霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

プールに行く

2005-11-27 19:42:54 | 随想
 昨日と今日と二日続けてプールに行く、昨日はやや鼻水が出る状態であったがいけば元気になり1000m泳いでその後水流アクア体操をして帰る。

 隣の本屋で「ローマ人物語」の3から5を購入して買える。

 また昨日は更衣室で白髪のおじいさんに怒られた更衣室で水着からの水がだらだらと足を伝わり更衣室の床をぬらすのである私が歩く後には水溜りができていて、これではほかの人が水で濡れるのも致し方ないほどであった。

 怒ってぶつぶついっていたが私は耳栓をしていたので何とといって怒っていたのかわからないが、とにかく床を水でたくさんぬらして通っており、すぐ拭いて回った。プールから上がればよく体を拭いてそして水着も拭いてあがらないといけない、色々な人が共用している施設であり配慮を欠いた点があり反省する。

 今日は1,000mのクロールと1000m水中ウオーキング、そのあと水中アクア体操をしてかえる。腰痛がひどかったが二日もプールで泳ぐと腰痛も解消した。またプールに上がる前にはよく拭いてあがったために床にはシズクは落ちずクレームはつかないでよかった。

 また腰痛の時はゴルフボールを腰に置いて寝ると翌朝は直っていた不思議である。

巌上松

2005-11-21 19:42:45 | 歴史/古文書
 朝早めに家を出て緑町から鰐石町まで往復した。約50分の散策であった。ウオーキングとして運動をかねた散歩といえよう。

 これは、重ね岩とも鰐石ともいわれています。土地の人々に重ね岩と呼ばれ親しまれてきた。昔は下の岩の中ほどまで水があり、その部分がちょうど鰐が口をあけているように見えるので鰐石と名づけられたと伝えられている。

「防長風土注進案」に「このわたり鰐石(俗に重ね岩という)奇岩あるより、街の名とせり」とあります。ここは古い山口の町の東南の出入り口に当たります。昔は蛍合戦の見物するところとして多くの人々が集まりました。

 また、文中2年(1373)明国の使僧趙秩(ちょうちつ)山口に来た時山口十境の漢詩の1つに「鰐石生雲」という景色を詠んでいる。

 この袂にあった鉄橋は、明治18年、明治天皇行幸の際、県内最初の鉄橋としてかけられたものである。現在の橋は昭和18年に架け替えられた。其のときの石畳が鰐石側に少し残っている。

 少なくとも600年以上の昔から雄大な姿を保っているこの重ね岩は戎さまと拝まれ、子どもの引きつけ封じや虫歯封じのご利益があるとして、豆腐を添えて拝む人が多かった。現在は商売繁盛の神として毎年3月に岩戎祭りとして、祝詞を挙げてお祭りしている。

農園記15(ミカン収穫)

2005-11-19 19:21:47 | 園芸
 山口に帰って平成15年に植えた温州ミカンの1つが今年初めて実がつき全部で6個収穫できました。1個食べてみたが袋の中は全部種がなく食べやすく大変美味しかった。

 市販のミカンも1つ置いて写真を撮ったのがこの写真です。市販のミカンと比べて倍ぐらい大きいでしょう。一番小さいのが市販のミカン、残り5個が今回収穫のミカンです。

 やはり、自分で丹精込めて作ったものは、大切に少しづつ思いをかみしめながら食べて生きたいものです。

 今日はうれしい一日でした。農作業は枯れ木を焚き火して焼き芋を作りました。 また夏目の木の繁茂した枝を剪定しました。

長山殿

2005-11-19 09:34:02 | 歴史/古文書
 幕末の山口古地図にいまの亀山公園の場所が「長山殿」と表示し記載されている。
 
 これは毛利秀元が築城した長山城である。秀元は毛利元就の4男の子として1579年11月25日に生まれた。13歳の時輝元の子がなく養子に入ったが、文禄4年(1595)に輝元に秀就という子が生まれたので別家を設けた。

