霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

梅の満開

2005-03-31 20:50:15 | 随想
 桜の咲き始めるこの季節に3月25日はヒョウとみぞれが振り寒さが戻るなど異変が生じている。3月20日の11時には震度4の大揺れが生じるなど玄界灘地震のすごさを味わうところであった。我々はちょうど津山あたりをうろうろしていて何も感じなかったのである。
 恋路農園の梅ノ木が満開となりこれからの春の農作業は種まきが始まる農作業初めにあたる時期になってきた。今年は野菜の種類を増やしており真に生育していくか心配でもある。基本は土作りにあるのでその基本をはずさない。栽培を行いたいものである。

 梅ノ木は満開になったのであるがシュガープルーンの木が一向に花を咲かせないのである。どうしてか原因も分らず。頭をひねっているがなんともならないのです。いい知恵はないものですかね

嘉村磯多の生家

2005-03-30 20:35:52 | 随想
 3月26日山口市仁保上之山という山深い山地に行ってきた。そこは磯村幾多の生まれた家がそそまま残っている。今は居住者はいないが、最近まで住んでいた生活感が残っている。

 表札は「嘉村栄」となっている。近くに嘉村磯多の墓があり37歳で早世している。東京に出て法政大学で哲学を学び、東京帝国大学でも聴講していた。そのころは本ばかり読み頭が悪くなってしまうと手紙に書いている。私小説家として名をはせた。

 いくら都会に住んでも私は故郷の土の下で死にたいと故郷のことを肌で感じ離れられない存在だといっていた。
 
 仁保では中学を出てすぐに代用教員になるなど秀才であったといえる。在郷の人と結婚をしたが、山口の人と不倫に走り駆け落ちをして都会に出た。その後勉学にいそしみ作家となったが作家活動は6年で早世したのである。

島原の太夫(夜の京)

2005-03-29 21:26:20 | 随想
 平成17年3月18日、島原太夫の夜の観光がこの日を持って終了という記念すべき日にめぐり合わせ非常にラッキーであり、最大の思い出となったのである。毎日放送が最後の日ということで取材に来ていた。
 
 島原は400年前東本願寺の隣にできて新屋敷と呼ばれていた。寛永18年当時の奉行の行列に太夫が駕籠に乗って通ったことを怒り『太夫』分際で駕籠とはと・・・そのため花街は西本願寺の近くに移り西新屋敷と呼んだしかしその当時天草四郎の島原の乱が起こりその乱のように花街がゆれたので誰ともなしに島原と西新屋敷が呼ばれるようになった。日本最初の公認の郭であったところでる。現在も東入口にはもと正門だった大門が立ち、角屋(すみや)、輪違屋(わちがいや)などが残っている。

 濃艶な衣装を着てお菓子を差し出す「かしの式」お客に裏千家流で抹茶を出す「お点前」高い闊歩のゲタを交差しながら歩く「太夫道中」などを見た。式を行ったのは「司太夫」という名の太夫である。

 ここは吉野太夫が有名で4月の命日には太夫が墓に参る儀式。お祭りがある。

 公家や豪商が遊びにきていたのである。和歌や俳諧、謡など、また茶道稼動など芸道・奥義をきわめ高い地位と見識を持っていた。

 最後に太夫自ら涙を浮かべながらのお別れの言葉に感動したのである。

祇園舞妓の京舞

2005-03-28 20:54:25 | 随想
 3月18日は夜、祇園に出かけ『一力』などがある錬舞所で舞妓サンの踊りとまた舞妓サンと一緒に写真を撮る。
都踊りは、明治5年京都大博覧会で井上八千代師匠によって作られた井上流の京舞が今も続いている100年以上にもなる伝統ある都踊りである。「よいやせー」の掛け声が有名です。

 10月下旬に「恩主会」で日ごろの錬舞を披露する。12月末には「事始め」としてあいさつをする。1月7日は「舞い扇」をもらい仕事を始める。

 舞妓は15歳から20歳まで。髪は地毛で「だらり帯」袂の長い着物を着る。かんざしは3月は水仙、4月は桜等12個を準備する。月々変える。それ以上持っている。20歳になれば床替えとなり着物は普通の着物、髪は「かつら」に変わる。

 今日踊ったり、一緒に写真を撮ったりした舞妓さんは18歳で名は「千賀寿」(ちかず)サンという面長な涼やかな顔立の現代風の美人の舞妓さんであった。

「千賀寿」(ちかず)サンが踊ったのは「六段くづし」と「祇園小唄」の2曲であった。

手おけ弁当・六盛

2005-03-27 20:25:14 | 随想
 手おけ弁当「ろくせい」とよむ。明治のころ「手おけ」による京料理を盛ったところ人気となり、今日まで続いている店である。
 藤原文化の極み六勝寺の地で、四季折々の京料理をめでる。

平成17年3月18日「夜の観光コース」「京料理と祇園舞妓・島原太夫」での食事である。

メニュー
手おけ弁当 3,150円
手おけ弁当都 5,250円
季節の懐石料理 10,500円~21,000円

首途八幡宮(義経奥州への門出の地)

2005-03-26 18:42:05 | 随想
 首途と書いて「かどで」とよむ。昔の人はみなそう書いていたと説明員の人が行っていた。ここは金売り橘次の館跡で井戸が残っていた。江戸時代の風土記等を書く人が調べたところ、鞍馬山から下りてきて義経が橘次邸から奥州平泉の藤原秀衡の許へ出発つ時この八幡宮を参り道中の安全祈願をしたといわれている。義経が旅立ちを祈願して出世したことで縁起のいいお宮といわれている。本来は平安京都の北東を守る神社、皇域鎮護の杜である。皇室の尊崇も厚かったといわれている

