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大内政弘が大内から山口に館を移した時代、京に模した街づくりの一貫として京の泊瀬寺(はせでら)に倣ってこの地の建立したお寺であってその一部が残っている。往時は七堂伽藍も完備し塔頭も七坊あったとつたえられれている。時代は降って永禄12年(1569)大内輝弘の乱でこれらの伽藍は戦火に会い焼失してしまった。仁壁神社なども。本尊はかろうじて残っている。本尊十一面観音で琳聖太子将来仏といわれ、元国宝に指定されていたが今は重文指定である。神福寺抱えの堂のため神福寺が保管している。
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妙喜寺といえば大内政弘が母の菩提寺として建てたお寺であるがそれは今常栄寺とうい寺の代っているのである。明治30年に再興されて宮野の江良というところに妙喜寺があったのである。なかなか門構えの立派なお寺であったが、大内氏とのかかわりは今はないようであるが古は大内氏のかかわりのあったお寺であろう。今は観光客も来ないし一般の参詣のないひっそりとしたお寺であった。
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この地は真如寺という古いお寺のあったところである。大内義隆が陶氏に討たれる前日、天文20年(1551)8月28日、義隆の母東向殿は法泉寺から義隆と別れこの真如寺に遁れ、側室おさいの方は妙喜寺に遁れたのである(今の常栄寺)。東向殿が永禄2年(1559)6月の亡くなられ、その法名を持って真如寺と号すようになったのでお寺自体はそれ以前からあった古いお寺である。
妙喜寺は雪舟の庭で有名なお寺であるが輝元が萩移封となり、輝元の母の菩提寺を妙喜寺にしたため、妙喜寺がなくなり真如寺と一緒になっていたが真如寺が慶長末年に大破し一時古熊の明向庵へ預けられていた。その明向庵を修理して真如寺として続いていたが、幕末には衰退がはなはだしかった。明治30年に大円義雄が真如寺の跡地に妙喜寺の号に復して宗教財団として新しく生まれ変わった。従ってお寺の境内は真如寺であるが号は妙喜寺と二つが一つになっている。
山門の向こうに見える庭は雪舟が真如寺の時代に作庭したといわれている小庭であるがあまり美しいとは気づかず通り過ぎてしまった気候の良いときのもう一度行って見る事にしょう。