霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

龍福寺の沿革

2008-02-29 09:43:04 | 歴史/古文書
龍福寺は大内満盛が臨済宗の寺として建永元年(1206)年に創建したといわれています。当時は宝珠山瑞雲寺という寺号でした。

 その後延元元年(1336)大内弘直が再建して弘直の菩提寺にしていますし、大内教弘は享徳3年(1454)に曹洞宗に改称して寺号も龍福寺と変えています。

 大内義隆の時代に後奈良天皇の勅願所となりますが陶隆房のほう起によって龍福寺は天文20年(1551)8月29日に兵火により焼失してしまいました。

 毛利隆元が弘治3年(1557)に義隆の菩提を弔うための白石から移してこの大内館のあるところに再建した。

 明治14年3月禅堂、山門を残し本堂等大部分を焼失

 明治16年興隆寺釈迦堂を移築する。 

 。大内政弘が文明11年(1479)に興隆寺本堂を再建したとあり(防長風土注進案)、このときの釈迦堂が今の龍福寺に移築されたと文化庁は解釈している。今から529年前の材木となるのである。
 

 また明応3年(1494)2月に焼失した興隆寺を9月に再興し、楽器・舞童鼓大小等を複製させる、洪鐘も鋳造させる。という記録と、大永元年(1521)には大内義興が興隆寺を再建するという記録もある。これら防長風土注進案に記録があるのであるが、この再建が興隆寺伽藍のどの部分か分からないが文化庁の調査で1479年に建てたものと判明したのであろう。いずれにしても529年前の材木を目の当たりにして木造建築物の耐用年数の長さにびっくりしたのである。  

福楽寺のソテツ

2008-02-28 11:06:27 | 歴史/古文書
 これは大村益次郎が子ども時代育った秋穂の西天田にあるお寺で益次郎の家もこの寺の檀家であったといえる。

 益次郎も子ども時代はこの境内でよく遊んだのではないかと思います。ここにはびっくりするソテツが雌雄それぞれ仲良く生育していて一見一本のソテツに見えるのですが、よーくみると葉っぱの形が雄株と雌株では違っているのです。

 また根元まわりを良く見ると周囲は2メートルはありそうな幹で大木です。樹齢何年かは良く分かりませんがかなりの齢をとっており今後も大切に管理してほしいですね!!!

 調べた結果雌かぶの根元総株周り6メートルで主幹は地上1.5メートルで幹囲約2メートル主幹の高さ約7メートルで全国的にも有数なものであるらしい。
 雄株は根元付近の総株周りは4,5メートルで主幹の高さ約3メートルである。 雄株は幹の頂部に多数の雄花を中心軸に集めて、長さ50センチメートルほどの砲丸状の花群を形作るそうである。・・・・・案内板参照

200120

天神山古墳群第一号古墳

2008-02-27 11:29:40 | 歴史/古文書
 この古墳群は山口盆地の西南部にある吉敷地区にあり、ここは扇状地は少なくて平野部が多く古くから米なども作られていた地区である、

 この地には円墳などが約7基あり7メートル~16メートルの古墳で小さいものがおおい。この写真はその1つである直径約15~16メートルの竪穴式古墳である。副葬品は何があったか定かではないが、5世紀前半の築造と説明板にはかかれてあった。

裁判員制度について思う

2008-02-26 11:06:17 | 経営/法律
 平成21年5月(来年)から裁判員制度が発足するということで研修を受けました。

 裁判員候補者は20歳以上の国民が選挙人名簿から選ばれて285人か570人に一人の割合で選ばれそのうち8人が重大な刑事事件の一審に限って通常3日間審理に参加する、長くても5日間といわれている。

 6週間前に選ばれて面接を受け6人の裁判員と補充裁判員2名を面接等で選ぶのである。裁判員候補者は呼ばれて当日8名が午前中に選ばれ午後からは裁判官・検察官らと一緒に審理に入り残り2日間で刑の結論を出していくのである。

 有罪か無罪か、量刑はどの程度にするかを多数決で決めていくのである。多数決でも裁判官が賛成が無いと無効という。量刑では平均の刑に落ち着くように制度化されていて突出はできなくなっているのです。・・・国民の常識で判断していく点も含まれている。

 この制度の目的は先進国では陪審員などの制度があって、無いのは日本だけ、こういった制度が無く最近の治安の悪化や検挙率の低下への対策として国民に裁判や刑法等に関心を持ってもらい治安の悪化防止に少しでも寄与させていきたいという狙いがあるといわれている。

 しかし米国などは陪審員制度が行き渡っているのではあるがライフルや銃の乱射による罪の無い人々がまたたく間に殺傷されるなど決して治安が良くなっているといえないのではないか。教育や社会のあり方も考えながら総合的に治安の向上策を考えていくひとつのステップにしたいものです。

倭寇について

2008-02-25 19:44:58 | 歴史/古文書
 倭寇というとその文字からして日本人だけかと思ったが、朝鮮人や中国人もいたということである。特に16世紀頃は中国人は倭寇に成りすまして私貿易を行っていたとのことである。

