霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

若い起業家が増えつつある

2005-05-31 22:29:30 | 経営/法律
 山口市の駅どおりは最近若者向けのブティクや雑貨店、レストラン、ジーズン店等新規開業が多く山口の原宿とおおバーに言われている。今日の「サンデー山口」では20代30代の若者と女性の起業志望者が増えていると。ひところのITブームは去り普通のライフワークにかかわりアパレル、飲食、住宅、教育、などの業種の企業希望者が多いという。こだわりや新規性を前面に出した起業に人気が集まっている。

 これらの背景には国や自治体の創業支援体制、サポート体制の強化がある。金融面、投資会社、企業支援機関など林立している。商法も改正され1円資本金で会社も設立できる。県では「起業家資金」に加え山口銀行などと共同で立ち上げた『やまぐちドリームファンド』を04年から運用。国民生活金融公庫では今年4月から30歳未満を対象にした開業ローンを新たに設けるなど、融資制度も着実に充実してきている。また市では融資のほかに、小額ながら比較的ハードルの低い「企業化支援補助金」を創設。ソフトウエア業、デザイン業等の新規事業者等に対し、事業所開設費用上限100万円、販促費用上限20万円、通信費上限1ヶ月月5千円などを補助している。

 多産多死の中小企業ではあるが、起業は安易にできるものではなく、起業者の人物が大いに左右するのである。事業に適する資質が備わっているか。熱意、情熱、且つ忍耐力、冷静さなど経営者としての人格と且つ仕事力の蓄積が大事であろう。

「サンデー山口」一部引用

なぜ和解が多いのか

2005-05-30 21:15:51 | 経営/法律
 最近は提訴事件に対して裁判官は、しきりに和解を勧める。昔は提訴事件が少なかったかどうか知らないが。多分少なかったのであろう。勝か負けるかの判決で終結していたが最近は50:50,60:40といった痛み訳の和解を裁判官が勧告するケースが増えている。

 これは裁判件数が多くなったこと。迅速処理を求められる時代となったこと。等でスピーデイに処理をすることが最優先されているからではないか?

 裁判官の能力は処理件数の多いか少ないかで計られてしまう。したがって裁判官が論文を書くような判決書を起草するより当事者が和解案を申請しそれを調書として裁判上の和解をするほうがはやくて裁判官に時間がかからず手間を省くことが出来る。必然的に和解が多くなるのである。

 和をもって尊しとする。国民性があるのでそれがまた受け入れられていることの背景もある。ただ白黒をつけたいのに譲歩をして和解にするなど互譲の精神はよいかもしれないがきちっと契約を結んでいてもその契約をゆがめてまでも和解に応じることが是か非かという問題も出てくる。処理件数至上主義的なことよりもう少しよりよいものはないものか

05-05-25

興隆寺と大内氏・・・盛見の頃

2005-05-29 09:52:41 | 歴史/古文書
 義弘が堺で幕府と戦い敗死した。弟弘茂は幕府に降り、周防・長門両国の守護職の補せられて周防に帰ってきた。一方義弘不在中に勢力を維持していた、同じく弟盛見は一時豊後の難を避けていたが、反攻に転じて豊後から帰り、弘茂との間で家督を巡る兄弟の争乱となった。その結果、弘茂は応永8年(1401)12月長門の長府で敗死し盛見が勝利した。
応永8年(1401)4月に、興隆寺に対し、弘茂は祈祷料所を寄進したが、当時の弘茂の思いを表している。

1、朝鮮国に唐本一切経(大蔵経とも言う)を求める。
 すでに義弘が朝鮮で出版された一切経を持っていたが、唐本との違いを見ていくため、また違いがあるかを確認する為に求めた。
応永12年(1407)4月、使僧に朝鮮国政府宛の盛見の親書と贈り物を持たせ朝鮮国へ派遣した。
 贈り物は、環刀20把、扇子百柄、白檀50斤、硯50枚、筆100冠等

一切経を朝鮮国の求めるのは大事業であった為、盛見を始め一族・諸臣と周防国衙・寺院等多くのものが2回に渡り多額の寄付をおこなっている。1回目は合計84件で3万9千匹(一匹は銭十文)2回目は合計40件3万2千2百匹と別に馬1匹があった。これらのことは2冊の『氷上山蔵経勧進帳』の記録されて、初回寄付時の盛見の長門国人々宛の添え状とともに興隆寺文書に残っている。

2、2月会を盛大化する。
 大内盛見は、初政当時、当主として次々と興隆寺に関する施策を実施した。まず明年の2月会頭役を「大頭・脇頭・三頭」の役割を定めた。大頭は重臣、脇頭・三頭は郷村が担当するが、それぞれ祭事の費用を負担する為難渋し寺への年内納入が延引した。応永9年(1402)2月13日 多々良盛見(花押)が2月会頭役差定書としては一番古い。

