徳佐八幡宮の文書を中心に調べ考察してきたのですがそろそろネタが尽きました。もう終わりにしたいと思います。
それはそうと、あるとき見た郷土の歴史研究会の記事では徳佐八幡宮は久守氏12代、久守氏の分家渡邊氏29代といっているが、これは寛元2年(1244)の亀鑑記に記されている系図を見てのことであろう。
亀鑑記で久守氏の名がはじめて見られたのが寿永元年(1182)それから1244年までは62年間であるがその亀鑑記の系図では12代か13代まで書かれている。それをもって郷土の歴史研究会は久守氏12代といっているのかもしれない。
私の調べた結果では、渡邊氏の名が出てくるのは毛利輝元の時代からである。
久守氏は毛利元就が1571年に死して毛利家重臣の吉見正頼が1558年亡くなり、新しく吉見広頼の代になって吉見広頼が久守本家である縦筋目の久守氏を降ろして久守氏の名替え筋である渡邊氏を宮司に任じ替えていると思える。したがって久守氏が1590年ぐらいまで徳佐八幡宮の社司・社役を任じていたのではないかと考えられます。
よって久守氏は1182年~1590年の約408年間宮司などの職にあったといえ約20代~25代、1590年~2000年まで410年余りが渡邊氏29代というのが正しいといえるのであろう。
久守氏が宮司・社司を降りた後も社中のものとして残っており江戸時代の初期まで公文書にその名が残っている。また久守氏を祖とした家も渡邊氏、配川氏、永安氏、なども古文書の中から知ることができる。それ以外にも長い歴史の中では一族縁者は多いといえるのではないでしょうか。
久守氏という苗字は県内では一軒のみ残っているが家の存続ほど難しいことはない、この久守氏という苗字はいずれは消えていくものといえよう。・・・・・・・これが世の常というものでしょう。
最後となりましたが、これからも郷土の歴史を紐解きながら温故知新の新たな気持ちで研鑽を勤めると伴に、ますます同八幡宮が繁栄していくことを祈念いたします。ありがとうございました。
2010.12.31