この寺は大内氏22代・大内重弘が開基となって創建された。始祖琳聖太子の墓、いわゆる供養等がある5輪の石塔である。当時の大内氏の氏寺であった。いまはその当時の荘厳さや華麗な色合いも見られず伽藍も減って門や塀も崩れている。何か廃寺に近づいた感じで観光地ともいえない。モット住民の力添えが必要であろう。
元応2年(1320)大内重弘がこの寺に葬られている。延元元年(1336)北朝の勅願寺に指定されている。貞和元年(1345)足利尊氏が諸国に安国寺・利生塔を定めたとき当寺を以って周防国のそれに当たらせたといわれていいる。
その後大火で焼失しさびれたが、大内義隆が再建している。寺伝では塔頭26、末寺88カ所もあったというが、面影はない。大内滅亡後、毛利輝元は財政破綻したのでこの寺を博多の崇福寺に売却した。いまは塔頭であった正寿院が本堂に座っています。
幕末坂本竜馬が長州藩士と薩長連合の相談をした場所としても名をとどめているのである。これは知らなかった。
同寺の観光案内板を参照
180514
元応2年(1320)大内重弘がこの寺に葬られている。延元元年(1336)北朝の勅願寺に指定されている。貞和元年(1345)足利尊氏が諸国に安国寺・利生塔を定めたとき当寺を以って周防国のそれに当たらせたといわれていいる。
その後大火で焼失しさびれたが、大内義隆が再建している。寺伝では塔頭26、末寺88カ所もあったというが、面影はない。大内滅亡後、毛利輝元は財政破綻したのでこの寺を博多の崇福寺に売却した。いまは塔頭であった正寿院が本堂に座っています。
幕末坂本竜馬が長州藩士と薩長連合の相談をした場所としても名をとどめているのである。これは知らなかった。
同寺の観光案内板を参照
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