 盛見は義弘に続いて、2月会の舞童料所を2回にわたり計100石の土地を寄進した。また舞童装束左右11具を京都で作製し寄進した。他にも使途を定めず寺領を2回寄進している。興隆寺の勢いはますます広大になる。祭礼も賑やかになる。各坊では管弦に励むことや舞児の養成の努めることなどが定められ。2月会は大内氏主催で盛大化した。

05-05-28

興隆寺と大内氏・・・義弘の頃

2005-05-27 23:02:33 | 歴史/古文書
 1、造営、寄進、2月会の整備
 父弘世の死後(1380死亡)義弘は永徳2年(1382)に2月会の射手役を勤めた事を発端に2月会に対して整備を進めた。この2月会は東大寺の2月会と同じくその当時寺院で広く行われていた(法会・行事のこと)逐次整備が進み義弘の頃から盛大な祭りとなった。当主と若子の参詣・巡拝が行われるようになり舞童や歩射などの祭事も行われた。2月会は特別に女人禁制を解き女性を含めた見物人を多数集めて開放的なお祭り見物を庶民に与えるとともに厳粛な行事として大内氏の権威付けを狙ったものであった。

 義弘は射手役については弓太郎(射手役頭)を一族の問田氏を定役とした。至徳3年(1386)には舞い装束左右11具を寄進し、明徳元年(1390)には舞童料所を寄進した。

 義弘は明徳2年(1391)には在京して活動していたが、興隆寺に対し、舞屋の造営・庁屋の上葺工事・門前の町屋の形成などに関して指示をしている。明徳3年(1392)1月には、前年の明徳の乱(山名氏清・満幸の氾濫)の際の戦功を賞されて足利義満将軍から和泉・紀伊領国の守護職の補された。義弘は早速堺に妙見社の勧請と舞童料所の追加寄進の考えを興隆寺に伝え、明徳3年8月に舞童料所を追加寄進したまた翌年には強風で大破した本堂の修理や舞童の諸費用・舞童料所の取り扱いなど細かなことも支持した文書を興隆寺に送っている。
また興隆寺自体の講堂料所も寄進している。

2、安芸東西条の地が大内氏の領地となる。
 安芸東西条は安芸の国賀茂郡一体を指す広域地名である。西条盆地の中心地で東西に分かれていたらしく、古くから東を東条郷、西を西条郷と呼んでいたらしいが、やがて一括して安芸東西条と呼ばれるようになった。
 大内義弘は応永元年(1394)氷上別当法印宛に東西条にある真言宗御室派寺院福成寺別当職を興隆寺に預ける書状を送っている。福成寺は興隆寺の末寺となったわけである。
 この史料により義弘の領地であったことがわかる。
 安芸東西条は大内氏の安芸の国の根拠地となったが、平穏に知行していたのではなく一時は幕府に没収されたり、あるいはこの地を巡って安芸の国人や尼子氏と何度も攻防戦が繰り広げられた。

 義弘は、応永の乱で、堺で幕府と戦い、2度目の戦で(応永6年12月・1399)、竹やぶの中で自刃し果てた。

大内文化探訪会『生涯学習公開歴史講座』受講に基づく
 

灰色カビ病

2005-05-26 21:50:24 | 園芸
 梅がすすけて、梅の実が種のみになっている。ゆすら梅は枝先が枯れ、葉も枯れていてゆすら梅の実も枯れている。何の病気かわからないが、おそらく『灰色カビ病』ではないかと思う。これは果実に水浸状の病斑を生じ同心円状にカビが生じて広がり腐敗が広がる。糸状菌、多湿時発生しやすい。葉では水浸状の褐色病斑になる。果実にはカビが発生したようになる。この糸状菌は土中で越冬する。翌春この菌核から風で飛散し第一次伝染していく。排水不良土壌や枝葉が繁茂しすぎたりすると発生しやすい。密植や、過繁茂にならないようにする。

ベンレートやボルドーを散布しておいたが果たして有効か?

