ここは聖福寺西門にあった町で西門橋のあるところである。秀吉の街割りで半減してもこのあたりまでが境内であったのであろ。かっての境内には350人の借家人がいて、魚町・店屋・普賢堂・西門など今もその当時の地名が残っている。これから推察すると境内は寺中町として外部との交わりは比較的薄い独特の町を形成していたものと思える。
博多駅近くの大博通りに面したところにある。唐から帰朝した空海(後の弘法大師)が創建している。場所は幾度かかわっている。博多大仏が無料で拝観できる。そのほか平安時代の仏像も展示してあり行ってみると面白い。大仏は室内にあるが高さ16メートルとかなりの大きさであった。
この唐門は名島城の城門を移築したものである。名島城は福岡城から5キロ離れた海沿いにある。
この城は天分年間に立花氏の立花山城の支城として築城されたものであるが豊臣秀吉が九州征伐のとき三原城主小早川隆景にこの城を守らせ整備させた。
その後隠居し小早川秀秋の代となったが関が原の戦いで秀秋が功あって岡山備前藩へ栄転となり(小早川氏の統治はわずか13年間であった。)後に中津藩から黒田長政が筑前に入ったが、52万石の城としては狭く今の福岡城にこの名島城の石垣や材木等を移築して福岡城を築造したのである、この唐門はその移築のときのこの黒田藩の菩提寺に移築されたものである。したがって名島城にはなにもなく跡形もなくなってしまっているという。
リサイクルして活用することを当時の人は「名島引き」と呼んでいた。
崇福寺唐門はしたがって築造年月は古く国の重要文化財となっている。
この城は天分年間に立花氏の立花山城の支城として築城されたものであるが豊臣秀吉が九州征伐のとき三原城主小早川隆景にこの城を守らせ整備させた。
その後隠居し小早川秀秋の代となったが関が原の戦いで秀秋が功あって岡山備前藩へ栄転となり(小早川氏の統治はわずか13年間であった。)後に中津藩から黒田長政が筑前に入ったが、52万石の城としては狭く今の福岡城にこの名島城の石垣や材木等を移築して福岡城を築造したのである、この唐門はその移築のときのこの黒田藩の菩提寺に移築されたものである。したがって名島城にはなにもなく跡形もなくなってしまっているという。
リサイクルして活用することを当時の人は「名島引き」と呼んでいた。
崇福寺唐門はしたがって築造年月は古く国の重要文化財となっている。
日本の経済はバブル崩壊後、大企業は復活したとこらや復活の兆しを示しているが中小企業特に小企業ではいまだ回復感は感じられない。
賃金ベースも19年1月から前年比が下がっている、地方財政の逼迫で地方の企業も衰退しているし、製造業の海外生産移転による下請企業の衰退、など雇用と地域の活性策はまだまだ十分である。
そういった中でビジネスインキュベーション施設が各県にあるのであるが、大きな成功例があまり聞こえてこない。IT産業や先進産業の国際競争力を創るのも一つの方法であるが日常の産業の中で独自性等の特色を持った起業や産地化が可能な産業の育成など系統的な活用も一つの方法であろう。
たとえば納豆とか、味噌とかが今海外で注目されているという・・・・日本食が世界的ブームようであり料理のレシピ付き日本食輸出産業を創るとか日本食料理の調理師を養成し世界に羽ばたき活躍させるとかの特色を出したインキュベーションによる起業育成振興が望まれる。
賃金ベースも19年1月から前年比が下がっている、地方財政の逼迫で地方の企業も衰退しているし、製造業の海外生産移転による下請企業の衰退、など雇用と地域の活性策はまだまだ十分である。
そういった中でビジネスインキュベーション施設が各県にあるのであるが、大きな成功例があまり聞こえてこない。IT産業や先進産業の国際競争力を創るのも一つの方法であるが日常の産業の中で独自性等の特色を持った起業や産地化が可能な産業の育成など系統的な活用も一つの方法であろう。
たとえば納豆とか、味噌とかが今海外で注目されているという・・・・日本食が世界的ブームようであり料理のレシピ付き日本食輸出産業を創るとか日本食料理の調理師を養成し世界に羽ばたき活躍させるとかの特色を出したインキュベーションによる起業育成振興が望まれる。
山口古図のパンフレットが欲しく、ある公民館に尋ねたところ一部残っていたので分けてもらった。うれしくて2・3日眺めている。今日は善生寺庭園について勉強会があるので出かけていった。考古学的発掘調査によれば木樋や土師器が発見されそれらの炭素分析からして1440~1520年代に西方寺の建立と庭園の作庭があったという確証が取れ県指定の名勝になったのである。
