霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大村益次郎医学記念碑

2008-04-30 17:42:00 | 歴史/古文書
 ここは近代医学黎明の地のひとつといわれています。山口市柊地区の藩の刑場跡地です。

 四境戦争が終わった直後の藩の医学校である「好生堂」の懇望を受け戦後処理で忙しいさなかの大村益次郎が柊刑場で処刑された女囚をこの藩で初めて解剖したのです。

 解剖のときはその部分を解説しながら腑分けのつど説明しながらその見事な解剖技術に見学していた医者たちは感嘆したといわれています。

 藩、最初の腑分けに地としてこの写真の石碑が建てられています。

 それは慶応3年(1867)秋のことでした。

竜王社のムクノキ

2008-04-29 19:16:26 | 歴史/古文書
 いつかは行ってみようと思っていましたこのムクノキの群生の杜に行ってきました。

 まだ4月ということで若芽が出始めたところで葉の形状はよく分からなかったのですがこの杜にムクノキの大木が5本群生しているのです。樹齢は多分何百年と経つのでしょうが案内板には何も書いてありません。

 この群生の中で一番大きいのは根周り約8メートル、目通り幹周り約5メートル高さ約25メートルもあるそうです。市の指定天然記念物になっています。

 ムクノキはエノキとともに神の衣代としての信仰があるとのことであるらしい。

 ※依代・・・・「よりしろ」と読む。神が樹木に移って信仰の対象となることのようである。自然崇拝のようなものといえよう。

 この樹木の群生は山口市宮野上にあります。

200423


澄清寺跡

2008-04-28 19:22:50 | 歴史/古文書
 びっくりです。いつまでも歩いていっても澄清寺跡は見つかりません。里の奥深い一軒家のおばあさんに訪ねたところまだ15分ぐらい歩くそうです。

 しかし15分も歩かないで看板を見つけましたがその看板には【マムシに注意】と書かれていました。小川のように水の流れる中をマムシに気をつけながら歩いて行き170mぐらい山を分け入って入っていくとようやく墓標が見つかりました。

 この墓標は明治になって毛利家の人が建てたといわれています。なぜ大内氏の墓の墓標を毛利氏が建てたのか分からないのです。

 大内氏を滅ぼした懺悔の気持ちがどこかにあるのでしょうかよくわかりませんが???

 写真は澄清寺跡といわれる場所です。本当に山深いところでしょう?

脱隊諸士招魂の石碑

2008-04-27 19:07:40 | 歴史/古文書
 ここは山口市柊地区といって、江戸時代は毛利藩の獄舎があり刑場がそばにあったところです。

 明治3年に兵制のあり方を批判して、戊辰戦争等で倒幕に打ち向かい精魂込めて戦った長州軍5000名が2000人の常備軍を残し残りは除隊となり、わずかな除隊手当てをもらっただけの次男・三男の若者は仕事が無く困窮したのでしよう。

 それら旧奇兵隊士などの諸隊の人々の反乱というか暴動がおきたのが脱退騒動事件です。

 その勢力は増大して2000人ぐらいになり、一部は山口藩庁を囲うことになったので山口藩庁の常備軍2000人が鎮圧したのです。この暴動を脱退騒動というのですが、その首謀者はとらわれて、柊獄舎に入れられ斬首されました約36人ぐらい人が斬首されたといわれています。

 各地を含めれば総数150人ぐらいの人が処刑されたという。これらの霊を弔うため明治29年に宝キョウ印塔が建てられたということです。

 しかし宝キョウ印塔の銘文は漢文であり、読みづらいのです。もっとくだいた現代文での解説板がほしいところです。

 いずれにしても尊皇攘夷とかの思想を掲げ命のなげうって新しい時代を創った人々で論功の大小はあっても一命をささげたことの大小は無く、みんな等しく尊い命なげうったのです。そういう御霊を丁重に祀ったとものといえましょう。

観光案内板参照

大内持世の墓

2008-04-26 19:20:32 | 歴史/古文書
 応永元年(1394)の義弘の子として生まれました。叔父盛見の死後家督争いが弟と生じ持盛と雌雄の決戦をして勝ち、大内氏27代当主につく、その後筑前、筑後に出陣して戦いに勝ってほぼ九州を平定して幕府から周防、長門、豊前、筑前の守護職に任ぜられました。大内持世はなかなかの戦上手であったといえます。

 一方文化面では歌道に精通し、将軍足利義教から和歌の批評を求めたほど名声と優れたものを持っていました。「新続古今和歌集」の作者の一人にもなっています。

 そういった才気あふれていた人物は残念ながら嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍足利義教を暗殺する、嘉吉の乱で将軍足利義教に同席しており乱に巻き込まれ重傷を負い、1ヵ月後に亡くなりました。

 菩提寺は持世の建立した澄清寺です。この澄清寺の場所は今の常栄寺の北東の山深いところにあるます。今はそのお寺は跡かたも無く墓の墓標だけと観光案内板が残っているだけで誰一人として尋ねる人はいないさびしいところというか藪の中です。栄枯盛衰の有様が誠にこの目で確かめられるようなところです。

観光案内板参照

クラインガルテン記36

2008-04-25 22:11:16 | 園芸
 ガルテンには種を蒔いた芽が出たり、花が咲いたりと芽吹きの激しい時期となっています。ごぼうの芽が出たり、ジャガイモの芽が出たり、落花生の芽が出たり、山の芋の芽が出たり、タラの芽が出たり、木の芽が出たり、豆の花が咲いたり、かぼちゃの芽が出たりと元気の元がいっぱい・・・・活力を出しています。

今日はダイコンの種を蒔いたり、真桑ウリの種を蒔いたりしました。

 ガルテンに咲いた水仙の花です。今日の撮影です。

200419

松永周甫顕彰碑

2008-04-24 19:50:02 | 歴史/古文書
 幕末の山口の医師で本草学者であった。各地を旅行して薬草を持ちかえり陶岳の麓に薬草園を作って広めたといわれている。

 この近くに薬草園やくじゃく松しらが松などがあったといわれているが今は何も無くここの石碑のみが残っているようです。四辻から県セミナーパークへ行く途中にあります。

200320

宮野の足王神社

2008-04-23 11:17:36 | 歴史/古文書
 この足王様はクラインガルテンから約1キロのところの田園地帯にぽつんとあります。

 明治の初め頃までは洞泉院というお寺もあったのですが廃寺となり今は石塔の五重塔とお地蔵さんがあります。

 足の病にご利益があるというので拝んでいきましたが少しはご利益があるように感じますが気のせいでしょうか?