芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」というのがあるが、蓮池のふちを釈迦が通ったとき、地獄にいるカンダタを見て、一度蜘蛛を助けた善行があるとして蜘蛛の糸をたらしてやった。カンダタはその糸で浄土へ登り始めたが途中で地獄のたくさんの悪人達も登り始め、コレは俺の糸だ降りろ降りろというも悪人達は登り、ついには切れて、また地獄へ戻ったという話。
仏教はその蜘蛛のを糸を登る時の心根を、何も考えず、身からこころをを投げ出し、仏の家に自分を投げ入れ救われたいという心を忘れて上を見ることもなく下を見ることもなく無心に登ることであるといっている。そうすれば浄土へ登れるというのである。また生死を離れて仏となることができるというのである。
親鸞の悪人正機
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」 親鸞は阿弥陀さまが悪人のところまで降りてきて悪人を救済してくださるという。これは阿弥陀さまを信じて阿弥陀さまにすべてを委ねる信心の心が生じた時にはという前提がある(他力による救済)。この悪人とは、皇族・貴族・公家や、士官の人々で無く中世の農民や商人・工人や地侍など一般の庶民層のことを言っていると解釈すべきだろう。
往生
往生際が悪いのが今の世に多いことか 物欲が強すぎてなかなか手放すことをせずコレでもかコレでもかと欲深くなっていく恐ろしさ怖さがある。まさに餓鬼である。
平生業成(へいせいごうじょう)を持つこと。いわゆる心の中に阿弥陀仏を持つこと、心の中に阿弥陀仏の誓願力を戴くことが大事である。
聖徳太子の言葉に「世間虚仮 唯仏是真」がありますが、世は仮の姿で、仏だけが真であるといっている。
親鸞も現世は、煩悩具足の凡夫、火宅の無常の世界といい、よろずのことみなもて空事たわごと、まことあること無きに、ただ念仏のみぞ真であり浄土の心を持ちながら生きて行くことが浄土へいける近道といっている。現世の規制に縛られず・世の中に追随せず、迎合せずに主体的かつ自立的に生きていくことを教えているのである。
仏教はその蜘蛛のを糸を登る時の心根を、何も考えず、身からこころをを投げ出し、仏の家に自分を投げ入れ救われたいという心を忘れて上を見ることもなく下を見ることもなく無心に登ることであるといっている。そうすれば浄土へ登れるというのである。また生死を離れて仏となることができるというのである。
親鸞の悪人正機
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」 親鸞は阿弥陀さまが悪人のところまで降りてきて悪人を救済してくださるという。これは阿弥陀さまを信じて阿弥陀さまにすべてを委ねる信心の心が生じた時にはという前提がある(他力による救済)。この悪人とは、皇族・貴族・公家や、士官の人々で無く中世の農民や商人・工人や地侍など一般の庶民層のことを言っていると解釈すべきだろう。
往生
往生際が悪いのが今の世に多いことか 物欲が強すぎてなかなか手放すことをせずコレでもかコレでもかと欲深くなっていく恐ろしさ怖さがある。まさに餓鬼である。
平生業成(へいせいごうじょう)を持つこと。いわゆる心の中に阿弥陀仏を持つこと、心の中に阿弥陀仏の誓願力を戴くことが大事である。
聖徳太子の言葉に「世間虚仮 唯仏是真」がありますが、世は仮の姿で、仏だけが真であるといっている。
親鸞も現世は、煩悩具足の凡夫、火宅の無常の世界といい、よろずのことみなもて空事たわごと、まことあること無きに、ただ念仏のみぞ真であり浄土の心を持ちながら生きて行くことが浄土へいける近道といっている。現世の規制に縛られず・世の中に追随せず、迎合せずに主体的かつ自立的に生きていくことを教えているのである。