大内氏重臣・守護代の内藤興盛の菩提寺に間違いはないのであるが焼失し江戸期に萩の周慶寺が移築されている寛文4年(1664)のことである。それも焼失してしまい、毛利宗広が元文5年(1740)に再建したのが今日まであった。
しかし最近の台風で崩壊してしまい取り壊された。この周慶寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりのその仏閣をそのまま引き継いで善生寺が移ったのである。
しかし山口古図は江戸初期の慶長年間に作られ大内氏時代の町並みをほとんど変わりなく描かれていると謂われているがが、この善生寺が当時現存寺として描かれていてそのそばに前周慶寺、元西方寺と書かれている。これから見ればこの山口古図は明治初期に追記されたか塗りなおして明治初期の寺を現存寺と表しているのである。
したがって山口古図は100パーセント慶長年間の作製の古地図であるということには疑問が残る。慶長年間と大内氏時代の町並みや屋敷の箇所をよく記録されている古地図でもあるが明治初年に補正された地図ともいえよう。
いやもっと詳しく調べてみるとこの古地図は阿部家の旧蔵にあったもので明治26年当時光福寺の僧侶が保管していたのである。カトリックの宣教師でビリヨン神父がサビエルの軌跡を調査しているときキリスト教の裁許状に大道寺とかかれており、その大道寺を探すのに古老などに聞くもわからず古地図はないか探していたのである。やっとの思いで山口古地図を探したところ大道寺跡が見つかりそこにサビエル記念碑を建立したのである。
明治26年にその古地図が発見されたわけであるが原図を県の印刷局の能筆家が書き写し明治36年に県立図書館の歴史家がこれを複写したのがこれである。
原図は今はどこに散逸したかわからないのである。もし原図が見つかれば筆跡等で原図の作成年代がはっきりするのである。
しかしこの地図は各寺院の名前を見ると元禄3年以降に加筆されたものや文久3年以降加筆されたもの明治初年以降加筆されたものなどがある。しかし大内時代の寺院や家臣団の居所など具体的に記された古地図としては貴重なものといえる。
大内氏重臣・守護代の内藤興盛の菩提寺に間違いはないのであるが焼失し江戸期に萩の周慶寺が移築されている寛文4年(1664)のことである。それも焼失してしまい、毛利宗広が元文5年(1740)に再建したのが今日まであった。
しかし最近の台風で崩壊してしまい取り壊された。この周慶寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりのその仏閣をそのまま引き継いで善生寺が移ったのである。
しかし山口古図は江戸初期の慶長年間に作られ大内氏時代の町並みをほとんど変わりなく描かれていると謂われているがが、この善生寺が当時現存寺として描かれていてそのそばに前周慶寺、元西方寺と書かれている。これから見ればこの山口古図は明治初期に追記されたか塗りなおして明治初期の寺を現存寺と表しているのである。
したがって山口古図は100パーセント慶長年間の作製の古地図であるということには疑問が残る。慶長年間と大内氏時代の町並みや屋敷の箇所をよく記録されている古地図でもあるが明治初年に補正された地図ともいえよう。
いやもっと詳しく調べてみるとこの古地図は阿部家の旧蔵にあったもので明治26年当時光福寺の僧侶が保管していたのである。カトリックの宣教師でビリヨン神父がサビエルの軌跡を調査しているときキリスト教の裁許状に大道寺とかかれており、その大道寺を探すのに古老などに聞くもわからず古地図はないか探していたのである。やっとの思いで山口古地図を探したところ大道寺跡が見つかりそこにサビエル記念碑を建立したのである。
明治26年にその古地図が発見されたわけであるが原図を県の印刷局の能筆家が書き写し明治36年に県立図書館の歴史家がこれを複写したのがこれである。
原図は今はどこに散逸したかわからないのである。もし原図が見つかれば筆跡等で原図の作成年代がはっきりするのである。
しかしこの地図は各寺院の名前を見ると元禄3年以降に加筆されたものや文久3年以降加筆されたもの明治初年以降加筆されたものなどがある。しかし大内時代の寺院や家臣団の居所など具体的に記された古地図としては貴重なものといえる。
この建物は大内氏が滅び毛利輝元が防長2州に移封されてきたとき藩財政が破綻状態にあったとき黒田長政に相談したりして息をつないでいたのでである。
そのお礼かどうかしれないが大内御堀の大内重弘の菩提寺である乗福寺の本堂をこの寺いわゆる崇福寺として移築したのである。黒田長政に贈ったのである。
毛利家としては大内家が滅びたので寺を維持する必要がなくまた維持には金がかかるので黒田氏へ処分したといえよう。今の建物は綺麗に修復されている。どの部分に乗福寺の材が残っているのかわからない。
