霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

関が原の役後毛利家の動き

2006-10-07 19:51:27 | 歴史/古文書
 今日の講座は関が原の役後の毛利家がどのように国の経営と一族の団結を固めて行ったかという話である。1600年関が原の戦いが9月14日15日と行われたが東西両軍は約3分の2は戦ったが約3分の1は戦わなかった。しかし負け組みになった戦わなかった大名も、すべて領土を没収され、改めて徳川家康から新領地を受給わったのである。

 慶長年間徳川氏に虐げられたといわれているが、新しく給与を受けた新恩に対する奉公であって恩を受けた君主の江戸を警護したり、徳川氏の出先であって拠点である伏見城を修復するのもこれみな恩返しの1つで当たり前のことである。といわれてもそういった普請の為の費用や毛利氏の旧領地での借金返しの資金を防長領民は全国平均40パーセントの税率のところ73パーセント(出来高の3割が自分7割が藩に)も税を納めたのであるそれも14年間もである。あおりを食ったのは防長の農民や商人であった。

 なぜ毛利氏の居城が萩になったのかは諸説あるが、実際は防府でも萩でもどちらでもよかったのではないか、その当時京都の人口10万人、江戸も10万人、城下町で家臣1万人で人口4万人の町になるといわれていた。萩の人口は最盛期で2万人であったということは家臣5000人であったといえよう。

 なぜ山口に城が築城されなかったかというと、山口は大内の城下町として神社仏閣が多くこの当時山口周辺の山はそれらの修繕の為に大木は切られ禿山同前であったといえよう。

 また海産物が防府で昼水揚げされても夜に届くといった不便さがあった。また港もなく産業面(通商)でも不利であったので山口には城は築かれなかったと理由づけられる。したがって、毛利氏は山口に城を築く気持ちはなかったといえよう。

 それともうひとつの理由は山口には大内氏の家臣がまだ多くおり、またそれらに関わる神社仏閣も多く、また大内氏にかかわった商人や農民も多いそれらとの軋轢を避けるためにも山口築城を避けたといえよう。

 毛利氏は8カ国から2カ国になったわけであるが信長との戦いが1576年から始まり、朝鮮出兵等関が原までの1600年まで戦続きで戦費はみな借金でまかなっていたのである今のように年間収支をきっちり出して戦をするといったものではなく3年後までの年貢を借りて戦をしており、防長に移ってからその戦費を広島の福島氏や松江の堀尾氏から返還を求められ返済をしたのであるがそのあおりは防長領民にのしかかっていて二百数十年間で全国で一番税金を多く払った領民といえるのである。

 秀吉時代の朝鮮出兵の頃が一番領民としても家臣としても不満が多かったといえよう。それが関が原の役で収束を迎えたはずが防長領民にはそれ以降も長く圧制が続いたのである。そのため一揆の発生や他藩への逃亡者も増え小倉には長州村ができるほどであった。

 そもそも毛利氏は安芸の吉田盆地の国人領主で、毛利氏の殿様が野良仕事をしたり水路の普請の出たりといった和気藹々の国人領主であり親族等の寄り合いで政をしていた領土が大きくなってもそのシステムは変わらず、地下の祭りがあるのでと戦場から帰国していたりする自由さがあった。今の自治会のような寄り合い政治であったのである。毛利氏は同盟関係の盟主の立場であった。

 信長のような政治や秀吉のような縦の組織でなく横の団結の組織(同盟関係)であったといえよう。官僚的な仕事は石田三成の頃からである。

 毛利氏は新領地を給わってまず一門の結束固めをしている。吉川広家と毛利秀元は関が原の役の前の津城攻めの時も意見が食い違いでけんかをしている。関が原の役の時も秀元がもう戦に行こうというも広家はまず腹ごしらえをしてからと戦に出ることを止めている。再度戦に出ようと秀元が発すると広家が戦の前の腹ごしらえをしてからと空弁当を食って参戦させなかったという因縁があって仲が悪いのである。それを毛利輝元は仲介の労をとって一門を団結させている。

 毛利輝元による毛利氏の再建進行(不満の多い家臣は粛清する)などによって、吉川広家主導の一門統合が進んだ(主な一門から起請文を交換する)。また一門と広家与党の益田元祥(実務能力が高い)が政権に参加し領国経営に貢献した。徳川氏の幕藩政治を利用して(毛利一門が徳川氏の家臣になることを防いだ。支藩の独立を防いだ)近世萩藩政の確立を図った。などで萩藩のばたばたした落ち着きのない体制を少しずつ建て直して行ったのである。

毛利博物館 柴原直樹学芸員の話を聞いて