 倭寇14世紀の半ば頃から発生している。発生原因は元寇の被害で略奪や親族を殺害され生活の困り果てたうえでの報復のような行動であったのであろう。

 今日の話では倭寇は対馬、壱岐、松浦など元寇の被害を受けた地域が多いのである。大内氏の朝鮮交易は65回も行っているのであるが、実はそれ以外にも偽使といって正規の交易でないものもあったという。

 その証拠として大内氏の名を使ってしかも当主の名でなく親族の名を使ってしかも約50年間その人の名で交易をしていたのである。

 通常当主は約20年で交代するのが歴史的に見て普通であることからして、朝鮮側も偽使と分かったうえで政治的・経済的にメリットがあったので行っていたといえるのではないかと思われます。それは1454年~1502年の間のことです。これは大内氏が直接関与はしていないようで、関わったのは対馬の人・倭寇・俗人・商人等ではないでしょううか。

 

クラインガルテン記31(桃の結婚記念樹)

2008-02-24 19:04:54 | 歴史/古文書
 この前の日曜日には畑を新しく作りました。実は子供たちの結婚記念樹として桃の木をそれぞれ一本づつ植栽したのです。一つは極早生の「ちよひめ」もう一つは「夏乙女」です。今までの畑であったところを使用したのです。

 したがってカボチャなどを栽培する畑がなくなったので一所懸命に開墾してたくさんの石ころを出して写真のように新しい畑を作りました。

 これからもっと土作りをしたり酸性土壌を中和しながら本格的な畑に改良していく予定です。

200221

狐塚古墳3

2008-02-23 20:25:16 | 郷土史
 この写真は横穴への入り口は屋根つきの門で鍵が掛けられております。石室内は盗掘されていまして遺物はあまり出ていませんが、メノウの勾玉やガラス小玉3個、耳環1個(銅)、やじり刀などの鉄器の破片、須恵器(杯、壷、高杯、平瓶、子持壷)などが出土している。

 前方後円墳は北北西の方向に盛土で造られ、横穴式石室の開口は南西の方向に向け造られている。

 この古墳は昔からあがめられていたといえよう、今でも祠のあった跡や後円墳のふもとには「重氏大明神」と刻まれた屋代が祀ってある。

阿東町の文化財参照

狐塚古墳2

2008-02-22 19:43:02 | 郷土史
 この狐塚古墳は全長約35メートル、方円部は前方部の幅は約20メートル高さは2メートル、後円部は直径22~25メートル、高さ4~5メートルということです。後円部の頂上から前方部を写真に撮ったものです。

 これはおそらく6世紀前半の頃出来たものといえましょう。その頃は中国地方で盛んに横穴式石室の前方後円墳が造られていたそうです。今から1400年から1450年前のことです。

狐塚古墳

2008-02-21 19:25:19 | 郷土史
 この前の18日に山口県北部の徳佐に行きました。そこには前方後円墳があります。前方後円墳は畿内の王権の許可が無いと作れないためこの地方には当時から強大な豪族がいたという証になるといわれています。

 前方後円墳はあまり大きくなく、円墳の頂上まで登ることもできます。今回も登りました。半ばには横穴があいていますが今は厳重に屋根が作られ入り口は施錠されて中を見学することはできません。前方後円墳は県内には25基しかなくまた横穴式の石室を持つ前方後円墳は5基と少なくその少ない5基のうちの一基に当たります。

 近くにあって始めてみました。貴重な文化遺産でありもっと説明板を設けるなどPRをしてほしいものである。

唐絵について

2008-02-20 19:48:20 | 歴史/古文書
 唐絵について少し学習をした。それは市の歴史講座に参加してである。唐絵は平安時代から南北朝時代においての中国画を意味するもので、南宋画など最たるものであるらしい。唐絵は中国からの輸入品も日本で絵師が書いた中国画も唐絵と呼ぶらしい。

 輸入元は日本では幕府や大内氏など守護大名等が多かったのではなかろうか、ぜいたく品で価格も高いものであったようである。

 今でいえば欧米の絵画の有名な画家の絵というものであろう。何千万円か、いや何億円もする絵もあるのでかなりの資産家でないと買えないのである。

 従って当時の唐絵を購入する人たちもかなりの資産家で財力のある人たちしか買えなかったということです。

 ちなみに足利将軍家の唐絵というものは、能阿彌が記した「御物御絵目録」いわゆる足利義政以降の足利将軍家で集めた絵の一覧であるが280幅ぐらい収集していたといわれている。それが現存しているのは30~40幅ぐらいと、歩留まりは35幅として歩留まり率12.5%である。

 大内氏が収集した唐絵というものは現在確かなものは2幅あるといわれている。大内氏が収集したらしいといわれているのが2幅あるらしい。これらから逆算すれば32幅ぐらい保有していたのではないかと推測されます。

 しかし「蜷川親元日記」増補史料大成・臨川書店より・・・、それによれば文明10年(1478)7月25日大内政弘が足利義政に唐絵32幅を見せているのです。それから類推すれば50幅ぐらい大内氏は持っていたのではないかと思います。これはあくまで想像の世界ではありますがそういった文献が見つかればはきっきりはしますが、なかなかまことのことは分からないのでしょう。

 いずれにしても唐絵などの文化財の残存率は権力・財力の強さに正比例して弱いほど残ってる文化財の数は少なくなっている気がする。

参考文献 谷信一「御物御絵目録」【美術研究】58号、1936年