龍福寺は大内満盛が臨済宗の寺として建永元年(1206)年に創建したといわれています。当時は宝珠山瑞雲寺という寺号でした。
その後延元元年(1336)大内弘直が再建して弘直の菩提寺にしていますし、大内教弘は享徳3年(1454)に曹洞宗に改称して寺号も龍福寺と変えています。
大内義隆の時代に後奈良天皇の勅願所となりますが陶隆房のほう起によって龍福寺は天文20年(1551)8月29日に兵火により焼失してしまいました。
毛利隆元が弘治3年(1557)に義隆の菩提を弔うための白石から移してこの大内館のあるところに再建した。
明治14年3月禅堂、山門を残し本堂等大部分を焼失
明治16年興隆寺釈迦堂を移築する。
。大内政弘が文明11年(1479)に興隆寺本堂を再建したとあり(防長風土注進案)、このときの釈迦堂が今の龍福寺に移築されたと文化庁は解釈している。今から529年前の材木となるのである。
また明応3年(1494)2月に焼失した興隆寺を9月に再興し、楽器・舞童鼓大小等を複製させる、洪鐘も鋳造させる。という記録と、大永元年(1521)には大内義興が興隆寺を再建するという記録もある。これら防長風土注進案に記録があるのであるが、この再建が興隆寺伽藍のどの部分か分からないが文化庁の調査で1479年に建てたものと判明したのであろう。いずれにしても529年前の材木を目の当たりにして木造建築物の耐用年数の長さにびっくりしたのである。
その後延元元年(1336)大内弘直が再建して弘直の菩提寺にしていますし、大内教弘は享徳3年(1454)に曹洞宗に改称して寺号も龍福寺と変えています。
大内義隆の時代に後奈良天皇の勅願所となりますが陶隆房のほう起によって龍福寺は天文20年(1551)8月29日に兵火により焼失してしまいました。
毛利隆元が弘治3年(1557)に義隆の菩提を弔うための白石から移してこの大内館のあるところに再建した。
明治14年3月禅堂、山門を残し本堂等大部分を焼失
明治16年興隆寺釈迦堂を移築する。
。大内政弘が文明11年(1479)に興隆寺本堂を再建したとあり(防長風土注進案)、このときの釈迦堂が今の龍福寺に移築されたと文化庁は解釈している。今から529年前の材木となるのである。
また明応3年(1494)2月に焼失した興隆寺を9月に再興し、楽器・舞童鼓大小等を複製させる、洪鐘も鋳造させる。という記録と、大永元年(1521)には大内義興が興隆寺を再建するという記録もある。これら防長風土注進案に記録があるのであるが、この再建が興隆寺伽藍のどの部分か分からないが文化庁の調査で1479年に建てたものと判明したのであろう。いずれにしても529年前の材木を目の当たりにして木造建築物の耐用年数の長さにびっくりしたのである。