 秀元は、豊臣秀吉の朝鮮出兵文禄の役(1592年)では毛利軍の総大将として慶長の役(1597年)では全軍の総指揮官として出兵する。
 
 関が原の役では西軍の将として今の垂井町にある南宮大社の南宮山に陣を張ったが吉川広家の策略で戦わず中立を守った。

 関が原の戦・慶長5年(1600)後は長府に移り長府藩の始祖となった。
 また徳川家康の養女を継室に迎え大阪の陣にも参陣した。1650年72歳で没した。

 この長山城は輝元に子ができ別家とした秀元が慶長元年(1596)防長2州を輝元から賜りここに山口城として修築し居住していたが関が原の役で西軍が破れ、城は築城途中で長府に移った。

 天正16年(1588)城番を置いていた記録があるので城としての体は出来ていたといえよう。ただ築城年代は定かでない。

 天正16年以前は確かであろう。今はこの写真にある堀が当時の名残りとして残っているだけである。

http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/suounagayama.htm長山城

バレンタイン監督のすごさ

2005-11-16 20:58:47 | 経営/法律
 ロッテオリオンズが今年は生まれ変わった。万年Bクラスのチームが今年はセ・パ交流戦での優勝、パリーグ、日本シリーズ、そしてアジアシリーズをすべて優勝し4冠を果たしたのである。まさかロッテが優勝するとは思わなくあまり野球を見ていない素人ではあるが試合をするごとにうまくなっている感じがした、卒のない試合運びをしていて、手堅い試合であった気がする。

 それはボビー・バレンタインの名前からボビー・マジックと言われ選手起用術や掌握術が長けていたといえる。

 その1は各ポジションに入れ替わりの選手がいること、それもレギラー選手と変わらない働きができる選手に育てていることである。

その2は、ミスを責めず。気を楽にして、やる気を出す指導の徹底である。またミスをしても怒らず信頼を寄せ続けた監督の人間性が加味されて選手が最大の力を発揮したと言えよう。

その3は、優勝するには監督が常に指導するのでなく、選手自ら目標(優勝)をどう自覚するかにかかっている、そのために選手はどういうプレーをすればよいかを気づかせた。気づかせる雰囲気作りをした。

その4はデータ分析の徹底、統計アナリストをアメリカから連れてきて各投手の走者別、カウント別など細かい配球データからこの次はこうゆう球が来ると分析して相手チームを丸裸にしていく分析の成果が挙げられる。

その5は、能力の高い選手を起用するのでなく、いま調子のよい選手を、いまやる気のある選手を、相手投手に相性のよい選手をと、いまチームが最大限の戦力を出せる打線や守りを組むことに徹したこと。

その6はフロントが球団とファンを一体化し応援をしていったことにあろう。観客が1.5倍に増え、球団経営は約37億円の赤字予想が20億円の黒字になる見通しと言われている。

1から6の項目はすべて経営者として必要なスキルである。それを発揮できるバレンタイン監督がすばらしい。バレンタイン監督のような人が真の経営者といえるのであろう。

井上馨遭難の地

2005-11-16 20:03:09 | 歴史/古文書
 中園町の旧街道沿いに「世外井上馨候遭難碑」としるした石碑がある。幕末の頃幕府ははまぐり御門の変を理由に第一次長州征伐軍を進めてが長州藩ではこれに対して恭順の意を表すべきだとする保守派が少壮有意の正義派をしりぞけ時の家老を処罰し斬首した。いわゆる俗論党と正義党に分かれ対立していたのである。

 正義党の中心人物の一人であった井上馨は元治元年(1864)9月25日毛利敬親公の前で開かれた会議で井上馨は恭順派と争い武備を整へて幕府と戦うべきだと主張したため、湯田に帰宅途中、ここで反対派の壮士に襲われ重傷を受けた。しかし折り合わせた医師名医所郁太郎の手当てにより危うき一命を取り留めた。

