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加茂氏が建という名を使っていた。建とはたけだけしい、はなばなしい、という意味である。加茂氏の先祖と関係あるかもしれないと。楠木氏の出自は金剛山の水銀採掘販売業者であったとか、大和川の船問屋であったとか言われているとのガイドの説明でした。
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写真に見える丘は上赤坂城の出城の一つで今は「奉建塔」が立っている。「非理法権天」とかかれ「非は道理に勝たず、道理は法に勝たず、権力は天命に勝たず」と読むらしい。正成の旗印でもあったらしい。楠木正成が後醍醐天皇に言上した言葉といわれている。
1331年9月の正成はこの城で挙兵し、北条方から10月17日から21日にかけて激しく攻撃されたが風雨に紛れてのがれ紀伊で城を奪ったりした。その後も再三この赤坂で攻防戦が繰り広げられ、その隙に手薄となったか鎌倉を新田義貞が攻めて鎌倉幕府(北条高時31歳自刃)はついに滅亡に至ったのである。ときは1333年5月のことである。建武の親政始まる。