霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

坪付帳や絵図から見た近世の山口

2007-01-30 23:23:13 | 歴史/古文書
 宝暦12年(1762年)町絵図と寛政2年(1790年)坪付帳とを比較しながら山口の中心商店街(米屋町、今市)を見てみると、所有者は三分の二は変わっているが面積はほとんど変わっていない、一部分筆等はあるが大きく変わっていないことがわかる。

 また坪付けの屋敷面積も小さいのがあったり大きいのがあったりでまちまちであるが概して大きく別に畑地の支配地も所有していた。

 町家の人々は屋敷内にも畑地があったり別に地に畑地を持ったりして少しの野菜は自給していたことが裏付けられる。また当時は今市と今道の間は家並みでつながっていなく畑地があった状態も判明した。

町家の一戸あたりの坪付けの面積は概して郡部の方が大きく山口・上宇野令は約80坪に対して阿武郡徳佐の市の平均坪付け面積は約260坪と広い。間口よりも奥行きの長い長方形が目に付く、裏では畑地として使用していたと思え今でもそのまま畑地として郡部では使われている。

 いろいろと古文書や地籍図などと比較していくとその町の姿が見えてくるという歴史地理学もまた一面での面白さがある。これからは古文書だけでなく歴史地理学も踏まえた歴史の推敲が必要と感じられた。

大内時代の山口の都市景観

2007-01-29 20:59:38 | 歴史/古文書
シンポジュウムが1月27日にあった。その時のテーマでもある戦国期の山口の町方と景観について話があった。

 すでに承知のことであるが大内館は15世紀なかば頃できた1440年ごろできたといわれている大内教弘に時代である。山口の扇状地に沿ったかたちで一の坂川の低地やふしの川沿いの低地は人家はなく扇状地台地の平坦地の部分に館や武家地や寺があった。

 それが徐々にではあるが16世紀半ばのころまで扇状台地から鰐石橋のあたりまで1本街村状に広がったのあるが、江戸時代に入ると領主の町ではなくなったためあまり変わりなく過ぎて今日に至っているようだ。したがって大内氏時代からの町家の様子は変わっていないようである。

 馬場殿小路という地名があるがこれは大内氏一族 馬場満世の屋敷がったところからきていることがこのシンポジュウムだはじめてわかった。私にとっては新発見であった。

 またふしの川の船着場は鰐石橋のところと思い込んでいたが16世紀初めまでは今の山口駅のやや北東あたりであったという、その証拠に魚物小路(相物小路)というのが残っているのである。

 

ラムサール条約登録1周年

2007-01-28 10:56:12 | 健康
 秋吉台の地下水系などが同条約を締結1周年を迎え、その記念の展示会が開かれている。ラムサール条約とは正式には「特に水鳥の生息地として重要な湿地に関する条約」がそれである。事務局はスイスにある。

 イランのラムサールというところで採択されたので通称そう呼ばれている。06年3月現在で150カ国1591箇所の湿地が結ばれている。日本は33箇所あるという。

 秋吉台には400から500個の洞窟があって地下にはたくさんの水系が張り巡らされているエビなどの小動物や貝類も生息している。「帰り水ウバーレ」と呼ばれる降雨量が多いときにはドリーネから流れてきた水が湧き出し一時的に湖を造る現象とか、ポリエと呼ばれる平野部では雨水がポノールと呼ばれる竪穴から地下へ吸い込まれるように消えていく面白い現象が見られる。

 約3億5千万円前のサンゴ礁がのちの地殻変動によって隆起し長い年月をかけて造られたこの造形物は年間を通じて洞内は14度から18度の温度に保もたれ響く水音や静かな流れは音とあいまって気持ちを落ち着かせ、ストレスや疲労から開放させてくれる癒しの効果があるといえよう。

 秋吉台は05年11月に地下水系と秋芳洞、大正洞、景清洞の三つを合わせた563ヘクタールが条約湿地として登録されているという。最近は洞窟探検コースなどアドベンチャーな観光も取り入れていますので一度ならずもたびたびに訪れてほしいものです。

農園記51

2007-01-27 18:23:43 | 園芸
 朝から約一時間農園に来ました。なんとカラスがまたブロッコリーの葉っぱを食べているのである今までキャベツの葉や、大根をかじったり、ニンジンをかじったりと山や森林、里山などの食料がなくなったため農園に飛来して来て野菜をどんどん食べていくのである。