そのお礼かどうかしれないが大内御堀の大内重弘の菩提寺である乗福寺の本堂をこの寺いわゆる崇福寺として移築したのである。黒田長政に贈ったのである。
毛利家としては大内家が滅びたので寺を維持する必要がなくまた維持には金がかかるので黒田氏へ処分したといえよう。今の建物は綺麗に修復されている。どの部分に乗福寺の材が残っているのかわからない。
久しぶりにプールに行き1000m泳いで1000mウオーッキングして昼食後農園に行く。梅雨の半ばで土は水を含んでいて野菜類も元気の育っていた。
無臭ニンニクの収穫をして、後は植え付けのため畑を耕すがまだ大きな石が出てくるなど鍬の留め金が飛んで不明になるなど大変な作業でした。
ダイコン、ニンジン、シュンギクの種をほんの少しまいておいた。ほかにナスが3個、アスパラが8本、ダイコン5本、キュウリ4本、赤紫蘇を10本を収穫して帰る。赤紫蘇はジュースにするといっていた。
無臭ニンニクの収穫をして、後は植え付けのため畑を耕すがまだ大きな石が出てくるなど鍬の留め金が飛んで不明になるなど大変な作業でした。
ダイコン、ニンジン、シュンギクの種をほんの少しまいておいた。ほかにナスが3個、アスパラが8本、ダイコン5本、キュウリ4本、赤紫蘇を10本を収穫して帰る。赤紫蘇はジュースにするといっていた。
この山門は崇福寺の入り口に聳え立っています。黒田藩の福岡城の本丸表御門をここに移したものです。大正7年(1918)に陸軍から払い下げによって移築された。大きな材木と鉄を使った軍事的な門造りとなっていた。
ご結婚おめでとう
6月の花嫁は世界で一番幸せ者、いや宇宙一幸せ者。
いつも二人で語り合い、互いにいたわり合い、
心で話せる夫婦となってください。
明るくて楽しい家庭を築かれることをお祈りします。
また2世の誕生を楽しみにしています。
貧しいときも富まれるときも、悲しいときも健やかなときも病むときもお互いに支えあって行くことでしょう。
これからの新しい人生航路の門出となりますが、穏やかなときばかりではありません台風や荒波も来ることがあると思いますが二人してうまく舵を取り合って船頭二人とならぬよう協同作業で何事も乗り切ってください。
「朝は機嫌よく、書物を多く読め、万事に気を配れ、人を大切にする人は人から大切にされる。人間関係は相手の長所を見ることから始まる。仕事では頭を使い人間関係では心を使え、挨拶はされるものでなくするものである。美人より美しい心、よい人生はよい準備から始まる。」と勝手なことを書き込みましたが人生そんなに立派にはできません60点取れれば大往生でしょう。
かといって家庭を作るわけですから家庭経済の独立自営を築き保持発展していくことは最低限必要です。
6月の花嫁は世界で一番幸せ者、いや宇宙一幸せ者。
いつも二人で語り合い、互いにいたわり合い、
心で話せる夫婦となってください。
明るくて楽しい家庭を築かれることをお祈りします。
また2世の誕生を楽しみにしています。
貧しいときも富まれるときも、悲しいときも健やかなときも病むときもお互いに支えあって行くことでしょう。
これからの新しい人生航路の門出となりますが、穏やかなときばかりではありません台風や荒波も来ることがあると思いますが二人してうまく舵を取り合って船頭二人とならぬよう協同作業で何事も乗り切ってください。
「朝は機嫌よく、書物を多く読め、万事に気を配れ、人を大切にする人は人から大切にされる。人間関係は相手の長所を見ることから始まる。仕事では頭を使い人間関係では心を使え、挨拶はされるものでなくするものである。美人より美しい心、よい人生はよい準備から始まる。」と勝手なことを書き込みましたが人生そんなに立派にはできません60点取れれば大往生でしょう。
かといって家庭を作るわけですから家庭経済の独立自営を築き保持発展していくことは最低限必要です。
文明11年(1274)10月20日、蒙古軍3万が900隻の軍船に乗り、壱岐・博多を攻め来てこの箱崎宮も兵火により焼失したのである。
が翌日蒙古軍は消えており、残ったのはこの碇石で壱岐や博多に10本は見つかっている。
この石は朝鮮半島の蒙古軍の造船所のあった全羅南道の天冠山のものと同一といわれていいる。木材と組み合わせて碇(いかり)を作っているこの石に木材をはめこむぐぼみも見える。
が翌日蒙古軍は消えており、残ったのはこの碇石で壱岐や博多に10本は見つかっている。
この石は朝鮮半島の蒙古軍の造船所のあった全羅南道の天冠山のものと同一といわれていいる。木材と組み合わせて碇(いかり)を作っているこの石に木材をはめこむぐぼみも見える。