 その後井上馨は明治政府の中枢にあって外務、農商務大臣を経て明治25年内務大臣となって、条約改正、行政整理、日清戦争後の運営などに当たった。晩年は実業に入ったが政界へも大きな力をもち各種の事業を育成するなど活躍した。

袖解き橋

2005-11-16 19:53:40 | 歴史/古文書
 中園町と泉都町の境なるこの橋は「袖解き橋」の石碑がある。ここは大内時代、いまから約600年前秋穂の港から山口までの秋穂街道は山口へ通じる主要街道であった。小郡方面から山口の町への入口であった。

この道は別名御上使道とも呼ばれ秋穂渡瀬を渡ってここから山口に入りました。

 全国各地から山口に登城した侍達は、狩衣、直垂の袖ぐくりしたものを、この橋まで来て旅装を解き、身なりを整えて入ったといわれる。このことからこの名が起こったと伝えられている。

 碑の歌人は、明治時代の歌人田辺玄節のものです。
   旅人の橋の名におう袖解きて 
         水にすがたを映してやみし
 
 今は道路拡張工事で片隅に工事の道具に囲まれて誰の目にもとらず立ちずさんでいる。

創業支援の心構え

2005-11-15 19:30:06 | 経営/法律
 巷に創業支援がうたわれているこの頃である。自治体から県や国、及びその外郭団体などあらゆる組織で、創業支援策を立てて事業推進を行っているが、役所の視点や指導する立場の視点や金融機関としての視点とかでなく。創業する人の視点に立ち入って一緒に考え行動することが本当に創業を志す人にも安心して相談できる。また創業を志す人も増えていくと言えよう。

 創業支援機関に行っても、こんなのは将来性がないとか、この事業化は難しいとかよく聞きもしないで云われると相談者のプライドや、やる気をそいでしまう。「そんな事業は駄目ですよ」といわれてプライドを傷つけられた人もいるという。

 まず創業計画者の話をよく聞くこと絶対「駄目」と言う言葉を使わない。長所を見ていってよいところを見出すとともにこの計画の問題点は何かそれはどう解決していけばよいかなどサポートしてあげることである。

「販売方法、顧客の開拓方法」「資金調達方法」「経理面の処理の仕方」「税務面の手続き」「販売ノウハウ・技術力の強弱」などよく検討してどうしたら事業として立ち上げられるかを共に創業計画者の立場にたって考えてくれる機関が真に求められていくと思うこのごろです。

 オンリーワンのものを持っているか、熱意、柔軟な発想、忍耐力など人物を見ながらサポートをしていくことがポイントと言えよう。

ゆず

2005-11-14 21:41:00 | 随想
 我が恋路農園で柚が実った。今年は数は少ないがそれだけ一粒の大きさは昨年より大玉である。

今日は湯田温泉で飲み会であった。最初は酔山荘でのみ2次会はカクテルバーで飲み会であった。

 
 2次会のカクテルバーでは稀有なうどんを食べた。その名前は「ゴマだしうどん」といって大分県佐伯市の名物うどんらしい。

 えその魚をダシにすりゴマが入っていて非常にあっさりした味で、酔ったあとに食するのに非常に美味しく感じる食べ物である。

 そのカクテルバーのマスターのお話では柚の種は捨ててはいけない。この種を焼酎に入れておくと放射線状にエキスを出し柚のリキュールになるらしい。一度試してごらんと教えられた。

この写真は恋路農園の柚です。

山口藩庁門

2005-11-12 16:52:42 | 歴史/古文書
 元治元年(1864)毛利藩主毛利敬親は居城を萩から山口に移し、現在の山口県庁のある場所に藩庁(山口城)をつくった。

 明治後はここに県庁が置かれた。藩政時代の遺物としてはこの表門と周囲の堀がそのまま残っている。

 大内館の築山館の石垣もこの堀の石組みに多く使われている。