛けて築造された。途中から佐伯今毛人(いまえみし)に交代した。今は土塁、望楼跡が残っている。土塁は1.6キロ続いている。深江から志摩との水道を通ってくる敵と日向かい峠を抜ける敵をここで防御しようとした山城であったようだ。