多冶比の猿掛城跡 2012-04-26 08:07:32 | 歴史/古文書 この辺りはえそう院跡と思える。 多冶比の猿掛城は元就が幼少青年期を過ごしたところである。国道6号線と多冶比川沿いの山間地にある舌状の形をした山の一角であった。元就が4歳から27歳のあいだ23年間過ごした元就の故郷である。ここには父の菩提寺悦そう院(えそういん)跡があり墓所もある。寺屋敷クルワ群跡や本丸もあり本丸まで徒歩20分かかると書いてある我々は時間がなく登らず。
毛利弘元 2012-04-25 11:22:38 | 歴史/古文書 毛利弘元について詳しくは知りませんが、この場所の案内では応仁2年生まれ、(1468)9歳で家督を継いでいる。いわゆる郡山城主となっている。当時中国地方の雄、大内氏と尼子氏の間に挟まれ300貫地の領地しかない小さな国人領主であった。明応9年(1500)32歳の男盛りのときに家督を長男興元に譲って、二男元就を連れてこの城で隠居したのだそうだ。6年後の永正3年(1506)には死んでいる。酒害が原因とのこと。家督を譲ったのも酒害が理由かもしれませんね?毛利弘元と同夫人の墓所である。
元就の幼少時代 2012-04-24 11:14:28 | 歴史/古文書 まず我々は元就が父と一緒に住んだといわれる幼少時代の住んだ地、安芸高田市の多冶比というところにある猿掛城跡に足を運びました。ここには父である毛利弘元と同夫人の墓がありました。少しイノシシの鼻のように細く出っ張った小高い山の麓にその墓と入口がありました。写真は史跡猿掛城跡の入り口に当たります。
毛利元就の像 2012-04-23 11:08:07 | 歴史/古文書 この像は最近造られたものです。元就の武将の姿を表現していますが、実際の元就の顔が写生されたものが残っておらず想像上の顔となっています。この塑造は青年の家の敷地内に建っていました。
龍福寺本堂 2012-04-22 17:34:31 | Weblog 今回の修理保存工事は蔀戸、内陣下陣の間仕切り、須弥壇の小さいのを大きなものになど復原するのが柱で大内時代いわゆる室町時代の建築物がよみがえった。のです。今から633年前に復原しました。めでたい1日でした。
龍福寺本堂保存修理工事完成 2012-04-22 17:16:41 | Weblog 本日午後一時から、工事完成記念の講演がありました。75センチの長さの桧皮は30万枚、竹釘は100万枚使っているとのことでした。
吉田郡山の旅 2012-04-22 10:12:59 | 歴史/古文書 吉田といってもどこかわからないと思いますが広島県、安芸の国の芸北部にあり安芸高田市中心地に行ってきました。目的は毛利元就の生涯を探すというわけにはいきませんが、その一端をここで垣間見ることになりますこの郡山で生まれ郡山で死んだのですが大半は戦陣での暮らしが多かったことでしょう。 ここはお里茶屋と言って元就などの家族が居住していた場所といわれる。郡山城跡の一角にあるのですが発掘調査をしてみてその形跡が見つかってはいないということでそう言われている伝承とも言われている。