 ある程度は仕方がないとあきらめていたがこんなに長くあらされるとは思っていなかった。何とかよい方法はないものか、今後の研究課題である。

 甘夏2個と、金柑を収穫してきました。

52歳

2007-01-26 20:14:59 | 随想
 あの「ひなげしの花」でヒットした歌手のアグネス・チャンがもう52歳になる今は3児の母となっている。
 彼女の生活は歌手・ボランテア・家庭の3本柱で毎日毎日を今日が一番大事、今日しかないって思いながら自分にできることを一生懸命にやっているというのである。
 特にユニセフ大使に任命されてからは東南アジア、アフリカ、中東など9カ国を訪問し貧困・戦争等悲惨な状況を見て歩き、平和の大切さを認識したといっている。

 口ではいくらでも平和を唱えることはできるのである。要は自らが平和な心を保てないと人には平和を唱える資格はなく。「そのためには自ら事を始めよう、人は変えられないけど、自分は変えられる」という信念を持って生きていくことが大事といっている。

 最近のいろいろな規範が崩れるような事件が多発している時代にあって「自分を変えていけばおのずと周辺も変わるのではないか」そこから一歩一歩前に進むことが必要であり大事なことであると深く認識するしだいである。

井戸

2007-01-25 21:09:24 | 園芸
 いまどき井戸といってもピンとこないかもしれないが、わが農園にはレキットした井戸があるのである。それも昔風の井戸である。ポンプは紀年号という骨董的ポンプで汲んでいる。

 しかし昨年の夏、ジュース類を冷やすため井戸につるしたのですが「蜜入り冷やし飴」のビンを井戸の底に落としてしまったのです。いつかとらなくてはと思っていたのですが、4日前に義兄の手伝いで4時間かけ井戸掃除を行ったのである。

 電動ポンプに400wぐらいのライトを使い井戸水を全部水が空になるまで吸い上げて底にあるヘドロやゴミをとったのである。

 なんと底にはご飯を炊く釜が落ちていて穴も空いてヘドロもたまっていてそれを取り出すのに難渋していたが何とか取り上げることもでき「冷やし飴」のビンも回収できた。

 2度井戸の底の水をくみ上げたので今度からは井戸にふたをして異物が入らないよう注意していくつもりです。一安心でした。

北辰妙見社

2007-01-24 14:27:15 | 歴史/古文書
 北辰妙見社は大内氏の氏神様であった。北斗七星いわゆる北極星を神として祭るのである。大陸系の人であろう。大陸は大平原の中、砂漠の中を方角を間違いなく進んでいくには必要なのである。

 日本では武士はこの北辰妙見菩薩を信仰する人が多かったと聞く。房総の千葉氏もそうであるらしい。

 武士は特に夜襲をかけるとき北極星を目印に方向を決めて動く為どうしても北極星を観測していたという。

 この北辰妙見社は天長4年・西暦827年ごろ、11代大内茂村のよって下松の妙見社(609年ある松の木に隕石がふり3年後の異国の王子が来ると告げた。くだり松がなまり今のクダマツになった)から勧請された。同じ敷地内には氏寺の興隆寺があり琳聖太子によって同じ頃開基されたといわれている?

 妙見社上宮跡地には今でも小さな石垣が積み上げられ星の観測や見張りをした後があり、大内氏時代には敵に夜襲をかける時、方位を定める必要があった。そのため妙見上宮では北極星などの観測を行っていたのではないかと思われる。

参考資料 大内中PTAだより

氷上古墳

2007-01-23 14:26:18 | 歴史/古文書
 この古墳の登るには人里はなれた山に入る数分歩いてその小高い山の頂上にあります。一人では行かないほうがよいといえます。

