元寇防塁では一番西に位置している。今津、今宿、生の松原、蛭浜、博多、箱崎、と6区分に渡り述べ20キロの長さである。石で築造された防塁が今から739年前に造られた。
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1267年、1269年には60人、1271年には100人の使節を送り通好と友好を求めてきたが柵封となることを嫌い幕府は拒否といううか放置した。ついに文永11年(1274)元軍は高麗で軍船900隻を造船し蒙漢混成軍2万5千と高麗軍8千が壱岐対馬を占領し今津、博多、百道、箱崎に上陸し戦闘となった。モンゴル軍側はドウランの合図による集団戦法、日本は名乗りをあげて一騎ごとに戦う個人戦では勝ち目はなくまた「鉄はう」という手榴弾のようなものも使われ馬は驚嘆しながらの戦で、戦況ははかばかしくなかった。しかし時に強風が吹いてモンゴル軍の軍船は大破し引き上げていったのである。
翌年鎌倉幕府は九州の9カ国に対し6区分に分割して防塁を築くよう命じ、各御家人が築いたのがこの防塁である。石は近くの山から運んだ角ばったものや近くの海から取った丸い石などさまざまで築造技術も近世の石垣のように精緻なものではないが、しかしよく残って崩れていないのが不思議であった。砂に埋まり守られていたのであろう。高さは高いところで3メートル、底辺幅は3メートル、上部の幅は2メートルの台形の石組みが200メートル発掘されていた。
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今津の防塁は大隈国と日向国が築造担当になっていた。