05-05-20

木賊(とくさ)

2005-05-25 20:52:59 | 園芸
 今日も恋路農園で昼食を取った。うどんをなべで作って食べた。そのなべは竹炭で煮物や焼き物をしたので鍋はすすけたり焦げついたりで黒くなっていた。私は井戸端でたわしでこするもその焦げたものは取れずましてススも取れないのである。それが井戸端にある木賊を使ってこすると気持ちよいぐらいよく取れるのでなべ3個を全部キレイにした。鍋がきれいになるほど気持ちが洗われるようになる。と思い修行と思って作業を続けた。そのほか畑の草取り、果樹やヤツデのアブラムシ消毒など農園でのんびり過ごした癒しの一日であった。

05-05-22

農業のこれから

2005-05-24 23:29:54 | 経済
 米作の補助金の不正支給が全農で問題になっていて、米価を下げたり、謝罪をしたりしているが、あまりにも農業に対し保護政策が強すぎて補助金に依存している懸念が感じられるとはいいすぎかもしれないがそんな気がするのである。
 農業生産額はGDPの1・1パーセントと国内経済の中では小さいが『国土緑化保全』『食糧安全保障』の観点から保護されてきたが今はその意見は薄れてきている。全国の耕作放棄面積が20年前の約2倍、農業就業人口は25年前の約半分の362万人と減少している。今後も経済の国際化が進む中でいつまでも高関税で保護をし続けることが困難になってきている国際情勢もあるからである。

 これからは耕作面積が広い一定規模の『担い手』に対し農協を通じてではなく直接国が農家に補助金を支給し不正をなくす。また規模の拡大を助成するといった方向に転換し国内外の競争力を強める方向に転換されていくだろう。
農業就業人口      農地面積
1960年 約1450万人   約600万ヘクタール
1970年 約1100万人   約580万ヘクタール
1980年 約750万人   約520万ヘクタール
1990年 約550万人   約500万ヘクタール
2000年 約380万人   約490万ヘクタール
2003年 約362万人   約480万ヘクタール

05-05-20

散策して

2005-05-23 22:28:32 | 随想
今日は朝早く起きたので、約1時間散歩をした。途中に公園があるのでそこで懐かしい木があった。カシの木である。名は「マテバシイ」ブナ科。四日市に住んでいた時、南部丘陵公園で自然観察会に参加した。其のときマテバシイがあったのである。実は大きく、形も良いのですがツブラジイやスダジイと比べて大味なので待てばやがて美味しくなる。という意味の名前がつけられたといわれており散策の中で面白い名の植物だなと感心したものである。おいしいのはスダジイであった。油が乗っていて味も良い。

05-05-17

病害虫の防除

2005-05-22 08:48:19 | 園芸
 昨日は恋路農園にてサツマイモの苗を植える。ナフコ店頭で芋の苗を10本200円で売っていたがすごくしおれて今にも枯れそうであるので販売員に聞いてみると「わざとしおらかしているのです。しおれさすと活着がよく根が付きやすい。また活着するとこの苗は枯れていくので何の心配はない」と説明するので、『紅あずま』『なると金時』各20本計40本を買って植え付けした。しかし菜園の本を読んでみると苗を水にしたして少し元気になったところで植えると書いてあり。しまったと思ったが。植えた後「ジョロ」で水をかけておいた。活着出来るだろうか?

 梅などの「灰色カビ病」の消毒の為抗生物質を購入し散布しておく、また『アブラムシ』の繁殖もひどくスミチオン乳剤で防虫しておく。温州みかんと夏柑に吸汁虫が付いておりそれも同じように散布しておいた。

興隆寺と大内氏・・・弘世の頃まで

2005-05-21 21:14:19 | 歴史/古文書
 興隆寺の古文書は1282年以前のものはない。これは多々良一族の女性が僧侶宛に田地1町8反を寄進し隆盛を祈願した寄進状である。大内弘幸は父重広が死亡し跡目を相続した頃は叔父である長広(鷲頭氏の始祖)が南北朝の北朝側にいて力を誇っていた長広は周防守護職に任命されていた。叔父長広と弘幸は対立していて暦応4年(1341)鷲頭長広に放火され興隆寺を焼失した。9年後に再建している。

 興隆寺文書中の『仁平寺本堂供養日記』がある。大内弘幸は本堂を改修し供養会の実施を観応3年(1352)3月8日に行おうとしていたが3月6日に死亡したため世継ぎの弘世が7日遅れて取り仕切り供養会を挙行した馬の寄進は弘幸・弘世ほか家臣達から24匹に及んだ。その外のも多くの奉加物があった。
 
 弘世の興隆寺に対する大きな仕事は十坊による寺領の管理の仕組みを作ったことである。大坊、一乗坊、円乗坊など僧坊を10坊造り、寺領の中で起こった事件は各坊で責任を取るのでなく10坊全体の責任として処置をすること。大坊が別当職(長官)を務めること。と十坊で協議して寺領の管理をしていくよう永和4年(1378)「興隆寺跡御寄進所々所領所務事書次第」という法令を定めて十坊の結束と領主的立場が定められた。ここに興隆寺の大きな基盤が出来上がった。