 自然の地形を利用した前方後円墳である。山根観音堂の北にある。築造の時期は西暦450年から500年までの間であるといわれている。

 全長28メートルと大きくはない。後円部は一部取り壊され、えんの業者の社が祭られていた。

参考資料 観光案内板

180520

なんでも鑑定団

2007-01-22 16:17:45 | 随想
 地元商工会議所創立100周年を3月24日に迎える記念事業の一つとして日本テレビ系の「開運・なんでも鑑定団」が山口にやってきました。司会は松尾伴内とアシスタントは橋本エリカで、鑑定人は陶器の中島誠之助と書画の田中太一の両名で行われた。6点の鑑定が行われたがみなエピソードが面白く500万円が1万円に鑑定されたり100万円が500万円に鑑定されたり1200万円が5千円に鑑定されたり浮き沈みが見られ結構面白くセオリーを作って収録していた。

 特に1200年前弘法大使が開基したといわれている。狗留孫山の修善寺の女将さんの話には27年前に嫁にきたが車から降り30分も山登りをしないとお寺に着かず、その当時茶器が書院に放置されていたが「何でも鑑定団」で1億円と鑑定されたものと同じものであることを思い出し、出演をきめたとのこと。鑑定結果は5千円。中興の祖は栄西禅師で茶道を日本に始めて中国から茶道を導入した人で、そのお寺では江戸時代に藩主が茶道師を連れて参禅しているといっていました。

 湯田温泉の女将の手品の披露や江戸時代中期の人形、おかめ人形を鑑定にとか、鑑定50万円。

 ほかには茶店の看板用の大きな急須(備前焼)15万円の鑑定。

 祖父が知人の建築資金を貸し付けてその見返りとして掛け軸をもらった死ぬ前この掛け軸で家が立つといわれ娘は嫁に行くとき持参させられたその夫は旅行するときも実家に預けるなど掛け軸を大事にしたが他界した。しかし鑑定1万円。

 天正18年10月の織田信長の書状、石山寺が信長の手に落ち秀吉が中国攻め中のとき、次は四国長宗部を攻める前の書状。「讃岐を手中に納めれば讃岐の城主に取り立ててやる」というもの。広島県の八木城主の祐筆を勤めていたときにゴミ箱に入れて捨ててあった書状が信長のものであるとわかり祐筆芥川家に保管されていたが最近70年間は檀家の寺に保管を頼んでいたこのたび帰ってきたので鑑定に出した鑑定は信長の天下布武印があり200万円。

 防府の人で昭和21年に祖父が終戦直後お金に困った人から買い取った。いくらかも判らない。しかし防府の毛利の殿様のところから出たものであるとは聞いている「鶴二羽」の丸山応挙の掛け軸は500万円の鑑定でした。

 いろいろ謂われの話をして楽しく見させていただきました。


高齢化社会に挑戦

2007-01-21 21:02:38 | 随想
 今日は文化会の総会があり、ある高齢者の話を聞いた。その人物は長年の地方公務員を2年前に定年で迎え、平成6年には住職である父をなくし、そのあとに妻を亡くし、ショックはひどく、落ち込みもあったという。しかし、今は市内の大学4つの大学の臨時講師として、地域の歴史、文化、生活を後世の世代につなぐ役割として若い人たちに教えている。また父の住職をついで僧侶の仕事もしている。2年前からは好きな音楽を始めお寺で自作自演のコンサートしていると生きがいを持って生きている人である。

 仕事の職場にいるといやなこともあるがひとつのコミニティーとして安心や癒しがあるが、いったん定年退職すると、毎日が休みであり何時にでも起きていいと生活のリズムがなくなる。自由が苦痛になるといっておられた。高齢者の内面的問題として「生きがいの喪失」と「終末への不安」が生じてくるのも特徴であると。

 死への不安と生きがいがないと、言いながら生きていくこともつらいことではあるが終生安心(あんじん)を決めることはない、安心(あんじん)と思ってもすぐ不安心(ふあんじん)に戻る。この振り子の繰り返しが人生かもしれないのであるといっていた。

 人間って悟ってずっと生きていることはできない動物なのであろう。安心(あんじん)・不安心(ふあんじん)の繰り返しが生きているのが真実かもしれない。カトリックの神父の人も言っておられたが死後天国に行くと信じる努力をしているということである。

 いずれにしても若い世代に今までの英知や文化・歴史を引き継いでもらうための行動をしていくこと。
老後は子供に頼れないので老人同士で助け合うシステムを作ること。
老後は自分の始末は自分でできるよう努力していくこと。
宗教の一つや二つは勉強をしていくこと、といったいろんなチャレンジの仕方があることを気づかせてくれた一日でした。