今朝は久しぶりに好天となり、いそいそとトレーニングセンター、スポーツセンターに出かけていきました。若い人も来ていてやる気があふれていました。練習ゲームを3回やりましたが勝ったり負けたりの繰り返しです。でも汗をかき練習するので体が動くようになり。まさに秋のさわやかな天気、秋晴れのようでした。

おもてなしの極意とかサラリーマンの処世術として有名な話の一つになっています。石田三成は長浜駅から5キロメール東の長浜市石田町で生まれた土豪の息子でした。今も出生地近くの地名は三成の官途名「治部」という小字の地名が残っています。
「三献の茶」の話が有名である。
長浜城主は羽柴秀吉が鷹狩に出ていたとき、途中観音寺に立ち寄ったのです。汗をかいていた秀吉にお茶を献上するのですが。秀吉の汗をかいている状況を察し、寺の小姓佐吉少年は最初はぬる目のお茶を出し、ごくごくと飲んだ後は少し熱めのお茶を茶碗半分に出し、秀吉は少なかったのでもう1杯所望し三度目は熱い茶でお茶のうまさを出してもてなしたという。気配り上手で後に佐吉少年は秀吉に用いられ歴史に名を残した石田三成となったのである。
観音寺には今でもそのときお茶に使った井戸が残っているとのことです。

この曳山博物館は長浜黒壁ドラマ館の前にあります。
曳山は長浜八幡宮の祭礼のときの山車で特に子ども歌舞伎は全国的に有名です。
この祭は秀吉が長浜城主であったときから始まったのです。待望の男児誕生を祝って長浜の町衆に秀吉が祝いとして砂金を与えたのです。その砂金を元手に曳山を作り、秀吉が再興した長浜八幡宮の祭礼で曳き回し始めたのが始まりといわれている。しかし豪華な装飾を用いた山車や子供歌舞伎は江戸時代中期から始まったものといわれています。

ようやく江・浅井三姉妹博覧会会場めぐりの終着点に着きました。入口には武将姿とお姫姿の人が立って観光客を歓迎していたようですが、何かの用件でしょうか中へ入っていってしまいました。残念歓迎を受けられませんでした。
この会場は長浜の黒壁の街の中にあります。大河ドラマが今回で50作品目の節目となることを記念して第1作目から50作目までの中で北近江に関わる作品をコンパクトにまとめて放映してます。第1作目の「花の生涯」など紹介されていました。


この日は観光客が多く、バスは臨時便を出すなどで対応は一応していたのですが、小谷・江ふるさと館で次の会場行きのバスを待つのですが30分行列を作って待つもバスに乗れないのです。また次のバスとなると30分後になるのです。このときはマイクロバスが10分後に着たので40分待ちで乗れました。10分の乗車で「浅井・江のドラマ館」に着きました。ここでは大河ドラマで使用されている三姉妹の着物や信長の甲冑、脇差、市の短刀などが陳列してあります。ドラマのロケの様子も映像で鑑賞できます。

この像は浅井長政の家族で、長政、市、万福丸、茶々、初、江の6人家族となっていました。
ここで次の博覧会場に行くため博覧会シャトルバスを待っていた。30分待ってようやく来たのであるが満員で私の前の列から乗れなくなり、もう30分待ちとなったのである。合計1時間待ってバスに乗るなど、もう少し利便を考えてもらいたいものである。
次に来たバスは臨時バスが1台付いてきて全員乗車できたのであるが臨時便を出すのが遅すぎます。旅する人は時間が限られていますので考えて欲しいものです。

11:30初の登山マイクロバスに乗るため並んでいたのですが、先にチケットをかわなくてはだめというので12:00まで待たされました。13:15には下山をしたのですがこの小谷城跡は中世の山城としては全国で5指にはいる規模のものとガイドさんの話でした。秀吉によって破城にされ石組みも壊れたままの状態で破城の状況が良くわかる貴重なものかもしれません。近世のお城と比較すると見栄えはよくはありませんが中世の土塁と石組みを使った城構えは見事なものでした。
観光ボランテイアの語り部の方の話では
1、戦国の山城、攻防戦を語るならこの城は全国的にも攻めにくく守りやすい城である。全国の五指にはいるものと
2、必要以上に整備されていなく、破城当時の姿が生きている城であると
3、琵琶湖を遠謀で祈願かに広がる景色は戦国末期から均整に至る歴史を見ることが出来る眺望であると
4、大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の浅井三姉妹の誕生の地でドラマの原点の場所であると自慢されていました。
写真の看板絵図は「小谷・江ふるさと館」に掲げてあるものです。
小谷城ガイド「語り部」の案内は番所跡から本丸跡までの往復1時間の歴史探訪でした。「小谷・江ふるさと館」から小谷山中腹の番所跡まではシャトルバス「小谷城バス」(マイクロバス)が出ていて片道5分で着きます。

ここを右に行けば赤尾屋敷跡にいける石標です。浅井氏の重臣赤尾氏は唯一城郭内に居住できる家臣であって浅井シの信認が厚かった家臣であったとガイドの方の説明であった。



本丸跡来たにある大規模な掘りきりの跡。番所跡から本丸跡までを一つのかたまりにまとめる大きな区切りの堀となっている。写真は本丸跡から大堀切を真下に覗いた写真です。深さが余り出ていませんがかなり深い感じが実感ではしました。
天主など城の中心となる建物があったと推定されている。南側に石組みがわずかに残っている。北側にはこの城祉で最大の深さを持つ大掘り切りがあってここが城郭の一区切りになっている。

本丸跡の絶つとここにも小さい建物礎石が見つかっている。江戸時代の記録では「天主とも、鐘丸とも」と記載されており、ここが本陣的機能を持って鐘で合図をしていたのかもしれない。

本丸跡の絶つとここにも小さい建物礎石が見つかっている。江戸時代の記録では「天主とも、鐘丸とも」と記載されており、ここが本陣的機能を持って鐘で合図をしていたのかもしれない。
