霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

大船院西方寺

2011-11-29 11:34:48 | 歴史/古文書

京都府中ではあまり観光客の行かない名所を廻ったりしました。今日はフリーな一日を過ごすことになりました。この西方寺は承和年間(834~848)に円仁(慈覚大師)が創建されたと伝えられる古い古刹でした。初めは天台宗山門派であったのが正和年間(1312~16)に浄土宗に改宗されていた。毎年五山の送り火で有名な船形が点火されるとこの境内で重要無形文化財の六斎念仏が唱えられることで有名なお寺です

千早赤阪村の建水分神社

2011-11-28 12:55:38 | 歴史/古文書
建水分神社とかいて(たてみわけじんじゃ)と呼ぶ、歴史資料館からバスで5分ぐらいのところにある。この神社は古く、紀元前92年ごろからあるといわれ、金剛山の水を祭る神様である。したがって古くからの農耕に関する神であろう。水を分け司る神様ということで太古から水に対する争いは絶えなかったのであろう。
 加茂氏が建という名を使っていた。建とはたけだけしい、はなばなしい、という意味である。加茂氏の先祖と関係あるかもしれないと。楠木氏の出自は金剛山の水銀採掘販売業者であったとか、大和川の船問屋であったとか言われているとのガイドの説明でした。階段を登ったところにこのような拝殿があってその上の階段を登ったところに本殿があるのです。
本殿は木の陰にかくれてよく見えませんがここの本殿はめずらしく向かって右に左殿、向かって左に右殿、真ん中に中殿と三つの神様を祭っていてそれぞれ渡り廊下でつながれている特色があって全国的にめずらしいものである。との説明を受けた。私は所要があってここで研修旅行を切り上げました。しかし歴史資料館の方とガイドの方にバスの時刻を調べていただき、またガイドさんにはバス停の場所までも教わるなど過分の親切を受けました。赤坂村の歴史資料館の方とガイドさん本当にご親切ありがとうございました。おかげで私的な旅行も楽しく過ごせました。

上赤坂城出城

2011-11-25 09:33:24 | 歴史/古文書
下赤坂城跡は今の中学校あたりを中心に台地上にあったのです。バスで通過しただけでグランドでは中学生が野球の練習をしていたのですがそこが本丸跡にあたるのです。

 写真に見える丘は上赤坂城の出城の一つで今は「奉建塔」が立っている。「非理法権天」とかかれ「非は道理に勝たず、道理は法に勝たず、権力は天命に勝たず」と読むらしい。正成の旗印でもあったらしい。楠木正成が後醍醐天皇に言上した言葉といわれている。

 1331年9月の正成はこの城で挙兵し、北条方から10月17日から21日にかけて激しく攻撃されたが風雨に紛れてのがれ紀伊で城を奪ったりした。その後も再三この赤坂で攻防戦が繰り広げられ、その隙に手薄となったか鎌倉を新田義貞が攻めて鎌倉幕府(北条高時31歳自刃)はついに滅亡に至ったのである。ときは1333年5月のことである。建武の親政始まる。

楠木正成生誕地

2011-11-23 19:31:09 | 歴史/古文書
千早赤阪村のくすのきホールと村立歴史資料館のある台地にあります。歴史資料館ボランティアガイドの方のこれから千早赤阪村を案内していただきます。ここが正成の誕生地として比定できたのは、くすのきホール建設のとき発掘調査をしたところ環濠のある屋敷跡がみつかったこと。おそらくこの地方の豪族の屋敷であろうということで楠木正成が生まれた場所として石碑が建てられていいる。またもう一つはこの地の小字が「大将軍」となっていることからも昔からこの地は武将の屋敷であったといえる。これらの2点から正成生誕地とされている。

南妣庵(なんびあん)母子像

2011-11-22 09:26:25 | 歴史/古文書
正平3年(1348)楠木正成が四条畷の湊川で討ち死にしたのですが足利尊氏から打ち首を千早赤坂に運ばれ妻久子等子供たちが見て、戦のむごさを示したのであるが。そのとき子の正行は伝来の短刀で自刃を図ろうとしたが母が苦しいかもしれませんが我慢をしなさいと諭した場面が石造として表現されているのです。いやすいません石造かと思ったのですが銅像らしいのです。

楠木正成の像

2011-11-21 09:23:33 | 歴史/古文書
南妣庵の正門横にはこの像が見られます。妻久子を守っているように見られます。この石段は急ですし、また里に出る道も急な下り坂でした。楠木正成の一族は足利時代いわゆる室町時代は逆賊として見られていたため、建立物などは残っていなく屋敷といわれる場所も謎である