 神社の古文書は幾たびの戦災と火事で残っていなく明治以降の文書が陳列されていた。社宝はないのである。

 八幡宮の拝殿に上がり宮司さんが歓迎の挨拶をした。昨年の12月までは誰もおとづれる人が居なかったが12月頃から増えてきてNHKの大河ドラマ「義経」の奥州への旅立ちが放映されたところでこれから京とは一時出なくなるので今がピークではないかと。来年は誰も来なくなるひと時の賑やかさをニヒルに言っていた。2礼2拍手1礼で祈祷した。その後お祓いを宮司様から受けた。

左阿彌(京に冬の旅)

2005-03-25 17:43:32 | 随想
 有名な織田信長の弟織田有楽斉の二男頼長が出家して雲生寺道八と名乗りここで有楽斉と2人は茶道を起こし極めたといわれている。
 左阿彌の由来は、正阿彌、春阿彌、庭阿彌、連阿彌、也阿彌、左阿彌の六阿彌といわれていました。今も残っているのはこの左阿彌だけです。
この正面玄関門にある「左阿彌」題字の額は頼山陽の高弟易安の書である。
 
 江戸時代安養寺のある東山辺りでは遊興の地として大変にぎわっていて、当館もにぎわっていた。嘉永2年(1849)料亭となり今日に至っている格式の高い料亭であるまた大文字焼の眺望が良いところとして人気が高い。

 ここは書画骨董が多いと感じられた。
昼食の料理を食したがみやびな風味であった。それがこの写真である。

メニュー
お昼の京懐石  9,660円
        12,075円
        18,112円
華御膳     6,641円

夜の懐石 12,075円~35,000円   左阿彌名物 筍料理9,660円

長楽寺(建礼門院)

2005-03-24 21:39:54 | 随想
 平安時代の延暦24年(805)に桓武天皇の命令により最澄が建立した寺で後の室町時代には国阿上人が時宗に改宗して今日に至る。もともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持った有名な寺であった。大谷廟建設の幕命に境地内を割かれ、明治初年境内の大半が丸山公園に編入された。
 
 寺宝は一遍上人像がある(重文)アゴが長くやせた細長の顔が反っていて目はぎょろりと光っている。これも水晶が埋められている。
 また布袋さんの像で一番古いものがある、自然の笑顔をだし無邪気な笑顔がなんとも言えずすばらしい表現である。泥でできた塑像で1000年以上も保たれていること自体不思議である。

 書院庭園はもみじのきれいな庭園で、ある大きな庭園の試作庭園として相阿弥が作庭したものである。

 源平合戦の壇ノ浦の戦いで建礼門院は入水を図ったが源氏方の熊手で長い髪を掻き上げられ入水できずこの寺に預けられた。ここで仏門に入り平安の滝で修業したといわれている。安徳天皇が身に着けていた御衣で作った仏幡が唯一安徳天皇の形見としてのこってる。

この寺の鐘がいわゆる平家物語に書かれている「祇園精舎の鐘の音」といわれている。

法住寺(義経・清盛ゆかりの地)

2005-03-23 22:34:48 | 随想
 1181年清盛死亡。1182年法住寺合戦でこの寺が焼失、法皇の御殿(六条御殿)も焼失。後白河法皇は66歳でなくなった。当寺の法華堂に埋葬さてて居る。法住寺本堂から見れば東の方向に見える。
 この寺は後白河法皇が院政を敷いた場所で院の御所と呼ばれ、これから33年間院政が始まったその元となるのである。
この場所は後白河法皇の御陵を守護とする寺。新法住寺として建立されたものである。いまも旧法住寺御陵正門が残っている。これはその当時をしのぶ貴重な遺産である。
 ここの本尊は不動明王で法住寺合戦のとき木曽義仲が院の御所に攻め入った時、後白河法皇が難を逃れた事から身代わり不動とも呼ばれ、サザエさんの漫画の作家である長谷川マチ子さんもこの不動尊を信仰していてサザエさんの漫画の原画が3点飾られていた。
 ここには、そばくい親鸞像があった。これは親鸞が延暦寺で修行をしている時、親鸞が食事担当であったがそばが一つ残るはずであったが、残っておらず、詰問された時、仏像の唇にそばを着けてこの仏像が食されたと説明し難を逃れたという逸話を元に親鸞自身が30代の若い時に自分の自画像を彫った貴重な彫刻である。
 またここの住職がその当時はやった「今様」詠ってくれてわれわれも一緒に歌った。リズムは福岡民謡の黒田節と全く同じであると聞きまさにその通りであった。1000年前の今様が現在生きていることに感動を受けた。
 後白河法皇は今様20巻を歌集として残している。
 今様とは神仏にささげる歌

運慶・湛慶坐像(六波羅蜜寺)

2005-03-22 20:01:00 | 随想
 鎌倉時代(重要文化財)
 鎌倉彫刻の第一線の仏師。わが国の彫刻の黄金期を築いたといわれる運慶・湛慶(運慶の長男)の親子の像。六波羅蜜寺の十輪院は運慶一族の菩提寺であった。その関係で本尊の脇侍のような形で祀られていたといわれている。

 六波羅蜜寺の六波羅蜜とは仏教の六道を示している。忍辱(にんにく)、精進など6つの修行をいう。