霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

香積寺(こうじゃくじ)

2009-06-30 16:03:10 | 歴史/古文書
 この寺院は足助町にあります。香嵐渓の川のふちから階段を上っていくと、このような立派なお寺にたどり着くのです。階段数は150段近くあったような記憶です。


 応永34年(1427)滅亡した足助氏の菩提寺として、足助氏の居館でもあった飯盛山城にの建立したのです。開基は関白二条良基と成瀬三吉丸(足助重範の孫)(犬山城成瀬家の祖)である。開山は白峰祥瑞禅師です。山門横には飯盛山城当時の土塁が残っていてそれがお寺の塀代わりをしていました。かっては学林として100名ぐらいの雲水が住んでいたと観光案内板に書かれています。

 11代参栄禅師が楓を真下の巴川沿岸に植えて今日の香嵐渓がもみじで有名になった由縁です。

 25代風外禅師の有名な絵もここに保存されているとのことですが見られませんでした。

ラベンダー

2009-06-30 11:45:16 | 園芸
 嬉しいことです。ガルテンの花壇に植えていた一本のラベンダーが枯れずに花を咲かせてくれました。うーんこの花はどうしたらよいのか、切り取って乾燥させ香りを楽しむべきか、いやはや自然に任せたまま1年を過ごさせるのか、思案のしどころです。一息入れラベンダーの勉強をして考えることにします。

210627真夏日28度

小牧本陣跡

2009-06-29 15:55:08 | 歴史/古文書
 永禄4年(1561)東条吉良氏を攻撃するときのここを松平元康は本陣として攻めて行ったのです。

 東条城からはおおよそ2キロぐらい藤波畷からはおおよそ1キロぐらいの平坦地です。攻撃する側は多勢のため、こんな防御施設もない平坦地科に本陣をおいたのでしょうか。いや当時の様子は分からないのです今は平坦になっているのかもしれませんね。

ひさしぶりのSL

2009-06-29 11:35:38 | 随想
 いつもガルテンの行き帰りにはこの踏切を渡っているのですが今日は偶然時間が一致して私の車が踏み切りで待っているときにSLが通過しました。

 懐かしさも感じて携帯で撮りました。なんと煙の吐く量が多いこと通過した跡も黒煙が残っていてよく列車が見えないのです。

 余り自己主張が出すぎていますね。目立ちがり屋もいいですが、昔はそんなに煙を出さなかったですよ。今は観光客やSL写真フアン向けにかっこよく黒煙を多く出すようにリップサービスが大事なのでしょうね。

伴五郎地蔵

2009-06-28 15:51:46 | Weblog
 ここには地蔵堂があります。富永伴五郎忠正が藤波畷での戦いぶり、蛮勇を奮って勇敢に戦いついには討ち死にをするのであるがその強さに敬意を表して後世に誰かが伴五郎を敬して地蔵堂を建立したのです。

 すごいですね歴史は負け戦で死んでも名を残しているのですね

 近くに見える丘は東条城です。

桃・千代姫の収穫

2009-06-28 11:19:58 | 園芸
 2008年2月に子供たちの結婚記念として植えた桃の木「千代姫」が約40個もでき6月27日に収穫して子供たちの結婚記念日を思い出してもらうようこの桃を30個ぐらい送りました。桃栗3年といいますが。手入れをこまめにしてやれば早くできるものなのですね。

 この桃は香りがよく甘みもあって極早生として早く食べれる利点があるということです。早くできるので小玉になりましがいたし方ありません。

 収穫後3日ぐらいおいて追熟させるなど小玉がやわらかくなったときが食べごろです。

 もう一本に桃の木は【夏乙女】といって甘みが強く、少し硬めで肉質は溶質で果肉は白く若者好みのものです。晩生種で、7月末から8月上旬が収穫期となります。

 楽しみです。

210628

ブラックベリー

2009-06-27 21:00:22 | 園芸
 昨日、今日とガルテンに行きました。ブラックべりーが熟していましたので収穫して食べてみました。甘く一見ブドウのような感じもしておいしくいただけました。

 ニンジン、ゴボウ、梅、セロリ、アスパラガス、小松菜、グリーンマスタードなど収穫したり間引き菜を採ったり、野菜への水遣りなど結構忙しいのですが、正午の頃は気温31度と暑く熱中症になりそうなので3時半頃までは昼寝と読書の時間にして過ごしています。

 野菜を送るのに送料が高く送料分のお金を送ったほうがいいのではと運送会社の女性社員に冗談で話すのであるが女性社員は送る人の暖かい気持ちや慈愛の心が入っているのでお金には返られませんよといわれます。そうでしょうかね。受け取ってくれる人も野菜の処理に大変でしょうが。

 いずれにしても余るものは他人へ贈る、これが人としての当たり前のことでしょう。人類共存の精神これはいつの時代も変わらぬことです。

藤波畷の合戦

2009-06-27 15:22:58 | 歴史/古文書
 吉良町を観光貸し自転車でサイクリングしていると東条城の登城道を下って行き田園地帯を横切る途中にこの案内板が目に見える。ここは東条城からおおよそ1キロくらいとお城に近いとこにある。

 松平元康に攻められ東条吉良氏はここに籠城して攻撃を守っていたのです。時は永禄4年(1561)の4月から9月にかけてのことでした。

 松平勢に吉良の周囲の砦を攻め取られ9月には東条城を包囲されたのです。家老の富永伴五郎忠正は手勢を連れて打って出ては松平勢を苦しめていたのです。富永忠正の強力と戦上手がそうしたのでしょう。

 あるとき富永忠正は合戦のさなかに独りになりその隙を攻められ討ち死にしました。東条吉良氏の敗北の一因となった合戦でした。

 今は穏やかな田園の中にあり戦の荒々しさは垣間見ることもない状況です。つわものどもの夢の跡です。

東条城あれこれ

2009-06-27 10:22:57 | 歴史/古文書
 築城年月は定かではありませんが足利義氏が三河の守護職となってこの地を支配したときにはこの城はあったのか新たに築城したのかはっきりしません。一説では義氏が築城したとなっています。承久3年(1221)頃にはお城があったのでしょう。

 この城は平山城で茶臼山(291m)とつながって伸びる尾根の先端にあり、今の県道のところが掘り切りとなって東や南面は沼田であった。

 沼田は藤波畷と呼ばれ矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割をして天然の要害でもあった。

 永禄4年(1561)に松平元康(家康)に攻められて落城し、この城には城代松井忠次(ただつぐ)(後の松平康親)が管理していたが、16年後の天正3年(1575)に松井氏は牧野城に転封となり、この城は廃城となりました。

 今は古城公園となっていて、観光客のために整備されています。また展望もよくハイキングにはいいところです。主郭や曲輪がよく残った中世の城の特徴がよく見れて一度は訪ねてみたいところです。

スイミングぅ~36

2009-06-26 20:52:26 | 健康
 昨日は朝一番にジムに行きスイミングをしました、それでもコースはいっぱいでした。2人で使用して泳ぎました。今日は1000mのスイミングと、1000mのスイミングとウオーキングの混合をおこないました。

 2人共用コースの中で泳ぐ人は若い女性でした。久方ぶりの若い女性と同じコースで泳ぐなんて嬉しかったです。

トータル134キロ進みました。